前夜

娘に義眼を入れた日は、遙は疲れ切ったのか、部屋に戻るとそのまま眠ってしまった。
俺は、感情が昂ぶって、なかなか寝付けず、遙の無表情な寝顔を見つめながら、ずっと隣りに寄り添って、戯れに遙の長い髪を指に絡ませては、さらさらと零れ落ちる感触が心地よくて、飽きる事なくそれを繰り返していた。
やがて、心も段々と穏やかになり、遙を抱きすくめて、俺も安らかな眠りに落ちて行った。

それから3日間、俺達は念入りに当日の打ち合わせと予行演習を行った。
猿飛は、首尾を何度も確認し、要領を得ると信玄に会いに行き、当日の警備についての打ち合わせをして戻って来た。
その際、伊達軍の進軍ルートも信玄からの援護の確約を得て、計画は着々と進んで行った。
焔も、猿飛の代行として、忍隊の動きについて、里に一度戻り、全忍隊に当日の首尾を叩き込んで戻って来た。
また、伊達陣営でも小十郎が部下を叱咤激励をして、前衛の成実とも打ち合わせをして、後続部隊の指揮も取り、大忙しだった。

遙は、まだ体力が回復しないのか、予行演習の後は死んだように眠ってしまって、随分と俺を心配させた。
それでも、日に日に少しずつ昼寝の時間は短くなり、二人きりの時間を惜しむように、抱き合ってはキスを繰り返し、俺は何度も遙を抱いた。
遙は、もう俺を拒む事なく、ただあの頃のように、優しく気だるい時間を過ごした。

禍々しい紫色に変色したキスマークは、少しずつ薄れ、薄皮を剥がすように、少しずつ肌の透明感が戻って行った。
それでも、決行当日までには間に合いそうにない。
元々の肌が綺麗なだけに、この痕があるうちは、やはり真田幸村を当然許す事なんて出来なくて、報復の事を考えては何とか溜飲を下げていた。

そしてついに決行前日になった。
焔とくノ一達は、予行演習の後、すぐに里に戻って行った。
遙は、少し眠った後、夕餉が終わったら、猿飛に小十郎の笛を聞かせたいと言い出した。
最後の晩だけでも、気分を切り替えて、楽を楽しみたいと言われれば、俺も最後の晩くらいは宴を楽しみたくなって来た。
深酒しない程度に、遙の琴と小十郎の笛を聞くのはとても気分が良さそうだ。

俺達は、夕餉を共にし、それから宴となった。
小十郎は、遙の琴を用意し、笛を帯に差して戻って来た。
膳の上の赤い杯には並々と酒が注がれて、遙は嬉しそうに微笑んだ。

「小十郎の笛を聞きながら、お酒飲むの夢だったんだ」
「そうか?江戸に戻ったら、いくらでも聴かせてやるよ」
「左様でございます。この小十郎の笛でよろしければ」
「俺も右目の旦那の笛、楽しみだなー。もちろん遙のお琴もね。またこうして聴けると思うと嬉しいよ。風流だったなぁ…」

猿飛は遠い目をして微笑み、ちびちびと酒を飲み始めた。
俺が目で合図をすると、小十郎は頷き、笛を奏で始めた。
俺が好んで能を舞う時の調べだ。
静と動、二つの動きが目に浮かぶような、繊細でいて、時には鳴かせるような激しい調べに、遙はうっとりとしたように溜息を吐きながら、酒を煽っていた。
あまりにもペースが速いので、笑いながら酒を注いでやると遙は嬉しそうに笑った。

「お前、速すぎ」
「だって、小十郎の笛、気持ちいいし、このお酒美味しいんだもん。ね、佐助?」
「そうだね!それにしても右目の旦那の笛、すごいねー。遙と合奏したら、ヤバいくらいすごいんじゃないの?」
「ああ、当然だ。後で聴かせてやるから、とりあえず飲め」

俺は猿飛の杯に並々と酒を注ぐと、猿飛も俺の杯に酒を注いだ。
俺も小十郎の笛に聞き惚れながら、遙の肩を抱き寄せ、頬にキスを何度かして、また酒を飲んだ。
遙は始終上機嫌で、俺に寄り添い、驚くほど速いピッチで酒を煽っていた。

「お前、こんなに飲むの速かったか?」
「男社会で揉まれて速くなっちゃったの。ううっ、また幻滅された…?」
「いや、顔が赤いから心配になっただけだ」
「ふふっ、私、顔が赤くなるのは早いけど、そこからが長いよー。ああ、本当にいい気分!」

遙の浴衣は少しはだけ、崩した脚が浴衣の裾からチラリと見えて、セクシーな事、この上ない。
飲むにつれて、遙は少しずつ大胆になり、俺の胸に頬を寄せて甘え始めた。
それを、猿飛が微妙な顔をして見つめていた。

「ねぇねぇ、俺、退散した方がいい?」
「やだやだ!佐助も一緒に飲むの!」
「でも、俺、当てられちゃって涙目」
「んじゃあ、小十郎と合奏しようかな。それだったら聴いてくれる?」
「ああ、それならいいよ」

遙は立ち上がり、浴衣の乱れを直すと、琴の前にきちっと座った。
こうして見ると、本当に姫にしか見えない。
小十郎は苦笑いをしながら笛を止めて遙を見つめた。
猿飛は俺の隣りに移動して来て酌をした。

そして、小十郎が遙に目で合図をすると、春の海を奏で始めた。
繊細な琴のイントロに笛の主旋律が重なると、隣りに座っている猿飛は、息を呑んで遙と小十郎を見つめた。

「すごい…!!」
「ああ、名人同士の共演だな。前より上手くなってる。いい気分で飲めそうだ。お前も飲め」
「ありがと。それにしても、すごいよ、これ!」

猿飛は、半ば惚けたように二人に見惚れ、酒を飲むことすら忘れている。
俺も、琴を奏でる遙に見惚れ、ゆっくりと酒を飲んだ。

ああ、本当に風流な調べだ。

「風流だねぇ…。それにしても、すごすぎる!」

笛と琴の激しい掛け合いになると、猿飛は驚いたように目を瞠り、息を潜めて小十郎と遙を交互に見つめていた。
やがて、掛け合いが終わると、また風雅なイントロに戻り、猿飛は我に返ったように、俺に酒を注ぎ、自分もゆっくりと杯を煽った。

「あー、本当にいい気分!こんな二人をお抱えだなんて、流石天下人」
「遙の琴がこんなに上手いなんて知らなかったけどな。俺より先に聞きやがって、抜け駆けだな」
「ごめーん!だってさ、お座敷にお琴があったからしょうがないじゃん?でもさ、俺、あの日が最後かなって思ってたから嬉しいよ、こうして呼んでくれてさ」
「お前には世話になったからな。それに、飲む相手がいるのは俺も嬉しいぜ?」
「そう言ってくれると嬉しいなー」

小十郎と遙の激しい掛け合いを聞きながら、猿飛は心地良さそうに目を伏せて、ゆっくりと酒を飲んでいた。
そして、間もなく、琴の独奏で春の海は終わった。
琴に目を落としていた遙が顔を上げて、俺を見つめて笑った。

「前より上手く弾けた気がするんだけど、気のせい?」
「いや、上手くなってる」
「そうですね。ここ数日、練習なさらなかったのに、大変ご立派でございました」
「本当?小十郎がそう言うなら間違いないね!…はぁ…でも、帝の前だと緊張しちゃうんだろうな…」

その瞬間、猿飛は驚いたように咳き込んだ。

「げほっ、ごほっ!!み、帝!?遙、帝の前で弾くの!?」
「うん、政宗がそう言ってた」
「何でまた帝の前でだなんて、恐れ多い!」
「遙を式部卿宮の養女にして、正室として迎えるためだ。その前に、足利家と養女縁組だな。俺と遙の祝言には誰にも文句は言わせねぇ。娶るのも遙だけだ」
「なるほどねー。帝に認められて、式部卿宮の養女になったら、縁談騒ぎもなくなるもんね。確か式部卿宮は歌とか楽が好きだったから、右目の旦那との合奏があれば上手くいく可能性は高いし、太政大臣の政宗殿にはまず逆らえないね。全く、そこまでもう考えてたなんて知らなかったよ」
「まだ根回しが終わってないけどな。さっさと甲斐の用事を済ませたら、養女縁組の段取りに入る。…猿飛…。お前、甲斐に居づらくなるんじゃねぇか?お前さえ良ければ、俺はお前を江戸に連れ帰る」

そう言うと、猿飛は天井を仰ぎ、少し悲しそうな表情を浮かべた。

「確かに真田幸村は許せないんだけど…。なんて言うかさ、ほっとけないというか…。多分、政宗殿が遙を正室として迎えたら、武田のお家騒動も収まると思うんだけど、真田幸村の漢気が見たいってのが本音かな…。俺は、政宗殿の復讐に賭けてるんだ。真田幸村の目が覚めないかなって。そうなった時、俺の気持ちとお館様のお考え次第で、江戸に行くか決めるよ。政宗殿に惚れ込んでるのは確かなんだけどね。何かまだ後髪が引かれるんだ」
「なるほどな。元、主君だ。お前も色々考えがあるだろう。じっくり考えればいい。江戸に来たかったら信玄と交渉してやるから気にすんな」
「ありがとう、本当にね」

猿飛は弱々しく笑った。

「とにかく、今は余計な事は忘れろ。せっかくの酒だ。おい、小十郎!お前も飲め。遙、割引の琴を聴かせろ」
「割引って言わないで!六段って言うんだから!」
「分かった分かった。六段を弾いてくれ」

遙は頬を膨らませた後、笑いながら戯れに琴をかき鳴らし、やがて六段を弾き始めた。
小十郎も酒の席に加わり、遙の琴に聞き惚れながら俺たちはゆっくりと酒を飲んだ。
本当に、ここが満開の桜の木の下だったら言う事がないほど美しい。

やはり、上洛は紅梅か桜の頃がいいかも知れない。
それまでの間に、全ての段取りを終えて、祝言の仕度もゆっくりとしたい。
明日の予防接種が終わったら、すぐに引き揚げだ。

そんな事を考えながら、また遙の甲斐での働きや猿飛の気持ちについて話しながら、俺たちはゆっくりと飲んだ。
遙は琴を弾き終わると、いそいそと酒の席に加わり、猿飛との女子会の話を嬉しそうに始めて、また俺と小十郎を爆笑させた。
猿飛も情けなさそうな表情を時折見せながらも、段々と話に乗って来て、それがまた美紀にそっくりで俺を笑わせた。

あんなに風雅で、また、楽しい酒の席は久々だった。
遙と猿飛がいると、場が明るくなる。
いつまでもそうして飲んで笑っていたかったが、翌日の事を考えて、俺たちは早めに切り上げ、それぞれの床に就いた。

明日が終われば、またすぐにそうして楽しく笑い合える。

その時は、そう信じて疑わなかった…。

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