長い廊下をひたひたと歩いて行く。
俺は、別の部屋に行く素振りを見せて、一旦姿を消してから、遙の後を追った。
俺の気配に気付いているのかいないのか分からない。
遙は、心細げに廊下を歩いていた。
周りに誰もいないのを確かめて、一気に距離を縮めていく。
そして、俺は後ろから遙を引き倒し、首筋に苦無を押し付けた。
遙は、訳が分からないというように目をぱちくりさせている。
「俺の気配に気付いてた?思ったより驚かないね。やっぱり忍?」
脚はバタつかないように、体重をかけてある。
両手首を片手で固定しているので身動きは取れない。
それでも遙は抵抗した。
首筋に押し付けた苦無を少し滑らせると、糸のように赤い血が少し滴った。
みるみるうちに、遙の目に涙が盛り上がり、そして、静かに滑らかな頬を滑り落ちていった。
「痛っ!!嫌っ!!殺さないで!!」
遙が急に大きな声を上げるので、俺は苦無を遙の首の横に突き立てて、手のひらで口を塞いだ。
「うーっ!!」
「おとなしくしないと、このまま首を掻き切るよ」
そう脅すと、遙ははらはらと涙を流した。
いまだに少し抵抗するけど、それはびっくりする位ひ弱だった。
押し倒した直後も抵抗されたけど、農民の娘の方がよっぽど力がある。
「ひ弱なのも演技?」
そう言うと、涙を流しながら遙は小さく首を横に振った。
忍ならば、俺が真後ろに立とうとした時点で戦闘になっていたはずだ。
どうやら忍ではないらしい。
「伊達とはどういう関係?」
そう尋ねると、さらに首を横に振った。
そして、切な気に眉を顰めて、遙は静かに涙を流し始めた。
その艶っぽく哀しい表情に何故か胸の奥を鷲掴みにされて、俺は見惚れてしまった。
忍頭の俺が、情に絆されるなんて。
何て表情をするんだ、この子は。
何故か頭を優しく撫でて、慰めたいような気持ちに駆られてじっと遙を見つめたその時だった。
「破廉恥でござるぅぅああ!!!」
真田の旦那に後ろから両飛び蹴りをされてしまった。
旦那の気配に気付かないくらい、俺は見惚れてたのか!?
「こんな、真っ昼間から、こんな廊下で、破廉恥極まりないっ!!」
何を想像しているのか、耳まで真っ赤だ。
まあ、押し倒して、両手首拘束して顔に見惚れてたらそういう風に見えなくもないけど。
旦那は遙の前に膝を付いた。
「大丈夫でござるか?」
「真田さん…」
遙は、涙に濡れた顔で旦那を見上げた。
「怖かった…」
切れ長の瞳をすっと閉じると、また涙の筋が新たに頬に出来る。
こんなに優しく無垢な表情をする女なんて見た事がない。
とても平和で幸せな環境で育ったのかも知れない。
何故か自分がとても酷い事をしたような気持ちになった。
もし、俺が忍じゃなかったら、抱き寄せて慰めていたかも知れない。
真田の旦那は驚いたように遙を見つめ、何かを堪えるように固く拳を握っていたけれど、やがて、優しく、遙の頭を撫でた。
その行為に俺は心底驚いた。
婦女子に触れるなど破廉恥千万と普段からわめいている旦那らしくもない。
「そなたは其れがしが命をかけてお守り致す。ご安心召されよ。そなたはお館様の命の恩人だ。佐助」
旦那は俺をキッと睨んだ。
「遙殿に手出しは無用。監視が必要なら其れがしがやる。遙殿の部屋は、其れがしの隣の部屋にお移しする」
旦那が一度言い出したらお館様しか止められない事を俺はよく知っているから、俺は仕方なく頷いた。
旦那がそばにいても探る手立てはある。
それに旦那がついているなら、そうそう変な行動は起こせない。
あんなに非力なら、猫一匹殺す事だって難しい。
旦那を傷付けるなんて到底不可能だ。
「真田さん、助けてくれてありがとう」
「当然の事をしたまでだ。それより、其れがしの事を幸村と呼んでくれまいか?」
「分かりました、幸村さん」
遙は、やっと微笑んだ。
雲の切れ間から現れる優しい日の光のようだと思った。
旦那は照れたように目を細めて笑った。
出来ればこんな風に笑い合える関係がずっと続いていれば良かったのかも知れない。
そして…。
君の笑顔を奪ってしまったのはこの俺なんだね。
その時は、そんな事になるなんて思ってもいなかった…。
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