20.雪の華

こうして仄香を抱き上げるのは久しぶりだ。
一番最近では、去年、仄香が高熱を出して病院から連れ帰る時に抱き上げたきりだ。
その前は、仄香が小学生の頃だ。
遊んでいたり勉強していたりするうちに眠ってしまった仄香を、よく抱き上げてベッドで寝かし付けていた。
中学1年生くらいまではそうしていたかも知れない。
でも、思春期になって急に成長して来た仄香へ淡い恋心を抱いてしまってからは、俺は仄香から距離を置くようになった。
流石に大学生と中学生じゃ、年が離れ過ぎていて釣り合わない。むしろ、犯罪だ。
年齢が上がるほど、年の差は目立たなくなる。
年々恋心は強くなる一方で、俺は仄香が大人になるまで待ち続けた。

こうしてやっと結ばれて、仄香を堂々と抱き上げられる。
その日をどんなに心待ちにしていたか。
ああ、本当に、愛しくてたまらない。
酔いが覚めて記憶がなくなってしまうのなら、このまま酔わせたまま、二人で夜明けを見たい。

窓際に立つと、仄香はそっとカーテンを開けた。
黒い夜空に浮かぶように、真っ白な雪がひらりひらりと舞い落ちていた。
桜の花吹雪のように白い雪がしんしんと降っている。

「わぁ、今年初めての雪だ!今年はもう降らないかと思ってた」
「ああ、そうだな。降るのはセンター試験の頃が多いからな。バレンタインの夜の雪、か…」
「東京じゃホワイトクリスマスはまずないもんね。バレンタインの雪も珍しいくらい。積もるかなぁ」
「積もったら仕事に差し支えるから遠慮してぇな。まぁ、明日は出かけねぇから俺は構わねぇけどな。仕事の段取りが変わったら面倒だな」
「そうだよね…。やっぱり社会人って厳しいんだね」
「ああ、もちろんだ。だから、俺はお前ぇを俺のそばに置いておきたい。理不尽な辛さからお前ぇを守って、きちんといい仕事が出来る女に育て上げたい。厳しい事も言うし、学生とは比べられないほどの努力も強いる事もある。それでも、不条理な辛さからは必ず俺が守ってやる。だから、黙って俺について来い」

仄香は、ただ黙って外の雪を眺めていた。

「大人になるの、嫌だな。何も考えずに綺麗な雪を楽しんでいられたらいいのに。小十郎にもただ綺麗な雪を綺麗だって、ただそう思って欲しいな、今だけは。今日だけは、小十郎とただ綺麗な雪を素直に綺麗だって喜びたいな。だって、特別な夜だから…」
「そうだな、悪かった。お前ぇが望むなら、積もったら雪合戦してやってもいいぜ?」
「もう!そこまで子どもじゃないよ!もっとロマンチックな気持ちで眺めたいの」
「ああ、分かってる。からかっただけだ。くすぐったくて苦手なだけだ、こういうのがな。でも、お前ぇと眺める初雪はいいな」
「小十郎、キスしたい…」

仄香は、俺の頭を引き寄せた。
そのまま目を伏せて、柔らかなキスを何度か交わしてまた雪を眺めた。
仄香の雰囲気にのまれたように、頭から仕事の事が消え去って、ただこの特別な夜に降っている雪が何か神聖なものに思えた。
そのまましばらく二人で雪を眺めていた。

「仄香、窓際は流石に冷える。ソファに戻るぞ」
「うん」

仄香は名残惜し気にカーテンを閉めた。
俺は、ソファに戻り仄香を下ろすと、ほんの少し短くなった葉巻を吸い、スコッチを少し飲んでグラスを仄香に手渡した。

仄香は、また香りを楽しむようにちびちびと飲んでは、葉巻を吸い、またスコッチを飲んだ。
そのうちに、仄香はまた何度もキスをねだり、飽きる事なくキスを交わしては、また二人で飲んだ。
最後にもう一度抱きたい衝動にも駆られたが、こうして酒を飲みながら、気怠いキスを繰り返す時間も愛しくて、仄香にねだられるままに、何度も唇を重ねた。

どうか、この夜の記憶が心の何処かに少しでもいいから、残っていて欲しい。
出来るなら、目覚めても愛し合った事を覚えていて、このままずっと俺の女でいて欲しい。
こんな幸せな時間を忘れないで欲しい。

そう願いながら、すっかり葉巻が短くなるまで、俺達は言葉少なに葉巻を吸いながら酒を飲み、時に時間を惜しむように性急なキスを交わし、時に焦ったいくらいのゆっくりとした濃厚なキスを交わした。
やがて、葉巻が燃え尽きる頃、仄香はふらつきそのまま俺にしなだれかかって眠ってしまった。

「タイムリミットか…。魔法が解ける時間か…」

まだ窓の外は暗い。
でも、あと2時間ほどで夜が明ける。
夜明け前に眠らないと寝付きが悪くなる。
このままいつまでも仄香を抱いていたかったが、起きてからの事も考えなければならない。

「仄香、仄香、お前ぇ、シャワー浴びれるか?」

少し揺すると、仄香は薄っすらと目を開けた。

「ううん、眠くてたまらないの」
「分かった。俺はシャワーを浴びてから寝る。お前ぇもとりあえずパジャマ貸してやるから着替えろ」
「無理…」
「じゃあ、せめて下着だけでも着ておけ。お前ぇがすっかり記憶をなくして、起きた時に一方的になじられたら俺だって傷付くからな。お前ぇが望んで俺の女になったんだからな」
「そんな事、しないもん。忘れないもん」
「そういう奴に限って記憶をなくすもんだ。風邪を引かれても心配だ。だから、いくらバスローブを着てるからって、はだけたら冷える。下着とヒートテックはきちんと着ておけ」
「分かった。風邪はイヤ」
「じゃあ、俺がシャワー浴びてる間に着替えろ。行って来る」

俺は、一抹の不安を覚えながら、シャワーの仕度をした。
ちらりと仄香を見やると、一応ふらつきながらも言い付けを守っている様子なので、俺は、バスルームへ向かった。
鏡を見ると、仄香の赤いルージュが俺の唇に薄っすらと着いていた。
俺と仄香がキスを交わした証だ。
熱めのシャワーを浴びながら、全身と髪の毛をゆっくりと洗いながら、仄香の事を考えていた。

もし記憶が全て残っていたら、仄香はきっと起きた時に恥ずかしがるだろう。
そのフォローに多分、丸一日かかる。
でも、もし記憶が全く残っていなかったら…。

俺は、何もなかった事にするのか?
それとも、全て打ち明けて、もう一度仄香の想いを確かめるのか?
俺の勘では、仄香の想いはまだ幼い。
もし覚えていなかったら、想いを確かめた所で、はっきりした言葉は聞けない気がする。
それなら、仄香の想いがもっと成長するまで待つしかない。
とにかく、仄香が起きてからでないと、どうしようもない。

俺は、しばらく熱めのシャワーを浴びて、ちらりと鏡を見た。
背中に幾筋ものミミズ腫れの線が出来ていた。
やはりとは思ってたが、ここまでとは思わなかった。
起きてから着替える必要がないように、部屋着を用意しておいて正解だった。
愛しい女に付けられた跡だ。
誰にも見せたくない。
もし、仄香が全ての記憶をなくしていたら、この傷と俺の記憶だけが、今晩、俺達が愛し合った証だ。
特に、この傷だけが、目に見える証だ。
これが消えてしまったら、きっと切なくてたまらなくなりそうだ。

俺はシャワーを止めて、身体を拭いた。
背中に鈍い痛みを感じて、それが酷く愛しかった。
正直、仄香が目覚めるのが怖い。
覚えていても、覚えていなくても取り乱しそうで、その時、冷静でいられるか自信がない。

でも、後悔はしていない。
あれは仄香の本当の本音で、俺を求めたのはほぼ間違いない。
ただ、仄香がその事実を受け入れるのにはまだ早過ぎただけだ。
俺はこの日を待ち望んでいた。
ずっと仄香と想いを交わして抱きたかった。
だから、後悔はしていない。

俺は着替えると、部屋に戻った。
仄香は俺のベッドの端で眠っていた。
布団をはいで隣りに横たわると、仄香は言い付けを守って、ヒートテックの上からバスローブを着て眠っていた。
乱れた髪を撫でながら、すやすやと眠る綺麗な寝顔を眺めていると、とても心が安らぐ。
出来るなら毎晩でも抱いて、こうして寝顔を眺めたい。

多分、しばらく無理だろうな…。

そう思うと、ずっと仄香の寝顔を眺めていたかったのに、流石にあれだけ飲んで徹夜はキツくて、俺も何時の間にか眠ってしまった。
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