15.Cigar

部屋に入ると、換気のスイッチとエアコンのスイッチを入れて、ソファの前のテーブルに荷物を置いて、俺は、胸ポケットからタバコを出して、ようやく一服し始めた。
仄香もバッグからタバコを出して、憮然とした表情で女向けの細いタバコを吸っている。

俺は、キャビネットからダブルのウイスキーグラスを一つと限定版のラガヴーリンを出して、テーブルに置き、グラスに注いだ。
後でモーツァルトを飲むなら、葉巻は短い方がいい。
ゴンザレスが妥当だ。あれは30分で燃え尽きる。
タバコを吸い終わると、キャビネットからシガーケースを取り出して、テーブルの上に置いて蓋を開けると、仄香は興味津々という様子でそれを眺めた。

「これ、小十郎のコレクション?」
「コレクションってほどでもねぇな。渋地下に葉巻と洋物のタバコ専門店がある。帝国ホテルにもあるけどな。気が向いたら買って、ゆっくりしたい時にいつでも吸えるように置いてあるだけだ」
「モンテクリスト?ロミオとジュリエット?コイーバ?」
「ああ。キューバ産だからな、スペイン語だ。部屋でゆっくりと吸いたい時は、このタイプだ。2時間はもつ。今日はラファエル・ゴンザレスの短いタイプだ。安い割に、味はコイーバに引けを取らねぇし、この大きさなら30分もあれば燃え尽きる。日常的には一番使い勝手がいいシガーだ」
「小十郎は、やっぱり大人だ…!」

仄香はタバコを揉み消して、感心しきったように俺を見つめた。

「それだけ、社会は甘くねぇって事だ。緊張の度合いも身体のキツさも精神的辛さも学生には理解出来ねぇだろうな。部屋でスコッチを飲みながら、2時間も葉巻を吸ってると落ち着く。ただそれだけだ。葉巻が大人の象徴ってより、ストレスの象徴だな」

俺は、ペットボトルの水を水差しに移し替えて、ペットボトルを床に置いた。
そして、キャビネットからグラスを3つ出して、1つにはチェーサー用の水を注いだ。
そして、もう一本タバコに火を点けると、ゆっくりと吸い始めた。
仄香もそれに倣ってタバコを吸い始めた。

「お前ぇ、就活止める気は本当にねぇのか?」
「うん、ない」
「今の時代、コネなんて欲しくても手に入らねぇぞ?人事にお前ぇの何が分かる。ただ紙切れを読んで、何分か話すだけだ。まぁ、それでもある程度は分かるといえば分かるがな。でも、俺はお前ぇをこの手で育て上げて来た。社会に必要な教養を中心に大学の単位も取らせた。経済学部へ進学予定のお前ぇに今の時代に必要な語学と法学を教養学部時代に嫌ってほど取らせたのもそのためだ。将来的には俺の右腕になれる素地を作って来た。他の会社なんかに俺のそんな意図なんて分かる訳ねぇだろ。つまらねぇ仕事でも与えられたら宝の持ち腐れだ。お前ぇに必要なのは、会社での適切な研修と実践だ。お前ぇだって満足に働けなくて、余計な仕事ばかり増えたらストレスが溜まる一方だぞ?お前ぇは、仕事が出来ねぇ男の醜い嫉妬ってのが全然分かってねぇ!」

仄香は言葉にぐっと詰まり、そして小さな声で囁いた。

「男の子の嫉妬くらいは大学でもあるもん。婆娑羅大学って女の子少ないし、プライド高い男の子が多いから、標的になった事だってあるもん。だから、男の子の嫉妬なんて大丈夫だもん」

俺は、深い溜息を吐いた。
同期のしかも大学生の嫉妬なんてたかが知れてる。
一番怖いのは、上司に全てアイディアを搾取されて使い捨てにされる挙句、パワハラやセクハラを受けても言いなりにしかなれない事だ。

俺の目の届かない所で仄香がそんな目に遭うなんて思ったら、冷静でなんていらねぇ。

しばらく無言でタバコを吸って、短くなった所で揉み消した。
そして、スコッチを少し飲んで、シガーカッターで葉巻の吸い口を切ると、ライターでゆっくりと火を点けて吸い始めた。
香ばしい香りと、濃厚な味がする。
仄香は、憧れるように俺を見つめていた。

「なぁ、仄香。男と二人きりになる事ってどういう事か知ってるか?俺は、お前ぇをずっと見守って来たからお前ぇが警戒しないのはよく分かってる。でも、世間じゃそれは時には危険信号だ。特に定時を過ぎて、皆が退社した後に会議室に呼び出された時とかな。言ってる意味、分かるか?」
「それって、叱られるって事?」
「そういう場合もある。理不尽に怒鳴り散らされて、深く傷付けられたりしたら、それはパワハラだな。男同士でもそれはある。でも、お前ぇは女だ。セクハラってのもある」
「セクハラ…」

言葉は聞いた事があるけど、ピンと来ないというような表情をしている。
俺は少し迷った。
男の力の恐ろしさと、上司に逆らえば会社で立場が悪くなる事を身を持って教えるべきか。
でも、俺は決定的には仄香を傷付けられない。
惚れた弱みだ。
まぁ、真似事だけでも、やるだけやるか。
俺自身、同意の上でしか女は抱いた事はないから気が引ける。

葉巻を少し燻らせて、またスコッチを口に含んだ。
葉巻と一緒に飲むと、味に深みが出るから気に入っている。
俺は、スコッチを足すと、仄香の前に置いた。

「まぁ、とりあえず少し飲め。話はそれからだ」

上司が切り出す常套文句を言うと、仄香は素直に頷き、ちびちびと舐めるように飲んで、微笑んだ。

「すごくいい香りがする!大学の飲み会じゃ、こんなお酒飲んだ事ない!」
「当たり前だ。これはヴィンテージのシングルモルトだ。ホテルじゃ、これ一杯で3千円は軽く超える。六本木の違法バーなら安くて8千円って所だな」

仄香はぎょっとしたように目を見開いた。
思わず俺は笑ってしまった。
買う店さえ心得ていれば、運が良ければボトル一本1万円余りで買える。

「心配はいらねぇ。これは格安で手に入れたから、気軽に飲んでもいいやつだ。お前ぇでも、特別な日に飲みたかったらバイト代で買える値段だ」
「そうなんだ…。びっくりした…」
「これはラガヴーリンの限定版、仕込みは1979年だ。スコッチの中でも、アイラモルトに分類される、苔のようなスモーキーな香りが特徴だ。熟成期間が長いほど、その特徴が強く出る。苦手だったら、12年物くらいのスペイサイドモルトを選べばいい。癖が少ない。クラガンモアが入門者向けだな。4千円も出せば買える。クラガンモアも1993年仕込みの限定版は美味いぜ?ただし、スコッチを買うなら必ずシングルモルトを買え。混ぜ物は悪酔いするからな」

仄香は感心しきったように吐息を吐いた。

「小十郎って何でもよく知ってるね!ねぇ、小十郎。ヴィンテージって希少でしょ?私、飲んでもいいの?」
「見つけた時に買い占めてるから問題ねぇ。このボトルはあと2本はストックがあるから気にするな。まぁ、俺も流石にラガヴーリンの限定版は気軽には飲まねぇけどな。でも、時期をずらせば他の銘柄が限定版を出す。だから、構わねぇ。それに、今日は特別だ。バレンタインだからな。男が女に酒を贈る大義名分のある日だ。だから好きなだけ飲め。俺も今日は飲む。ああ、忘れてた。スコッチの香りの花を開かせるのをな」

スコッチのグラスに水差しから二滴ほど水を垂らして、グラスを揺らせて香りを楽しんだ。
ほんの少し水を加えると甘みも香りも増す。
一口飲んで、仄香に手渡した。

「飲んでみろ。さっきと味が違うはずだ」

仄香は頷き、一口飲んで、微笑んだ。

「わぁ、何かさっきよりちょっと甘い香りがしてまろやかになった気がする!」
「その味が分かるとは流石だな。それが本当のスコッチの味だ。葉巻を吸えば、また味が変わる。絶対肺まで吸い込むな。これはタバコとは違う。口の中だけで煙を燻らせて香りを楽しむものだ」
「うん、分かった」

仄香に葉巻を手渡すと、恐る恐る吸い込んで、言われた通りに口の中でしばらく煙を燻らせて少しずつ煙を吐き出した。
タバコを吸い慣れていて、初めて葉巻をこういう風に吸えるなら上出来だ。
俺は、目でスコッチを飲むよう促した。
また一口仄香はスコッチを飲んで、少し驚いたような顔をした。

「さっきより一段と甘い…。何か落ち着くね」
「ああ、そうだ。だから、最高の息抜きだ。特に家で楽しむのがな。会社で人に囲まれてるから、外より家の方が落ち着く。だから、空調もシガーバーと同じ物を設置して、ソファも厳選した。言わば、俺の城だな。部屋もアメリカのマスターベッドルームと同じ作りだから、シャワーも部屋で浴びれる」
「そっかぁ。だから、大きなデスクもなくしてライティングビューローにしたんだね?あれはイタリア製?キャビネットとお揃いだ…」
「ああ、そうだ。象嵌が見事なミラノの職人が作ったやつだな。椅子も同じだ。Mac Book Airを使う程度ならあれで十分だ。本は電子化したからタブレットで十分だ。全部NASに保存してるしな。ソファに寝転んでタブレットで新聞も本も読むから、結局一番こだわったのはソファだな」
「うん、座り心地いい。このまま寝ちゃいそうなくらい柔らかくて」
「アメリカ製だ。アメリカ人はカウチの上で過ごす事が多いから、よく出来てる。出張ついでに調達して来た」
「小十郎、流石だね。すごくシンプルなお部屋なのに、すごく居心地いいもん。趣味も抜群にいいし、機能的だし、やっぱりまだまだ小十郎の背中には追いつけないな」

仄香は溜息を吐いて、葉巻をまた吸うと、スコッチを飲み干した。
またスコッチを注ぎ、仄香の手から葉巻を奪い取って俺もゆっくりと燻らせた。
仄香は見よう見真似で、水差しから水滴をグラスに落とし、ピッチを上げて飲んで行った。
頬がほんのり赤くなって、目も少し酔いで潤んでる。
ダブルを二杯空けた所で、不本意ながら実行か。
少しずつ短くなって行った葉巻を吸いながら、仄香の手からグラスを受け取り、少し飲んでは葉巻を仄香に渡して吸わせる。
丁度、葉巻が残り2cmくらいになった時には、仄香は5オンスはスコッチを飲み干していて、酔いが大分回ったようにソファに身体を預けて、幸せそうに目を閉じた。
その手から葉巻を奪って灰皿の上に乗せた。

俺は、小さく溜息を吐いた。
あんまり怖がらせるのは本当に気が引ける。
適度に脅しをかけるつもりだが、それが効くか、もしかしたら嫌われるか、どちらにしても後味が悪い。
もう一度溜息を吐いて、仄香の髪をくしゃりと撫でた。
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