08.The Moment

ここから日本橋はそう遠くない。
車の時計をちらりと見て、この調子なら思ったほど政宗様をお待たせせずにすむと少し安心する。
後部座席では、かすがと仄香が話に花を咲かせている。

「かすがは上杉先生のどこが好きなの?」
「全てだ。あの方のお声、お姿、あの方が教えて下さる統計学の世界も、全部。謙信様の授業は、夢の中にいるのではないかというくらいに完璧に美しい」
「そ、そうなんだ…」

ちらりとルームミラー越しに仄香を見遣ると、引き攣った笑みを浮かべている。
かすがは、完全に夢の中にいるようなうっとりとした表情を浮かべている。
話し方は男っぽいが、内面は可愛らしい乙女のようだ。
微笑ましくて、思わず口許に笑みが上る。

「そうか。上杉はそのまま統計学の講師になったのか」
「ああ、そうだ。私も謙信様の後を追いかけて大学院に進むつもりだ。なあ、仄香。お前、他の科目は問題ないのに何で統計学だけダメなんだ?」
「だって、講義が全部ひらがなに聞こえるんだもん。『えふてぃーをてぃーでびぶんいたしますよ』って感じに。全然頭に入ってこない…」
「そうか?私は分かりやすくて好きだ!」

大学時代に何度か上杉と話した事を思い出して俺は笑いをかみ殺した。
言葉遣いは美しいが、何故か全てひらがなに聞こえてしまうという仄香の気持ちも分からなくはない。

「今度、一緒に謙信様に統計学を教わりに行かないか?」
「い、いいよ!全然理解していないのが分かったら恥ずかしいもん。それよりさ、かすがが買った雑誌、見せて!」

慌てて仄香は話題を逸らした。

「ああ、これだ」

かすがが雑誌を仄香に渡したのか、後ろからはページを繰る音が聞こえてくる。

「ふぅん。イラスト付きだけど、これじゃ分かり辛いね」
「やっぱりお前もそう思うか?料理が苦手だから作れなかったのかと思ったが、それを聞いて安心した」
「何か、懐かしいな。この雑誌、自分で買ったことはないけど、高校の時、クラスの友達と回し読みしてたから」
「お前もか!やっぱり女子校ってどこも似たようなところがあるんだな!」
「そうだね!何か胡散臭い占いとか信じてないくせにやってみて、結果見て軽くヘコんだり、高校生のスナップ写真見てファッション研究したりさ。…あれ?」
「どうかしたか?」
「これ……政宗…?嘘……」
「何だと!?」

まさかかすがが買った雑誌に政宗様が載っているだなんて予想もしていなくて、俺はすぐさま後方確認をし、車を歩道に寄せて停車した。

「どれだ!?」

車を停車させ、振り向いた俺は雑誌の写真よりも先に、仄香の浮かべていた表情に目が釘付けになった。

仄香は瞬きするのを忘れたかのように、一心に雑誌に目を落とし、手を口に当てている。
その瞳に浮かんでいるのは単なる驚きの色ではなかった。
何か、美しい物でも見るような。
賞讃。憧憬。慕情。
そんなものが入り混じった表情を浮かべていた。

俺の知る限り、仄香が政宗様に対してそんな表情を見せた事は今まで一度もなかった。

「仄香、どうした?知り合いか?」

横からかすがが怪訝そうな表情で仄香の顔を覗き込む。
仄香は視線を写真から離さないまま答えた。

「私の幼馴染で、家庭教師の生徒」
「そうか」

雑誌に目を落とすと、高校生のスナップ集の中でも政宗様と成実の写真が一番でかでかと載っていた。
写真の中の政宗様は学ラン姿で歩道の柵に寄りかかり、嬉しそうに柔らかく微笑んでいた。
隣りにいる成実も、明るい笑顔を浮かべ、肩に学校のバッグをかけている。
これだけはっきりと校章が写っているから学校が割れたのだろう。

政宗様がこんな風に微笑んでいるところを見るのは初めてだった。
写真の端に可愛らしい紙の手提げが少し写っている。
政宗様がクリスマスに仄香に贈ったプレゼントの包みがこれと似ていたと思い当たる。

きっと、政宗様は、仄香に贈るプレゼントを手に入れたからこそ、こんな風に微笑んでいらっしゃったのだ。

仄香を想っていたから…。

写真の下にはこんなコメントがついていた。

『兄弟かな?こんな素敵な男の子達とバレンタインを過ごせたら最高だね!』

俺はこれを編集した人間を殴りたくなった。

政宗様のこの笑顔は仄香だけのものだ。
他の人間に向けられたものじゃねぇ。

こんなもののために、政宗様がお一人では帰宅出来ないほどの目に遭っていると思うと怒りがこみ上げて来る。

「政宗って…こんなにカッコ良かったっけ…?」

呟かれた仄香のセリフに胸の奥が冷や水を浴びせられたようにギュッと締め付けられる感覚に陥る。

いつかこんな日が来ることは分かっていた。
政宗様もいつまでも子どもではない。
いずれは成長し、仄香を守ってやれるくらいの男になる。
いつか、仄香がそれに気付く日がやって来る。
それがこんな形で訪れるとは思っていなかった。

俺達は仄香を共有することにあまりにも慣れていた。
政宗様の幼さを理由に仄香への想いを誤魔化し、ぬるま湯のような幼馴染という関係に甘えていた。

いつか、仄香が政宗様を男と意識するようになれば、俺もこの想いを告げる。
そう決めていたのに、いざ仄香が政宗様を男として意識し始めた今、俺はどうして良いのか分からなかった。

俺も政宗様もずっと昔から仄香を愛している。
政宗様の想いを知っているからこそ、二人で争いたくなかった。
かと言って、すぐに譲れるほど軽い気持ちで仄香を想っているわけではない。
ずっとずっと大切に仄香を見守っていた。
俺にとって一番大切なのはもちろん政宗様だが、それとは全く別の次元で、比べられないくらい仄香は俺にとって大切な存在だった。

ずっと愛していたと告げたい。
このままの関係を崩したくない。
政宗様と争いたくない。

引き裂かれるような思いに俺は思わず眉間に皺を寄せ、仄香の手から雑誌を奪った。
そして、雑誌名とページを書いたメールを綱元に送った。

「小十郎、どうしたの?」

仄香は心配そうな顔つきで俺を見つめた。

「この写真、成実のバッグの校章が写ってるだろう?他校の女子が大勢学校のそばで待ち伏せしていたらしい。政宗様も成実も帰るに帰れなくてな。だから迎えに行くところだったんだ」
「そうなの?うん、でも、分かる気がする。だって、スナップの中で政宗と成実が一番カッコいいもん。これだけ大きく載ってるし。政宗と成実が心配だね」
「ああ。そろそろ行かねぇとな」

仄香は納得したように頷いた。
俺の表情が険しかったのも、政宗様の御身を心配してのことだと思ったのだろう。

本当はそれだけじゃねぇんだ。
本当は…。

でも、俺はそれ以上何も言う事が出来なくて、無言のまま車を発進させた。
仄香とかすがは相変わらず会話を弾ませていたが、ただ右から左へと抜けていくだけだった。


仄香、お前ぇは気付いてねぇかも知れねぇ。
だが、多分今日が俺達の未来を分ける運命の日だ。

いつか後悔する日が来るかも知れねぇ。
もう一度あの日の朝に戻りたかった、ってな…。
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