「これ使っていいよ」
俺は、机の上の小皿を遙に差し出した。
遙は、タバコの箱をバッグから出して、そして震える手でタバコに火を点けた。
胸いっぱいに煙を吸い込んで吐き出すと、ようやく少しは落ち着いたのか、震えが少し収まった。
そして、タバコの箱を指差した。
「このタバコはね、政宗と初めて結ばれた翌朝に政宗が選んでくれた、思い出のタバコなの。Keep Only One Loveで、KOOLなの。あれ以来、ずっとこのタバコ。ずっと政宗だけを想い続けるって約束のタバコなの」
「ああ、それで君は時折、遠くを見る目でこの箱を見つめていたんだね。たった一つの愛を貫け、か」
遙は頷いて、またタバコをゆっくりと吸った。
でも、タバコを吸いながら、また目に涙が溢れて行く。
そして、短くなったタバコを揉み消して、また嗚咽を漏らして泣いた。
「私っ!政宗との約束守れなかった!!政宗にしか許したくなかったのにっ!!穢されたっ!!もう、政宗に愛される資格なんてないっ!!嫌っ!!自分の身体が気持ち悪くて仕方ないっ!いやぁあああっ!!」
遙は身体を掻きむしるように身悶えて、錯乱したように声を上げて取り乱した。
若草も声を失い、茫然としている。
やはり、若草はまだ処女だから、遙の気持ちがよく分からなくて、どう声をかけたらいいのか分からないんだろう。
身体の穢れについては、俺の方が嫌っていうほどよく分かっている。
だけど、一度穢れたら、それがずっと付きまとって穢れが祓えない気持ちもよく分かる。
「佐助様、私、薬湯をご用意致しましょうか?」
「そうだね。それしかないかな」
「嫌っ!!薬は嫌っ!!怖いっ!!いやぁあああ!!」
遙は頭を抱えて、いやいやと首を横に振って、身体を小さく丸めた。
また真田幸村に対する怒りが込み上げる。
あいつがあんな薬を使ったせいで、遙は薬湯すら受け付けない。
若草も困ったように遙を見つめていた。
俺は溜息を吐いて何とか怒りを堪え、そっと遙を抱き締めて、ゆっくりと背中をさすった。
一瞬抵抗するように遙は暴れたけれど、あくまでそっと背中を撫で続けると、ようやく叫び声を上げるのを止めた。
「遙、落ち着いて。もう誰も君を傷付けられないから、落ち着いて。ここは、俺の部屋だから、焔と若草しか入れない。真田幸村には制裁を下したし、完全に配下から離れたから真田幸村はもう里にすら入れない。だから、落ち着いて」
「怖いっ!幸村の事、信じてたのにっ!佐助も気が変わったりしない?」
「そんな事はしないよ。俺は政宗殿と約束をしたんだ。必ず政宗殿に君をお返しするって。例えお館様を裏切ってでも。あの天下人が君しか愛せないなら、君は政宗殿の下に帰るしかない。それが天下の太平に繋がるなら、俺は甲斐を捨てられる。俺は政宗殿の漢気に惚れたんだ。だから、政宗殿を裏切るような事はしない。君の事を守るって政宗殿に約束して、政宗殿も右目のあの子の治療が終わるまで、君を俺に託すって言ってくれた。男同士の約束だからね。だから、俺は君を傷付けたりしないよ」
「政宗と佐助が約束…?」
「ああ、そうだ。政宗殿は右目のあの子の治療に懸ける君の気持ちを尊重して引いたんだ。だから、この先、少なくとも3日分の治療の指示を今すぐしてくれる?そうじゃないと、政宗殿が引いてくれた意味がなくなるから」
遙はしばらくぐすぐす泣いていたけど、やがて頷いて、鞄の中から3日分の薬を取り出して、薬の調合をして俺に差し出した。
それから、丸く浅いガラスの皿も差し出した。
「これ、3日分の薬。点滴の間隔に変更なし。それから目からの浸出液を一日数回確認して。確認の際は、このガラスの器で採取。濁りが見えたらすぐに報告。ああ、ダメだ、もうこれ以上、考えられない…」
「分かった、とにかく今は休んで。若草、布団の用意して。俺は数日は寝ないから、遙と君の分だけでいい」
「かしこまりました」
若草は布団を敷いて、遙を寝かせた。
遙はしばらく声を殺して泣き続け、やがて泣き疲れて眠った。
若草も、まだ寝る時間じゃないけれど、遙の隣りに横たわり、手拭いで包んだ遙の髪を丁寧に乾かしながら、また涙ぐんでいた。
1時間ほどして、焔の気配を部屋の外に感じて、俺は焔を部屋に呼んだ。
「焔、これ、3日分の薬ね。あの子の付き添いの部下に、今までと治療は同じって伝えて。それから、このガラスの皿で目から出る浸出液を一日数回量と色を確認。濁りが見えたらすぐに報告。それが遙からの伝言。焔、何か報告ある?」
「遙様のご指示については了解致しました。姫様付きのくノ一を交代させ、姫様の外出の件に関して聞き出しました。疱瘡の予防接種を拒んで、隙を突かれて失神させられ、目覚めた時には姫様は屋敷におられなかったそうです。しばらくして、姫様は憔悴しきって屋敷に戻られ、お館様も姫様を厳しくお叱りになった後、姫様のご様子がおかしいのでそのまま休ませたそうです」
「そうか…。じゃあ、姫様は家出して、もしかしたら伊達政宗に出会ったのかも知れないね。そう考えれば辻褄が合う」
「断言は出来ませんが、恐らくその通りでしょう。また、伊達政宗の動向についてですが、撤退の布陣を敷いたまま、甲斐に留まっております。伊達成実をしんがりにするため3000騎以上の軍勢を甲斐領内、武蔵付近に進軍中。伊達政宗と片倉小十郎は後退し、武蔵に一番近い宿場にて逗留中です。右目の子どもの治療が終わればすぐに遙様をお迎えに来られるつもりでしょう。江戸に戻れば二度手間ですから、しばらくはそこに逗留するものと思われます」
「なるほどね。あそこは温泉があるから甲斐で湯治中とでも言い訳をして、遙を迎えた後にでもお館様にご挨拶するつもりかな。困ったな…。右目のあの子が治るのと、遙の痣が治るの、どっちが早いか微妙だ。また伊達政宗の気が変わって、村に様子でも見に来られたらかなりマズい」
「そうですね。しかし、数日は伊達政宗も動かないはずです。数日以内に遙様に文を書いて頂けたら、伊達政宗も動かないでしょう」
「それしか方法はないね」
「分かりました。では、またお部屋の外にて控えております」
「ああ、頼んだ」
焔は部屋の外に控えた。
それから間もなくして遙はうなされ始めて、絹を裂くような悲鳴と共に目覚めてまた酷く取り乱した。
それを何とか若草が辛抱強く宥めて、やっと落ち着いた頃には、髪も乱れ、涙で頬は濡れ、汗でびっしょりだった。
遙が落ち着いた後、焔が部屋に入り、催眠で記憶を封じて、ようやくまた遙は眠りに落ちて行った。
「佐助様、想像以上に遙様は傷付いておられます。記憶を封じるのにも限界がありますが、あと3時間くらいならばまだもちます。ただし、2日経っても改善しない場合、やはりこのままの状態でも伊達政宗の下にお返しするしか他に手立てはございません。この頻度で催眠をかけ続けたら、記憶を失います。2日経てば伊達政宗も少しは落ち着くはずです。それに、恐らく遙様が姿を現さなかった事に疑問を抱いて動き出しかねません」
「はぁ、そうだね…。戦にならないように、遙には伊達政宗を止める文を書いてもらわないといけないね。でも、それは記憶がある状態じゃないと無理だ。かなり難しい」
「そうですね。何か手はないか思案します」
「分かった」
「焔様、このままでは遙様がお風邪を召してしまいます。まだ御髪の土も綺麗には取れておりません。遙様の記憶が封じられているうちに、私と湯浴みをするのはいかがでございますか?」
若草に尋ねられて、焔はしばらく悩んでいた。
「決してお身体を見せないように、注意しながらならば構わないだろうが、あまり勧められない。しかし、お前の言う通り、このままではお風邪を召してしまわれる可能性も否定出来ない。御髪の土に気付いてまた取り乱されるやも知れぬと考えたら、湯浴みをして頂くのも一つの手だ」
「では、お身体を見ないように、遙様の気を逸らすように気を付けます」
「ああ、分かった」
若草は、遙を優しく起こし、遙は不思議そうな表情で目覚めた。
若草は、巧妙に夢の中の出来事のように振る舞い、遙を部屋の外の風呂場へと共に出て行った。
しかし、間もなく遙の悲鳴が聞こえて、俺達は外に飛び出した。
若草が何とか遙の着物の合わせを直して遙を抑えようとしてるが、錯乱した遙に手はつけられないようで、若草は涙目で俺を見つめた。
仕方なく俺は手刀で遙を気絶させ、抱き上げて部屋に戻り、布団に寝かせて溜息を吐いた。
若草が泣きながら謝っている。
「申し訳ございませんでしたっ!まさか、腕にまであのように痣が出来ていたとは夢にも思わず、遙様はご自分の腕を見た瞬間に記憶が戻り、取り乱され、お身体の痣を欺く事も出来ませんでした。申し訳ございませんっ!!」
そう謝りながら、若草は泣き崩れた。
「酷いですっ!!あんなに遙様の目に入る所ばかりあのように傷付けるなんて、遙様はあの痣を見る度に余計に傷付かれますっ!!真田幸村を、私は許せませんっ!!」
そう叫んで若草はまた泣きじゃくった。
俺はその頭をそっと撫でながら言った。
「若草は悪くないから、自分を責めないでね。俺の説明不足だったのがいけないんだ。でも、君の気持ちもよく分かるよ。だからこそ、俺と焔はきちんと真田幸村に報復をした。猿飛佐助忍隊が全て完全に真田幸村の配下を離れたのもそのためだからね。だから、もう泣かないで」
俺は若草が泣き止むまで、ずっと頭を撫で続けた。
焔は深い溜息を吐いた。
「かなり強い催眠を施したのですが、それでも記憶を封じられなかったのであれば、もう手立てはございません。とりあえず、湯浴みは諦めて、また別の方法で落ち着いて頂き、何とか伊達政宗へ文を書いて頂く所まで回復して頂くより他ございません」
「そうだね…。はぁ…。でも、遙、この状態で伊達政宗に会えるのかなぁ」
「恐らく拒絶なさるでしょうが、先ほどの状況を見る限り、愛する夫でしか癒せないでしょう。また、伊達政宗自身、大きな心の傷を乗り越えたお方でございます。その上、伊達政宗の心の傷を癒すのに一役買った、片倉小十郎までおります。今の遙様を癒すには、この上ない適任者でございます。俺は、このまま伊達陣営の諜報を続けさせます。しばらく席を外しますが、その後、またお部屋の外にて控えておりますので、何かございましたらまた飛んで参ります」
「ああ、分かった。焔、下がっていいよ」
「では、失礼致します」
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