夕方からバイトが入っているが、それまで、束の間の休息を取る。
眠気を覚ますためにコーヒーを飲みながら大学の課題に取り組んでいると、ドアをノックされた。
「アニキ、入っていい?」
「おう」
振り返ると、妹が思いつめた様子で部屋に入ってきて、俺のベッドの上にすとんと腰を落とした。
俺は椅子ごとくるりと妹の方を向き、コーヒーを一口啜って、妹の様子を見る。
相当思い詰めているらしく、深い溜息が漏れる。
「どうした?悩み事か?」
こくりと頷くと、妹は顔を上げた。
「ねぇ、アニキ。キスの仕方教えて」
俺はコーヒーを盛大に噴出しそうになってむせた。
「げほっ、ごほっ……はぁ!?何で!?」
「あのね……今日、政宗がうちに来るの。でね……昨日、キスされそうになって……」
とうとう妹も他の男のものになると思うと、どこか寂しい気持ちになる。
そんな俺の気持ちも知らずに、妹はますます暗い顔になって続けた。
「私が緊張してたからいけないのかなあ。政宗、途中で止めたんだよね。で、今日、期待してるって…。ねぇ、アニキ、どうしよう!!私、上手く出来なくて、今度こそ政宗に嫌われちゃうかも!!」
俺の方が溜息を吐きたくなった。
昨日、手を出そうとして、そこで思いとどまったのは、きっとこいつが今みたいに思い詰めていたからだ。
その気になれば無理矢理にでも唇くらい奪えるのに、そうしなかったのは、独眼竜がそれだけこいつの事を大切にしているからだ。
キスの上手い下手くらいで別れるなんて有り得ねぇ。
「キスくらいぶっつけ本番で何とかしろ」
「そんなぁ〜。ねぇ、アニキ、教えてよっ!!アニキ、モテたんでしょ?」
「馬鹿言え!何で過去形だ。現在進行形でモテモテだ」
「じゃあ、尚更知ってんじゃん!!ねぇってば!!」
「知るか!!」
何が悲しくて、妹にキスの仕方なんて教えなきゃいけないんだか。
それも、他の男に手渡すために。
俺は、妹に背を向け、またコーヒーを一口啜り、専門書に目を落とした。
それでも、妹が部屋を出て行く気配はない。
「む〜。アニキのケチ〜。キスだって色々あるじゃん」
尚も食い下がって、妹は俺に聞こえるようにぶつぶつと文句を言っている。
無視だ、無視。
そのうち諦めて部屋を出て行くに違いねぇ。
そう思いながら、専門書に目を落とすものの、なかなか集中出来ない。
ちくしょう!
なんだって、俺にこんな相談すんだよ!!
軽く聞き流していたのに、妹の台詞に、俺はまたしてもむせた。
「舌ってどう使えばいいのかわかんないし。さくらんぼを口の中でちょうちょ結びにするのとどう関係あんの?反応なくてマグロって思われるのもヤだし。でも、どう反応すればいいかわかんないもん。リハーサルしたい!!そうだ、親泰でもつかまえて…」
「ちょーっと待った!!」
俺は焦って振り向いた。
弟を犠牲にする訳にはいかねぇ。
「頼むから、弟は巻き込むな。な?」
「アニキ!!」
ようやく相手にされたのが嬉しかったのか、妹の表情が輝く。
俺は、やれやれと溜息を吐いた。
「お前ぇ、どっからそんな知識仕入れてきた?」
「ん?雑誌とか色々」
俺は頭を抱えたくなった。
確かに、俺がずっと睨みをきかせていたから、色恋沙汰には疎い妹だが。
世間に出回るいかがわしい雑誌ですっかり耳年増になっているようだ。
「あのなあ。しろーとがいきなり舌なんか使うな。犬猫じゃあるめぇし。自然にしてりゃあいいんだ、自然に」
「自然にって言われても、そんなの無理だよ!!昨日だって、すごく緊張しちゃって政宗、途中で止めちゃったんだよ?勢い余って歯がぶつかったりしたら最悪。きっと痛いし、ムードもへったくれもないよ。うぁああん、そんなのヤダぁああ!!」
これも、雑誌から仕入れた知識か。
思わずまた溜息が漏れる。
「ねぇ、アニキ!リハーサルさせて!!」
全くこいつは、これがファーストキスだって自覚してねぇな。
俺は立ち上がり、妹の隣に腰掛けて、頭を小突いた。
「お前ぇ、ファーストキスを兄貴に捧げるつもりか?好きな男のために取っとけ」
「えー?家族はノーカウントだよ?小さい時にお父さんとお休みのキスしたもん。アニキともしたじゃん」
「あ〜?そうだったか?」
「うん、そうだよ!」
そう言われてみれば、したような気もするが、こいつが今して欲しいキスは、そういうちょっと触れるだけのキスとは訳が違う。
「ねぇ、アニキ!」
甘えるように俺の首に両腕を巻きつけて、妹が俺を見上げる。
こうして改めて見ると、我が妹ながら実に可愛い。
今まで、誰のものにもならなかったのが不思議なほどだ。
まあ、独眼竜への軽い嫌がらせだと思えば悪くもねぇか。
妹のファーストキスを奪うなんてどうかしてるが、こいつが言うとおり、小さい頃はキスもしていたみてぇだし、今更、か。
「仕方がねぇな。いいか、親父とお袋には絶対内緒な?」
「当たり前だよ!言う訳ないじゃん。こんなことアニキにしか相談出来ないし」
「これからも、こういう相談、俺以外にすんなよ?」
「うん!流石、アニキ!アニキ、大好き!」
ぎゅうと抱きついてくる、妹を抱き留めて、また溜息が漏れる。
妹とキス。
どこのエロ漫画だ。
言っとくが、俺にはそういう趣味はねぇ。
でも、弟が犠牲になるくらいなら、兄貴としてこいつの尻拭いは俺がやるしかねぇか。
俺は、妹の髪に手を差し入れ、そっと上を向かせた。
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