かすがと呼ばれた女は仄香に掴みかかると縋るような表情でがくがくと仄香を揺さぶった。
そんなに揺さぶったら鞭打ちになるんじゃねぇか?
仄香は慣れているのか、のほほんとした表情でにこにこと笑っている。
「ん?どうしたの?」
「それがなっ!」
言いかけた所でかすがはようやく俺達の存在に気付いた。
「何をニヤニヤしている、明智。見世物ではないぞ!」
「元からこういう顔ですから、ククッ」
「明智、知り合いか?」
こいつは一体何人仄香の友人を知ってるのかと呆れる。
やっぱり俺の言う事なんざ聞いちゃいねぇ。
眉間に皺を寄せると、明智はクスクスと笑った。
「そう怒らないで下さい。たまに仄香さんを食事に誘うんですけど、彼女、なかなか一人で来ないんですよね。誰かさんの教育が行き届いているらしくてねぇ。殆どいつもかすがさんがお伴についていますよ」
「お伴で悪かったなっ!勘違いするなよ。私はお前には興味がない」
「それは残念です。貴女を見てると私は退屈しませんが」
かすがはキッと明智を睨み付けると、おもむろに俺に視線を移し怪訝そうな表情を浮かべる。
「あ、かすが、紹介するね。お隣に住んでる幼馴染みの小十郎。小十郎も婆娑羅大の経済学部だったんだよー。私達の先輩。小十郎、かすがはね、クラスで一番仲良しの女の子なんだ」
「ほぅ…この男が噂の小十郎か」
どんな噂か知らないが、大方仄香の『大好きなお兄ちゃん』とでも紹介されているのだろう。
いつか仄香が俺に恋心を抱くような事があれば、かすがと恋バナに花を咲かせる日が来るのだろうか。
どういう形であれ、仄香がこうして楽しそうに女友達と一緒にいる事は嬉しく、俺もかすがに好感を持った。
「いつも仄香が世話になってる。これからも仲良くしてやってくれ」
「勿論だ」
かすがは形の良い唇を吊り上げて綺麗に笑うと、躊躇うように視線を彷徨わせた。
「俺達の事は気にしなくていい」
「だが…明智がいると話し辛い」
「おやおや、嫌われたものですね」
「だって、お前、絶対笑うだろっ!」
かすがは薄っすらと頬を染めて明智を睨み付けた。
「光秀さん…お願いだから今日だけは席外してくれるかな?」
仄香が申し訳なさそうに明智を見上げると、わざとらしく溜め息を吐き、俺がするように仄香の頭を優しく撫でる。
「可愛い妹のお願いだから仕方ありませんねぇ。今回は見逃してあげましょう。夜勤明けで少し眠くなって来ましたし。では、私はこれで失礼致します」
明智は背を向けてひらひらと手を振りながら歩み去って行った。
「俺も席を外した方がいいか?」
かすがは一瞬躊躇い、そして俺に尋ねた。
「謙信先生を知ってるか?」
「謙信?ああ、俺が学部生の時、博士課程にいた上杉謙信の事か?研究室の部屋が一緒だったからな。知ってるぜ」
「本当か!?じゃあ、仄香とここにいて一緒に聞いて欲しい」
薄っすらと頬を染めた様子で俺は何となく事情を察した。
かすがは上杉に惚れているらしい。
しかも、今日はバレンタインデーだから、それ絡みの事だろう。
俺が小さく頷くと、かすがはバッグの中から箱を取り出して、蓋を開けた。
中身は…これは、チョコレートか?
確かにチョコレートの色のような色だが、こんなにも黒いチョコレートは見た事がない。
「お前が書いてくれたレシピや、ティーン向け雑誌のレシピを見て作ったんだが、どうしても上手く行かないんだ」
「一個食べてもいい?」
「ああ」
俺が制止しようとする前に仄香はトリュフと思しきチョコレートを一口かじった。
かすがは食い入るように仄香を見つめている。
「ねぇ、かすが。ちゃんと湯煎で溶かした?」
「湯煎ってお湯を入れて溶かすんだろ?味見したら味が薄かったから煮詰めてみた」
仄香は目を瞠り、申し訳なさそうな表情になった。
「私の説明が悪かったんだね、ゴメンね。湯煎って、お湯の入ったボウルにチョコレートの入った器を入れて溶かすんだよ…」
「そうなのか!?ティーン向けの雑誌だったら分かりやすいだろうと思って見てみたがよく分からなかったんだ」
「ねぇ、もしかして、人肌程度に温めるっていうのも、ボウルを抱き締めて人肌で温めた?」
「それも違うのか!?」
ボウルを抱き締めて温めようとするかすがの姿を想像すると、滑稽なのに何だか微笑ましかった。
と同時に、普段一体どうやって食事を作っているのか本気で心配になる。
「実家通いで良かったな。自炊は大変だろう」
俺がそう言うと、かすがは怪訝そうに俺を見た。
「私は一人暮らしだが?」
その発言に俺は心底驚いた。
「お前ぇ、普段、何を食ってるんだ?」
「普通に白米とサラダと豆腐だ。簡単だし、失敗はないからな。健康にもいい」
どれも料理とは言い難いが、栄養バランスは取れている。
これがこのプロポーションの秘訣か?
「そっかぁ。だからかすがはスタイルがいいんだね。羨ましいよ。イソフラボン効果でこんなに胸も大きいのかなあ」
仄香は何の前触れもなく、かすがの胸を押し包むように触れた。
あまりに突然の行動に、目を逸すのも忘れ、呆気に取られる。
「そうか?私は仄香くらいが丁度いいと思うがな」
制止する間もなく今度はかすがが仄香の胸を鷲掴みにする。
何の悪気もない行動なのだろうが、俺は思わず目を逸して咳払いをした。
「かすがも女子校出身か?」
「ああ、そうだ」
女子校の利点:悪い虫がつかない
女子校の欠点:同性に対してオープン過ぎる
仄香の貞操は全力で守って来たつもりだが、まさか俺や政宗様の先を女に越されてるなんて誤算だったぜ。
「やっぱり私に手作りは無理か…」
かすがの意気消沈した声に視線を戻すと、がっくりとうなだれるかすがの頭を仄香が撫でていた。
「元気出して。来年はちゃんと一緒に作ってあげるから。それに、上杉先生、かすがが一生懸命選んだチョコなら、お店で売ってるものでも喜ぶと思うな」
「本当かっ!?」
かすがは表情を輝かせて顔を上げたが、すぐに表情を曇らせる。
「でも、私は謙信様がどんなチョコがお好みか知らないんだ。いつも遠くから見つめているだけだからな」
「上杉とチョコレートはあまり接点が浮かばねぇな」
俺が呟くと、かすがは縋るように俺を見つめた。
「何でもいい。謙信様について知ってる事を教えてくれ。頼む!」
もう4年も前の事だが、記憶の糸を辿る。
「そうだな…。研究室にポットがあるだろ?茶器と茶筅を持ち込んで、よく抹茶を立ててたな。茶菓子は大抵干菓子だったぜ」
「お抹茶…。何かチョコにあんまり合わないね…」
「謙信様は私からチョコレートを受け取っては下さらないんだろうか…」
かすがは可哀相になるくらい落ち込んでしまった。
「ねぇ、かすが。今から買いに行ったら間に合うよ。念の為、チョコレートと干菓子両方用意すればいいし。もしかしたら、ハート型の干菓子があるかも知れないよ?きっと、上杉先生もかすがの想いに気付いてくれるよ!」
「そう思うか!?そうだな!なぁ、今から買いに行くの、付き合ってくれないか?」
キラキラと期待に満ちたかすがの視線を仄香は困ったように受け止め、チラリと俺を見て、視線を戻すとかすがの手をそっと取った。
「ゴメンね。人を待たせてるから時間がないの」
「そうか…」
またかすがはしょんぼりとうなだれてしまった。
今日は特に若い女には特別な日だ。
一年に一度、大っぴらに愛を告げる事が許される日。
俺はかすがが不憫になった。
仄香に想いを告げる事が出来ない俺自身と重なる。
それに、仄香の友人ならば手助けしてやりたい。
「仄香。御徒町と後楽園は諦めろ。これから日本橋のデパートに連れてってやる。そこなら大抵のものは揃うだろう。かすが、お前ぇも来い。お前ぇらが甘味を選んでる間に俺が仄香の買い物を済ませてやるよ」
「本当か!?」
「えっ!?私、日本橋のデパートで食材買うほど持ち合わせないよ?」
「安心しろ。お前ぇに払わせるつもりなんざ初めからねぇよ」
「小十郎、お前、いい奴だな。流石仄香自慢の兄貴だ。恩に着る」
「急がねぇと政宗様が痺れを切らす頃だ。行くぞ」
俺は二人を促し駐車場に急いだ。
俺の後ろを歩く二人は楽しそうで、微笑ましい気持ちになる。
二人での買い物デートはなくなったが、女友達と嬉しそうにしている仄香の姿は何だか新鮮で、そんな仄香を見ているのが幸せだった。
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