振り返ると、本来玄関の扉があるべき所に、あの空間で見た白い扉があった。
腕時計を見ると、午前2時を指していた。
夜明けまで、3時間半ほどある。
電話するには遅すぎる時間かも知れない。
でも、私が話したい人物は2人いた。
これで最後と言うなら、私は躊躇ってなどいられなかった。
寝室に入り、携帯電話を取り出す。
1件目は、母だった。
数回のリングトーンの後に、母が電話に出た。
「もしもし、お母さん?」
「遙?やっと仕事が終わった所?電話、かかって来ると思ってた。留学を取り消させてしまったから…。怒ってる?」
昼間、そんな話を教授としたけれど、遠い過去の話のような気がした。
確かに、悔しくて悔しくて堪らなかったし、怒りと悲しさでどうしようもなかったけれど、それは、これからも親子関係が続いていくのが前提だった。
私を厳しく優しく、愛情を持って育ててくれたお母さん。
何も恩返しが出来ないうちに、私は消え去ってしまう。
あれだけ手塩にかけて育ててくれた記憶も全て消えて、私の存在自体がなかった事にされてしまう。
私に出来る事は何もなかったけれど、お礼を言いたかった。
生まれて来て良かったと。
人を愛せる人間に育ててくれて、ありがとう、と。
私が生まれて来た事さえなかった事にされてしまうけれど、私は両親のおかげでこうして存在している。
それは、とても尊い事だ。
「怒ってないよ。私、変な事を言ってるかも知れないけど…。生まれて来て良かった。生んでくれてありがとう。人を愛せる人間に育って良かった。お父さんとお母さんの子供で本当に良かったと思ってるよ」
「遙、急に改まってどうしたの?」
母は、少し心配そうに私に尋ねた。
言おうか少し悩んで、それでも私は言葉を続けた。
「好きな人がいるの。私、その人と幸せになるから心配しないで」
「遙…。まるで結婚するみたいな口振りね。それで、あんな事を口走ったのね。遙が戻って来てくれるなら、結婚してもいいと、私は思うわ。お父さんとお母さんはお見合い結婚だから…。貴女がそんな気持ちになれて、お母さん、とっても嬉しい。貴女には幸せになって欲しいもの。そっか、良かった…」
母の口振りが、あまりに嬉しそうで、何故か涙がこみ上げる。
私に病院を継がせる事にあんなに躍起になっていた母だったけれど、それでも、本当は私の幸せを一番願っていたのだと思い知らされた気がする。
嗚咽が零れそうで、何とか堪える。
最後だから、感謝を伝えたかっただけなのに、相変わらず両親に大切にされている事をかえって思い知ってしまった。
「今度、一緒に帰って来てくれるわね?」
「うん」
消えてしまうだなんて言えなかった。
こんなに私の幸せを願ってくれている人に。
これで最後だからこそ、夢見るように終わって欲しかった。
「楽しみにしてるわ。その人、カッコいい?」
少し茶目っ気のある口調で母が尋ねる。
「世界で一番カッコいいよ。背も高くて、頭も良くて。それにすごく優しいの。私を誰よりも愛してくれる、そんな人だよ」
「良かった…!!お母さん、楽しみにしてるから!遙がそんなに好きなら、絶対に幸せになれると思うよ。じゃあ、遅いから、もう寝なさい」
「お母さん、ありがとう。そういう風に言ってもらえると思わなかったから。ありがとう」
「何言ってるの。子供の幸せを願わない親なんていないんだから。じゃあ、お休み」
そう言って、母は電話を切った。
私は携帯を握り締め、泣き崩れた。
こんなに大事にしてくれてるのに、いなくなってしまってごめんなさい。
でも、誰よりもきっと幸せになるから。
涙を拭ってまた携帯をいじる。
もう1人、私が最後に話したいのは、美紀だった。
電話をかけると、美紀はすぐに電話に出た。
「もしもし、遙?どうしたの?」
この明るい声ももう聞けなくなる。
思えば、政宗が帰ってしまった後、ずっと私を支えてくれたのは美紀だった。
私は単刀直入に切り出した。
「美紀、あのね…。驚くと思うけど…。私、政宗の世界に行く事になったの」
「え!?何で!?そんな事出来るの!?」
「うん、あのね…」
あの空間で聞いた事は突拍子もない事だけど、美紀は政宗に会っている。
だから、全てを話す事にした。
私のする話を、美紀は否定せずに、相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。
美紀の声が緊張で固くなっていくのが分かった。
これはただの別れではない。
普通なら別れても思い出は残るけど、私達の間には思い出すら残らないのだから。
「遙…。行って来なよ。私、ずっと2人を見ながら、運命の恋だと思ってた。世界の崩壊とか言われても、よく分からないし、何か不安なだけだけど、でも、遙が政宗と結ばれるのが運命ならいいんじゃない?…そりゃ、遙との思い出がなくなるのは嫌だけど…。ねぇ、私、遙とこんなに仲良くしてるのに、遙の事、忘れちゃうんだね。…ヤダ。そんなの嫌だよ…」
美紀の声は震えだし、電話の向こうから啜り泣きの声が聞こえて来た。
「遙と政宗には幸せになって欲しいけど、大切な友達を忘れちゃうなんてっ…!!」
「ゴメン…。慶君との結婚式も行けなくて…。例え美紀が忘れちゃっても、私は美紀を絶対忘れないから。政宗だって、きっと。だから泣かないでっ…!!美紀の幸せを、遠くからいつも見守ってるから」
「遙!!」
堪えきれないように、美紀が声をあげて泣き出すと、私の目からも涙が溢れ出した。
「美紀、今まで、ありがとう。私は、政宗と一緒に生きて行くから大丈夫。美紀に会えて良かったよ。今までずっと支えてくれてありがとう。慶君と幸せにね」
「遙ともっと話していたい…。名残惜しいよ…。でも、遙も準備があるもんね。ゴメンね。私も遙と出会えて良かったよ。色々学んだし、それに何より楽しかった。私こそありがとう。遙、いつまでも元気でね」
きっと、今、この瞬間、彼女と一緒にいたら、抱き合って泣いてたかも知れない。
私達は、何度も友情を確かめ合い、互いの幸せを祈ると電話を切った。
残りの時間で、私は荷物をまとめた。
あまり荷物を持って行くつもりはなかったけど、小旅行くらいの荷物の量になってしまった。
当面の少しの着替え。
洗面具。
白衣。
政宗からもらったアクセサリー。
政宗が大切にしていた懐刀。
2人の写真や、私の家族、友人達の写真を入れたアルバム。
手帳とペンケース。
それらを、政宗が最後に私にくれた、エルメスのバッグに詰め込んで、私は着替えた。
どこに着くか分からないという事を考慮して、ジーンズとカットソーと薄いコートを身につけ、髪の毛をゴムで結う。
最後にもう一度、あの結婚式の時に政宗が着ていたスーツを抱き締めた。
ようやく決心して寝室を出た頃には午前5時を回っていた。
玄関でブーツを履くと、扉を見つめる。
ここを出てしまったら、もう私は戻る事はないのだろう。
何か置き忘れた物はないか。
持って行けるものなら何もかも持っていきたいけど、そういう訳にもいかない。
思い出もたくさんある。
でも、もう前に進むしかない。
さようなら、私を育んでくれた愛しい世界。
今まで、本当にありがとう。
そう心の中で呟いて、私は白い扉を再び通り抜けて行った。
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