Au Revoir -3-

翌日、ミーティングが終わると、教授に呼ばれ、私はそのまま会議室に残った。

「先生、お話とは何でしょうか?」

普段から目をかけて下さっている先生なので、また手術のお手伝いか、または執刀させて下さるのではないかと、私は期待した。
先生は言いにくそうに、困った表情をしていて、嫌な予感が過ぎる。

「留学の件なんだが…」
「はい」

先生の不穏な表情から、嫌な予感しか胸の奥に広がっていかない。
私は固唾を飲んで先生の言葉を待った。

「貴女は、ご両親の御了解を得ていなかったんだね。留学の件に関して、ご両親から抗議があって、貴女を内定者から外さなければならなくなった」

先生は渋い表情を浮かべて溜息を吐いた。

「貴女は優秀な外科医になると思う。学生の頃からそう思って、私も応援していた。貴女のご両親は、内科医になって病院を継いで欲しいのだそうだ。貴女は手術も丁寧で手早いし、手先も器用で、何より勉強熱心だ。患者にも慕われている。私の下で、外科医になって欲しいと心底思うよ。だが、ご両親を敵に回してまで貫くべき希望でもない。君のご両親は、医師会の中でも力を持ってらっしゃるから、頼れるものならご両親を頼った方がいい。それに、確かに女性には厳しい職種だ。現場から離れるとすぐに腕が鈍ってしまうからね」
「そんな…」

目の前が暗くなる思い…というのは、こういうものなのか。
言葉を失って先生を見つめていると、先生は申し訳なさそうに続けた。

「貴女は男性に生まれてくるべきだったのかも知れない。男尊女卑はいけないとは思うが、ライフステージを考えると、どうしても女性には不向きな職種がある。後任は来栖君に決定したよ。貴女は、内科医としても素晴らしい医師になれるだろう。残念だけど、内科の医局にはきちんと私が推薦するから安心しなさい。御実家に胸を張って送り出せるようこれからも指導するつもりだ」

その後、私はどう先生に答えたのか全く記憶がない。
気付いたら、涙が頬を濡らしていて、いつの間にか先生がいなくなっていた。

「今まで頑張って来たのに、何でっ…!!」

ただ、もう少し結婚を先に延ばしたいだけだった。
今は、医師として成長する事が最大の楽しみだった。
実家にずっと戻らないつもりではなかった。
いずれ、帰らなければならない事も分かっていた。

なのに、何故、今すぐに戻らなければならないの…?

「政宗っ…!!」

もう、政宗を想っている事すら許されなくなる。
上辺だけの夫婦でいればいいと言ってくれる人もいるかも知れないけれど、それはあまりにも背徳的な事のように思えた。

今すぐ政宗に会いたい。
どんな形でもいいから、もう一度出会って、安心するまでずっと抱き締めていて欲しかった。

もう一度、「政宗」と呟くと、不意に扉がガチャリと開いて、私は慌てて俯き、涙をぬぐった。
そして、相手を見ないままに、部屋を立ち去ろうとすると、ぐいと手首を引かれて引き戻された。

「待てよ、遙」

声を聞いて、部屋に入って来たのは来栖君だと気付く。
私の留学の後任に決まったのは来栖君だと先生が言っていた。
何故こんな所をよりによって彼に見られなくてはならないんだろう。
とてもいたたまれない気持ちになって、手を振り払おうとすると、より一層強く引き寄せられた。

「離して…!」
「少しの間でいい。時間をくれ」

涙に濡れている私の顔を見ても驚かない様子では、もう、私の留学が取り消しになった事を知っているようだった。
そう悟ると、悔しさでまた涙が溢れる。
来栖君に掴まれていない方の手で涙を拭うと、くしゃりと頭を撫でられた。

「教授から話を聞いた。お前、実家に連れ戻されるんだってな」

来栖君にとってはただの世間話なのかも知れないけれど、今の私にとってはただただ痛い言葉だった。

「言いたいのはそれだけ?仕事に戻らなきゃ。離して!」
「藤次郎と結婚するのか?」
「え?」

来栖君の口から出た意外な名前に思わず目を上げると、来栖君は表情を読むようにじっと私を見詰めていた。

「その様子じゃ違うな。お前、藤次郎とはとっくの昔に別れたんだろ」
「っ…!!」

別れたくて別れた訳ではない。
いや…。
もしかしたら私の迷いのせいで別れてしまったのかも知れない。
あの時、最後の瞬間、政宗の手は、確かに私の手をしっかりと握っていた。
あのまま身を委ねれば、私は今も変わらず政宗に寄り添っていられたのかも知れない。

何度も悔やんだ。
夢に見て、目覚めると必ず頬が涙で濡れていた。
だからこそ、政宗と別れた事については誰にも触れられたくなかった。
口を噤んだまま、目を逸らしていると、来栖君は溜息を吐き、そのまま私の頭を撫でた。

「遙って鈍すぎる。俺が気付かないとでも思うのか?盆と正月ですら最低限しか実家に帰らない。仙台に藤次郎がいるなら真っ先に帰るだろ?藤次郎と結婚するんだったら、お前は留学に申し込んだりしないはずだ。あいつ、お前を捨てたのか?」
「違うっ!!」
「じゃあ、何で…!!」
「離してっ!!」

これ以上問い詰められたくなくて、無理矢理に手を振り払おうとしたら、不意に手を離され、そして私は抱き締められた。
ぽろぽろと涙が溢れ、視界が滲む。
身を捩っても、痛いくらいに抱き締められて身動きが取れなかった。

「ねぇ、もう止めて!お願いっ!!もう、嫌…」

拒む事すら許されず、悲しくて、悔しくて、涙だけが零れていく。

「遙…。お前、お見合いさせられるんだろ?」
「何で知ってるの?」

鼻を啜りながら涙声で尋ねると、優しい声で来栖君は話し出した。

「大病院の子ってそういう人多いからさ。何となく。なぁ、何で俺じゃダメなんだよ?俺、学生の頃からずっと遙が好きだった。お前が誰を愛していようとずっと好きだった。俺だったら、遙の両親に気に入られる自信がある。婿入りするのも構わない。なのに、知らない男にお前をしかも見合いで奪われるなんて耐えられない!何で見も知らない男と結婚するんだよ!どんな奴か知らないんだろ?そいつ、浮気するかも知れないんだろ?俺だったら、一生遙を大切にするのに!!」

思いがけないプロポーズの言葉に固まる。

見ず知らずの人と結婚する…。
それはずっと先の話だと思っていたのに、こうして実家に戻る事が現実味を帯びると、そう遠い話でもないのだと、突き付けられたような気がした。

愛されるかどうかも分からない結婚…。
それだったら、例え想いはなくとも、こうして私を好きだと言ってくれる来栖君と結婚した方がいいの…?

「遙、今の話、前向きに考えてくれ。俺、お前をアメリカに連れていく心づもりでいるから。だから、そんなに時間はやれないけど。じゃあ」

そう囁くと、私を解放し、来栖君は部屋の外に出て行った。
私はその後ろ姿をぼんやりと見つめている事しか出来なかった。
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