29.Greed

俺の部屋に戻ると、仄香はコートを抜いで、ぐったりとしたようにソファに身を沈めた。
俺もジャケットを脱ぎ、空調を調整して仄香の隣に座った。
すぐに仄香は甘えるように、俺に抱き付いて、ただぼんやりとしていた。
その髪をゆっくりと撫でる。

「これで良かったんだよね?私、ずっと3人でいる事に慣れ過ぎてて、まだ政宗の留学が信じられない。昨日の事も、あまり覚えていないし、何だか不安。そんな事で、政宗にあんなに重大な決断させちゃって良かったのかな…?」

俺は迷った。
昨日の仄香の行動は、間違いなく俺達の未来を決定付けかねないほどの行動で、俺も責任を取るつもりで抱いた。
そして、記憶を亡くした仄香に逃げ道を作って諭した。
その結界、仄香はやはり俺を選んだ。
しかし、昨日の事を覚えていないために仄香が不安を感じているとしたら、俺は仄香に全てを打ち明けるべきか。
それとも、思い出すように仕向けるべきか。

「仄香、よく聞け。俺も政宗様の進路については思う所があった。俺自身MBAを取った時、出来るなら海外に留学して取得したいと思ったからな。政宗様にはいずれ留学は進言するつもりでいた。向こうは飛び級が当たり前だから、早ければ早いほどいいのも確かだ。政宗様にはそれだけの才能がある。ただ、俺は政宗様のお気持ちを尊重したかった。婆娑羅大に進学したいなら止めるつもりもなかった。要は修士をどう取得するかだから、留学は修士課程からで構わねぇからな。政宗様が婆娑羅大に拘るとしたら、それは、仄香、お前ぇのそばにいるためだ」
「私のため…?じゃあ、私が政宗の足枷になってたって言う事?」
「足枷とまでは言わねぇが、悪い言葉で表現したらそういう事になるな。でも、お前ぇはよくやった。政宗様も成実も難なく向こうの入試に受かるだけの実力はついた。うちの中学高校がべらぼうに難しいせいもあるが、そこで成績上位をキープさせたのは、お前ぇの指導の成果だからな。特に成実の場合はな。今度は俺がお前ぇをまた育て上げる時が来ただけだ。だから、お前ぇは何も気に病む事はねぇ」
「そっか…。じゃあ、これは教え子が巣立って行く感傷なのかな…。何か、すごく寂しい…」

仄香は薄っすらと涙を浮かべて、俺の胸に頬をすり寄せた。

「確かに、政宗様の笑顔のない屋敷は寂しいだろうな。俺も正直、政宗様が向こうでハメを外さないか心配でたまらねぇが、出張ついでに様子は見に行けるし、来たかったらお前ぇもついてくればいい。寮生活をするはずだから、男だし滅多な事はねぇけどな。これは政宗様が選んだ道で、俺も最善の道だとずっと思っていた。お前ぇが寂しいのも分かる。ただ…妬けて仕方ねぇけどな」

自嘲気味に笑うと、仄香は顔を上げて、怪訝そうに俺を見つめた。

「妬けて仕方ない?政宗に?どうして?」
「政宗様だけじゃねぇな。お前ぇの心を他の男が占めてると思ったら、妬けて仕方ねぇな。お前ぇは、もう俺の女だ。他の男を想うなんて許せねぇ」

じっと仄香を見つめると、仄香はほんのりと頬を染めた。

「小十郎って、案外独占欲強い?」
「ああ、俺は嫉妬深いぜ?何年お前ぇを待ち続けたと思ってる?ずっと、ずっと、お前ぇが俺を受け入れるのを待ってた。お前ぇだけを想ってな。他の女なんて愛した事はねぇな。だから、お前ぇが俺以外を想うなんて許せねぇ。例え相手が政宗様でもな」

仄香の頬を撫でて、そのままそっと顎を掴んで上を向かせると、仄香はますます頬を染めて、固まった。

「こ、小十郎…?」
「キスだって政宗様の最後の我儘だから許したが、本当は誰にも許したくなかったんだぜ?それに、昨日あれだけ俺を求めておきながら、覚えてねぇってのもいただけねぇな」
「うっ…えーと、えーと、あの、その、まだ心の準備が…」
「少し黙ってろ」

仄香を抱きすくめて、俺は触れるだけのキスから、少しずつ柔らかいキスへ、そして深いキスへ変えて行った。
仄香は戸惑うように固まっていたが、やがて昨日のように少しずつ俺のキスに応え始めて、甘えるような声を上げ始めた。

やっぱり仄香とは相性がいい。
唇を重ねるだけで、こんなにも陶酔感で胸が満たされて、愛しくてたまらないのは仄香だけだ。
柔らかな唇も、舌も、触れ合わせて軽く吸うタイミングまで、俺好みだ。
キスだけで、軽く身体が痺れるくらいに気持ち良くてたまらない。

たまらない気持ちになって、キツく抱きすくめてキスを繰り返すと、仄香も俺の髪をくしゃりと掴んで、キスに感じたように腕の中で身悶えた。

「んっ、はぁっ、んんっ、こじゅ、んんっ!」

そんな甘い声を聞いたら、身体が疼いて止まらなくなる。
キスだけでこんなに気持ち良くてたまらないのに、こんな反応をされたら可愛くて、そのままなし崩しに抱きたくなる。
もうどうしようもなく仄香が欲しくてたまらなくなった所で唇を離すと、仄香の呼吸は完全に上がり、潤んだ瞳で俺を見つめた。

「はぁっ、はあっ、こ、小十郎…。思い出した、昨日のモーツァルト味のキス。キスってこんなに気持ちいいって知らなかったから、キスだなんて思わなかった…。キスってもっと違うものだと思ってた…」
「思い出したか。お前ぇとは相性がいいんだろうな。いくらキスをしても足りねぇほど、気持ちいいキスは俺だって初めてだ。お前ぇが欲しくてたまらなくなるのに、まだまだキスをしていたい気持ちにすらなる。そんなのお前ぇだけだ」

そう言うと、仄香は少し頬を膨らませた。

「小十郎、ズルい…。初めてじゃないんだ…。ううっ、小十郎の彼女に妬けてくるよ。何か悲しい…。私も経験あれば良かった」
「バカ言うんじゃねぇ。男に抱かれる悦びをお前ぇに教えるのは俺だけだ。お前ぇが欲しくてたまらなくて、でも手に入らなくて、お前ぇの面影を求めて抱いた女は何人かいる。お互い身体だけの関係って約束でな。お前ぇ、そんな関係でも妬くか?俺はお前ぇ一筋だった。いつかお前ぇを手に入れて、お前ぇを抱く時に何も知らねぇじゃ男の恥だしな。それに、お前ぇに女の悦びを教えてやれる。俺の年も考えてみろ。仕方ねぇだろ?」
「うっ…そうだ、小十郎はモテモテだし、もう26才だし、当然経験済みだよね…」
「心までやるのはお前ぇだけだ。優しく大切にするのもな。それに、お前ぇを手に入れた以上、これからは抱くのはお前ぇだけだ。お前ぇが望むなら毎晩でもな。それでも妬くか?」

仄香は少し逡巡して、首を横に振った。

「愛のない身体だけの関係なんて悲しいもん。小十郎が大切に甘やかしてくれる、初めての子になれるなら、それでいいよ。でも…小十郎、もしかして、今晩、私を抱くの…?それは流石に心の準備が…」

あれだけ昨日、俺を求めて来たのに、やっぱり何にも覚えてねぇか。
それは寂しい。
出来れば思い出して欲しい。
適度に酔わせて、恐怖心が薄れた頃にゆっくりと思い出させるか。
俺は、仄香の髪をそっと撫でた。

「今晩はのんびりするつもりだから、心配すんな。お前ぇに碌なもん食べさせてないのも気になるし、まだニュースも見てない。あと20分くらいで世界のニュースが始まるから、それを見ながら飯だな。それでいいか?」
「うん!」

キッチンへ向かうために立ち上がると、仄香は幼い頃と変わらず俺について来た。
デパ地下で買った野菜の惣菜とローストビーフと鹿肉の燻製を持たせ、俺はモーツァルトとミルクとロックアイスを持って部屋に戻った。
部屋に戻るとテレビをつけて、日本のニュースから順に見ながら、テーブルの上に食事を広げ、俺の分だけスコッチを用意した。

「小十郎、ズルい!自分だけ飲むの?」
「お前ぇはスコッチを飲んだら酒乱になるからダメだ。今晩も記憶をなくされたら、流石に俺も寂しいからな」
「ううっ、じゃあ一口もらうくらいは?」
「それなら構わねぇよ。お前ぇが飲みたかったらモーツァルトなら飲んでもいい。食事に合わせるには少し甘すぎるけどな」
「ううん、昨日は酔ってて、香りも味も朧げに覚えてるだけだから、モーツァルト飲みたい!」
「分かった」

グラスに氷をたっぷり入れて、モーツァルトをミルクで割ってマドラーでステアして目の前に置いてやると、仄香は嬉しそうに飲みながら、食事を始めた。
俺も、ニュースを見ながら、ゆっくりとスコッチを飲んで、つまみのように少しずつ食事をした。

「小十郎、毎日このニュース見てるの?海外の話題ばかりだね」
「最初から見られる時と、間に合わねぇ時もあるが、月曜から金曜まではこのニュースだな」
「EUの話題も多いね。字幕だから、リスニングの勉強にもなる。知らなかった…」
「ああ、金曜日は裏番組は映画だからな。映画は見たかったらiTunesで借りて土日に見るから、平日はニュースだな。ドイツ語とフランス語、どれくらい聞き取れた?」
「だいたいこんな事言ってるな、程度。英語は画面全然見なくても大丈夫だけど、ドイツ語とフランス語は字幕で確認が必要な程度って言えば分かる?」
「ああ。お前ぇ、かなり大学でしごかれたな。いい事だ。中国語は?」
「忘れかけてるけど、聞けば所々思い出す感じ」
「なるほどな。まぁ、1年ブランクあったらそんなもんか。中国語は音が肝心だから、少しの間だけでいいから語学スクールが必要だな。公認会計士の予備校の合間を縫ってな。お前ぇ、単位はほとんど揃ってるだろ?」
「うん。卒論までの間だったら、資格の勉強と語学は今のうちかな」
「じゃあ、毎晩、ここで俺の帰りを待つなら、9時からニュース見てろ。勉強しながら聞き流すだけでいい。10時にはなるべく合流してこのニュースだな。そのうち株価と先物のチャートと会社四季報の見方も教えてやる」
「わぁ、やる事いっぱいだ…。でも、何だか楽しみだな。小十郎に中学受験見てもらってたのを思い出すから、何か嬉しい」

嬉しそうに笑う仄香の頭を撫でて、また意識をニュースに戻して、ゆっくりと食事をしながら飲んだ。
仄香は、自分でモーツァルトのミルク割りを作って飲みながら、食事をしている。
ローストビーフと鹿肉に手をつけようとしたので、俺はスコッチを注いで、目の前に置いた。

「スコッチの方がそれには合う。ただし、今日はこれ一杯までな。ゆっくり味わって飲め」
「わぁい、ありがとう!」

仄香は、ちびちびと飲みながら、鹿肉の燻製をつまんで嬉しそうに微笑んだ。
俺もキャビネットからグラスを出して、肉をつまみながら、ゆっくりとスコッチの香りを楽しんだ。
そして、ゆっくりと食事を終えて、タバコを吸いながら飲んでいると、ニュースが終わった。
あと30分後には別のニュースが始まるが、それは見なくても構わない。
俺は、酒のつまみだけ残して、食事の片付けをした。
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