仕事中はすっかり忘れていられるのに、こうして気が緩むと意識の深層から浮かび上がるように、会議室での会話が脳裏で再生された。
何で見も知らない男と結婚するんだよ!
どんな奴か知らないんだろ?
そいつ、浮気するかも知れないんだろ?
俺だったら、一生遙を大切にするのに!!
愛されるかも分からない見ず知らずの人と結婚するくらいなら、来栖君に一生愛される方がいいの…?
棚に目を遣ると、政宗と一緒に微笑んでいる写真がたくさん並べられていた。
普段はバッグにしまっているロケットを開けると、あの頃と変わらない政宗の優しい笑顔が現れて、言葉では言い表せないほどに恋しくて、恋しくて、胸の奥が苦しくなる。
もう、政宗に抱き締められる事もない。
私に残された選択肢は、来栖君を選ぶか、それとも愛のない結婚を選ぶ事だけだ。
ずっと政宗だけを想っていたかった。
想っていれば、いつかまた会えるのではないかとすら思った。
再び出会った時に、後ろめたい思いをしたくないし、ずっと真っ直ぐに政宗だけを愛していたかったから、頑なに他の男の人を遠ざけていた。
でも、それでも叶わないなら…。
私は息苦しさから震える手でバッグから携帯を取り出すと、電話をした。
ダイヤル先は……来栖君だ。
私は彼と一度、正面から向き合う必要がある。
出ないなら、それも運命なのかも知れない。
数回のリングトーンの後に来栖君が電話に出た。
「もしもし、遙?どうした?」
「あの…私…」
言い淀んで言葉を切る。
これを伝えてしまったら、私と政宗の絆は最後のような気がした。
「ゆっくりでいいから言ってごらんよ。俺は待ってるから」
来栖君の声音は勝利を確信したような、とても優しい声音だった。
その声を聞いて、これが自分の運命かも知れないと思うと、自分の中で何かがガラガラと音を立てて壊れていくようだった。
「私…お見合いは嫌。でも、来栖君の事もよく知らなくて…。だから、その…」
「知らなかったら、これから知って行けばいいだろう?遙にはその気があるの?」
私は少しの逡巡の後、「うん」と頷いた。
電話の向こうで、ホッとしたような深い吐息が聞こえた。
「良かった…。遙、次の休みが合ったら一緒に出かけたい。それに同じ職場に勤務してるんだし、飯の時間が合うなら一緒に食べに行こうよ」
「うん」
同意しているのに、全くその実感がない。
言葉がただ耳から入り、そして意味をなさないままに頭から抜けていくような感覚がしていた。
それでも、来栖君の声は嬉しそうに弾む。
「俺、絶対に遙を幸せにするから。一緒にアメリカに留学して、そして、帰ったらお前の病院を一緒に継ごう。じゃあ、また明日、病院で」
「うん。じゃあね」
電話を切ると、一気に虚しさが押し寄せた。
自分で、自分の運命に手を下してしまった、事の重大さに身体が震える。
望んでいたわけではなかった。
自分という人間が嫌になる。
愛するつもりも資格もないのに、自分の身の可愛さ故にプロポーズを受けてしまった。
もう、二度と…。
政宗には会えない…。
家を継がなければいけない事を知っている政宗は、私が誰かと結婚しても許してくれるかも知れない。
それでも、私は自分が許せなかった。
私は政宗を愛する資格を失ってしまったというのに、決断を下してしまうと一層会いたくて、恋しくて、切なくて涙だけが零れていく。
私は涙も拭わないままに、奥の部屋のクローゼットに向かい、そしてドアを開けた。
そこには、あの頃と変わらない、政宗の服が吊るされている。
あの、婚礼の時、政宗が着ていたスーツを取り出し、そして胸に抱き締めた。
7年という歳月は、政宗の香りを風化させるには十分だった。
それでも、こうして抱き締めると香りすら思い出せるようだった。
背が高くて、しっかりとした身体つきも思い出す。
あの日、感じた喜びは、私の人生で最初で最高のものだった。
でも、私は、政宗の所有物だったものを全て捨て去らなければならない。
別の人と結婚するというのはそういうものだ。
曖昧な記憶をいつも鮮やかに蘇らせてくれた、政宗の思い出の品物にすら、私は永遠に別れを告げなければならない。
それは、もう一度政宗を失う事を意味しているようで、離れがたくて、辛くて、ますます強くかき抱くと、あの頃の政宗の温もりや、優しい愛の言葉が次々に思い出されて、ただただ涙が零れた。
ずっと愛していたかった。
思い出の品を見て、二人の優しい記憶の海にたゆたっていたかった。
でも、それも、もう出来ないんだね。
これが、永遠のさよならなんだね。
そう思うと、魂が引き裂かれるようで、痛くて、辛くて、悲しくて、私は声も上げずにひたすらに涙を流した。
そして、涙は私がすっかり眠りに落ちるまで枯れることはなかった。
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