08. 逢魔

俺は城のバルコニーから、東の空に浮かんでいる満月を恨めしげに見つめた。
今日は遙とAndyが駆け落ちする日。
あと数時間後には、遙は俺の手の届かない遠く離れた地に旅立ってしまう。
永遠に…。

心にぽっかりと穴が開いたような、空虚な気持ちがする。
もう何年もの間、ずっと見守ってきた遙が消えてしまう。
まるで夢の中の出来事のように現実感がない。
明日も遙の部屋の前を通ったら、メイドに叱られるのを小さく笑って無視をして、テラスから月を見上げている遙に会えるような気さえする。
それが当たり前な風景になってしまったほど、長い間俺は遙だけを見つめて来た。

遙も今頃こうして満月を見上げているんだろうか。

あの男を想って…。

やりきれなくなって溜め息を吐くと、躊躇いがちに背後から声がかかる。

「政宗様…。まだ間に合います。遙様を攫って来るのであれば、この小十郎、いくらでも助太刀致します」
「何度も言わせるな、小十郎。俺は遙を『貴族』にする気はねぇ。『貴族』になったら最後、人の血を啜る事でしか生きて行けなくなる。初めから『貴族』だった俺にはよく分からねぇが、元々人間だったお前ならそれがどんなに忌まわしい事か分かるだろ?遙にそんな惨い事が出来ると思うか?」

振り返り、小十郎を見つめると、小十郎は言葉を失った。
そして小さく溜め息を吐く。

「確かに政宗様のおっしゃる通りかも知れませんね…。しかし…本当によろしいのですか?この小十郎、政宗様にお仕えして数百年が経ちますが、いまだかつて政宗様がどなたかにこれほどまでに情を移すのを初めて見ました。今後、そのような方に巡り合えるとも思えませぬ」
「いいんだ、小十郎。確かに俺は遙以外の女を愛せるとは思えねぇ。でも、遙を想っていられて、そばで見つめて、それだけで幸せだったんだ。こんなに温かい気持ちになれたのは初めてだ。だから、それで十分だ。どうせ『貴族』は滅び行く運命。遙を巻き込むつもりはねぇ」
「政宗様…」

小十郎は少し哀しそうな、でもとても柔らかい笑みを浮かべた。

「本当にお好きだったんですね。この小十郎、いまだ納得は行きませんが、政宗様のお気持ちはよく分かりました。馬車を手配して参ります」
「Thanks, 小十郎」

俺はまた満月を見上げた。
少しずつ中天に昇っていく満月は、別れへのcountdownだ。
やがて、小十郎から馬車の用意が調った連絡が入り、俺達は城を後にした。



御者に身を窶した小十郎の外套のポケットに、俺は野鼠に姿を変えて忍び込んだ。

「最後まで遙様の前に姿を見せないおつもりですか?」
「俺は吸血鬼だ。遙に拒絶されるに決まってる」
「そうですか…。では参りましょう」

小十郎が馬車を走らせる間、俺達は終始無言だった。
やがて遙の屋敷の裏手に出る。
人目に付かないよう町外れに出るには、ここを通るしかない。
しばらく待つと、白い影が屋敷の敷地内から姿を現した。
周囲を伺うように恐る恐る道を横切ろうとしている。

「小十郎、遙だ」
「承知致しました。この小十郎にお任せ下さい」

小十郎はひらりと馭者台から飛び降りた。

「遙様ですか?」
「え?…はい…」

遙は悪戯が見つかった子供のように落ち着きなく視線を彷徨わせる。

「Andy様から遙様をお迎えするよう申しつかりました」
「Andyが?」

遙の表情が輝く。

遙にはそうして嬉しそうな表情が似合うのに。
それが他の男のためだと思うと、胸がきりきりと痛んで、俺は小十郎のポケットの中に潜り込んだ。

「森の泉までご案内致します」
「ありがとう」

遙が馬車に乗り込んで、俺も黒猫の姿に変えて遙と一緒に馬車に乗り込んだ。

「可愛い猫ちゃん。片目が潰れてしまっているのね。可哀相に…。でも、綺麗な金色の目…」

遙は優しく俺の頭や背中を撫でた。
黒猫は忌み嫌われる存在だ。
なのに、遙の手はあくまで優しい。
こんなに遙に近付くのは初めてだ。
あんなに焦がれていた遙が優しく俺に触れている。
その温もりが愛しくて。
あと束の間の間でいいからこうしていたくて。
遙に甘えるように擦り寄ると、遙は俺を膝の上に抱いた。

遙は目を細めて優しく俺に微笑みかけた。
初めて遙の微笑みが向けられた事が嬉しくて。
俺はごろごろと喉を鳴らした。

この微笑みが最後に見られて良かった。
本来の俺の姿ではないけれど、それでも良かった。
記憶の中の遙とイメージが重なる。

もしかしたら、この瞬間のために俺達はこの世界に生まれて来たのかも知れない。

結ばれない運命だけど、それでも俺はお前を想っているだけで本当に幸せだったんだ。

そんな想いを込めて、俺は遙に身体を預けた。
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