遮光カーテンの隙間から明るい日差しが部屋に差し込み、丁度顔に光が当たっていた。
ベッドサイドの時計を見ると、もうすぐ12時だった。
久しぶりによく眠れたし、全く二日酔いもしていない。
隣りの仄香を見やると、既に目覚めていて、俺の顔をじっと見つめていた。
その視線が何を意味するのか計りかねて、俺も見つめ返した。
「仄香、どうした?いつから起きてた?」
「15分くらい前かな。起きたら小十郎の部屋でベッドで寝てたからびっくりしたの。で、ぼんやりしながら小十郎を眺めてて、どうして小十郎がまだ寝てるのか考えてたの」
やっぱりだ、記憶をなくしてる。
問題はどの部分の記憶が抜けてるかだが、全部忘れてるような気もする。
「まず、お前ぇは酔って帰りたくなくなってここに泊まると言い出した。だから、お前ぇはここで寝た。それから、起きて二日酔いになってたら一人じゃ辛いだろうし、お前ぇが淋しがったから夜中のうちに綱元にメールで仕事の指示をして有給を取った。今日は俺は自宅で仕事だ」
仄香は驚いたように目を瞠った。
「私、小十郎に仕事休ませちゃったの!?ごめんなさいっ!!」
「いや、お前ぇに飲ませ過ぎた俺が悪かった。悪酔いするような酒じゃねぇが、お前ぇ気分は悪くねぇか?頭痛は?」
「うん…気持ちは悪くない。何かまだ酔いが抜け切らない感じはするけど、頭も痛くない。まだ身体がふわふわした感じがして、頭もぼーっとする」
「そうか、とりあえず一度身体を起こして、水でも飲め。立てるか?」
「うん、多分」
仄香はベッドから降りて、少しふらつきながら立ち上がると、足元を見て驚いたような声を上げた。
「こ、小十郎!?何で私、着替えてるの!?」
思った通り、ある程度、自分の服を着せておいて正解だった。
と、同時に寂しくて仕方なくなる。
仄香は、思った以上に何も覚えていないんだろう。
あんなに俺を求めた事も、愛し合った事も…。
俺は溜息を吐いた。
仄香の様子を見ながら、記憶を確認して、どこまで真実を告げるか心を決めなくてはならない。
「俺の方こそ驚きだ。お前ぇが酒乱だなんて知らなかったからな」
「ええっ!?酒乱!?嘘!私、酔っても寝落ちしかした事ないよ!?」
「それは安い酒ですぐ悪酔いしてたからだろ。寝落ちだけじゃなくて、気持ち悪くなって吐いたりしてたんじゃねぇか?」
「うっ、そういう時もあったけど…。でも、酒乱じゃないよ?」
「いや、お前ぇはいい酒を飲ませ過ぎるとマズいってよく分かった。悪酔いしなくて潰れない分、酒乱になる。いい酒は、他所で男と二人きりで絶対に飲むな。いいか?絶対に、いい酒はおごられても男とは飲むな。約束しろ」
「う、うん…。小十郎の部屋じゃなかったら、悲鳴上げてたよ。分かった、約束する。私、何をしたの?」
俺は本当に迷った。
ありのまま言えば、仄香が脱いでキスをねだって来たのがそもそもの始まりだが、その前に俺がかけようとして不発に終わるどころか、別の火を点けてしまった脅しにも原因がある。
事細かに言うならば、その後の事も全て話して、今の状態になっている訳だが、仄香はどこまで知りたくて、どこまで覚えているのか。
とりあえず、細かい事を一切伏せて、端的に答えて反応を見るしかない。
「お前ぇは酔って、暑がって脱ぎ出した」
「ええっ!?覚えてない…」
仄香は愕然としたように、目を瞠って、そしてしょんぼりとうな垂れた。
俺は本当に溜息を吐きたくて仕方なくなった。
あんなにキスをねだった事も、俺を求めて腕の中で乱れまくった事も覚えてないなんて、残酷だ。
「うーん、セーターを脱いだのはいいんだけど、スカートまで脱いだの…?うう、小十郎!何か、何となくだけどすごく大胆な事をしたような気がするんだけど、記憶違い?」
もしかして、全く覚えてない訳じゃねぇのか?
「いや、大胆だった。お前ぇの言う通り。お前ぇ、どこまで覚えてる?」
仄香は立ち尽くしたまま、悩んでいた。
とりあえず、あのソファが全ての事の始まりだし、早く水を飲ませた方がいいから、移動が先だ。
「とりあえず、水を飲んで、タバコでも吸って落ち着け。話はそれからでも出来る。ソファで話そう」
「うん…」
俺もベッドから抜け出て、仄香の肩を抱いてソファへ促した。
仄香はソファへ身体を沈めてぼんやりとしていた。
チェーサー用に用意した水を入れ替えて、グラスを仄香に手渡すと、仄香は一気に飲み干して、タバコに火を点けてゆっくりと吸いながら考え込んでいた。
俺も水を飲むと、タバコを吸い始めた。
「そうだ、小十郎が私の就活を止めさせようとして、この部屋に来たんだった。それで、とりあえず飲みながら話そうって事になって、葉巻を吸いながらスコッチの話をしてくれたんだ。そうだよね?」
「ああ、そうだ。それから?」
「えーと、パワハラとセクハラの話になったんだった」
「そうだ。その先は?」
「その辺から大分酔って来て、ソファでうとうとし始めたんだった…。えーと、えーと、それから…それから…あっ!こ、小十郎!?小十郎、パワハラの真似事したでしょ?」
「ああ、お前ぇを脅すためにな。とりあえず飲め、話はそれからだってのは上司の使う常套文句だ。よく覚えておけ」
「う、うん、分かった。よく分かったよ。だって、小十郎、あの後、私を押し倒したでしょう?小十郎じゃなかったら怖くて泣いてたよ」
「それが分かったならいい。上司と二人きりの会議室は、夜は要注意だ。フロアに誰かいれば滅多な事はねぇけどな。全員が全員じゃねぇが、気を付けろって事だ」
「うん、気を付ける。大学でももうちょっと気を付ける事にする。だって、男の人の力ってすごいんだった初めて知ったから…。あっ!こ、小十郎!セクハラの真似もした!!ううっ、今、思い出すと恥ずかしいよ…」
「お前ぇ、あんな事されて、会社で堂々と上司のセクハラをその上の上司にきちんと報告出来るか?弁護士相手でもいい。言えるか?」
「…言えない…。でも、でも、小十郎が悪いんだもん!」
「お前ぇを脅すために仕方なく真似事をしただけだ。セクハラなんてした事ねぇから、平手打ちくらいは覚悟してお前ぇの片手は空けてやってたけどな。悪かった…」
「ううっ、そうじゃないもん。違うもん。小十郎じゃなかったら、片手空いててあの体勢だったら、泣きながらでも、鼻に正拳と急所に膝蹴りくらいは出来たもん!でも、でも、何で小十郎のセクハラってあんなに気持ちいいの!?恥ずかしいのに気持ち良くて、抵抗なんて出来なかったよ!」
俺は、思わず吸いかけていたタバコにむせた。
何度か咳をして何とか呼吸を整えた。
まさかその角度から責められるとは思わなかった。
んなもん、知るか!?
セクハラなんてした事ねぇし、するつもりもねぇが、真似事をしたのに気持ち良くて抵抗出来なかったなんて言われたら、何のための脅しか分からねぇ!!
「うう、恥ずかしいよ…。セクハラで感じて気持ち良かったなんて言える訳ないじゃない…」
「分かった、分かった、俺が悪かった。でも、いくら感じても相手が結婚してたら断固拒否しろ。訴訟に巻き込まれる。不倫はするな」
「分かってるよ!慰謝料なんて請求されたくないもん!」
「なら、いい。民法取らせておいて正解だったぜ…。はぁ…。それから?」
「うっ…思い出した。恥ずかしいから端折ってもいい?」
「恥ずかしくない程度に話せ」
「うん…何か記憶が曖昧なんだけどね、小十郎にそのまま続けて欲しくなって、彼女になるかって聞かれてまだ無理って答えたら、飲み直しって事になったと思うの。何かその飲み直しのお酒が印象的だったから」
「大筋で合ってる。それで?」
「うん…。チョコレートの味の、すっごく美味しいお酒だった。小十郎がバレンタインのプレゼントだって飲ませてくれたんだった。甘ったるいって言うより、香りとココアの味が効いてて、飲みやすくてね、ついペースが上がって行って、えーと……ダメだ、思い出せない…」
仄香は頭を抱えて俯いた。
俺も頭を抱えて俯きたい気持ちでいっぱいだ。
どれだけあの時、俺が誘惑と戦ったか!!
モーツァルトを飲ませる前だって甘えまくって手を焼いたというのに、覚えてねぇし、自分で本命チョコかと聞いておいて、その事も忘れてやがる!!
思わず深い溜息が漏れた。
ダメだ、肝心な所は全部忘れてるって諦めた方がいい。
「うーん、何かずっとモーツァルトのチョコの香りがしてた感じがするんだよね…」
香りは記憶に一番残りやすい。
あれだけキスを繰り返したんだから、チョコレートの香りの印象は残ったか。
「えーと、それから…すごく曖昧なんだけど…」
「何だ?言ってみろ」
「うん…モーツァルトの香りに包まれながら、幸せ気分だった。何かね、言葉では言い表せないくらい、幸せな気分だった。すごい幸せな事があったのは間違いないんだけど、何でそんなに幸せだったのか、どうしても思い出せないの…。いや、何となく?でも、あり得ないし…?何か違う気もするし…?うーん、夢を思い出すような感じで、思い出せないよ…」
「そうか…」
俺は仄香の頭をくしゃりと撫でた。
俺に抱かれた事も、俺の女になった事も忘れているのに、それがとても仄香にとって幸せな事だったって事はよく分かった。
俺にとっても、とても幸せで大切な思い出だ。
それが仄香にとっても、言葉に出来ないほど幸せな出来事だったって分かっただけでも、十分嬉しい。
でも、仄香が断片的に覚えていて、あり得ないと言っている部分が気になって仕方ない。
少なくとも俺の女になった事だけでも思い出して欲しい。
「お前ぇ、最初に、すごく大胆な事をした気がするって言ってたな?何をやらかしたか覚えてるか?」
「うっ…大胆な、事…?」
「ああ、そうだ。確かにお前ぇは大胆な事をやらかした。知りたかったら教えてもいいが、お前ぇは何を覚えてるんだ?」
仄香は言葉に詰まり、目を泳がせて、そして俺にグラスを差し出した。
「とりあえず、お水をもう少し…」
「分かった」
水を注いでやると、仄香は一気に飲み干して、溜息を吐いた。
「本当に、よく覚えてないの…。ただ…」
「ただ、何だ?」
仄香はしばらく視線を彷徨わせて、そして囁くような小さな声で言った。
「自分で信じられないんだけど、小十郎に抱かれたくて誘惑した気がする…。ううっ、恥ずかしい…」
そう言って、仄香は目に涙を浮かべた。
「ヤダ…。それで脱いだんだと思うの。で、きっと小十郎がバスローブを着せてくれたんだと思うの。じゃないとこんな格好してるはずないし。すごく小十郎に甘えたくてたまらなかったのはよく覚えてる。甘えたくて、抱き付いた気もする。それで、小十郎にもっともっと甘えたくなって、小十郎が欲しくなって…。ううっ、付き合ってもないのに、誘惑した…。ヤダ…自分が情けないよ…」
「まぁ、確かに脱いで誘惑はしたな」
「ああ、やっぱりそうなんだ!ううっ、ごめんなさい…」
仄香はぽろぽろと涙を零した。
俺は仄香の肩を抱き寄せ、髪を撫でた。
嬉しいような、悲しいような複雑な気分だ。
まぁ、確かに我に返ったら、恥ずかしくて消え入りたい気持ちになるのも分かる。
でも、俺は覚悟を決めて仄香を抱いたし、それを後悔していない。
謝られると、とても複雑な気分だ。
仄香の本意ではなかったとしたら、とても酷い事をしてしまった。
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