残り香 -2-

小十郎は茶室に籠っている主の元へ向かっていた。
南蛮貿易で火薬などを大量に購入する他、政宗が熱心に集めるのは茉莉花の茶と香油だった。
茉莉花の茶は明で生産されているが、朝貢貿易しか認めない明から直接購入する事は叶わないため、ポルトガル商人が港にもたらすのを政宗は何より楽しみにしていた。

朝、政宗の自室に赴くと、時折茉莉花の残り香がふわりと漂っている事がある。
そんな日には政宗はぼんやりと夢から覚めたくないとでも言うように、見ているこちらの方が切なくなるような寂しそうな表情を浮かべている。
どこか懐かしく愛しい思い出に浸っているような政宗は、残り香がすっかり消えるまでなかなか部屋から出て来ない。
それでも残り香が消えると夢から覚めたように政宗は熱心に武芸に執務に打ち込むから、小十郎は何も言えない。
政宗はその憂いの訳を匂わせる事はあっても多くは語らなかった。

ある日を境に政宗は急に大人びた。
それまで若気の至りで無茶をすることもあった政宗が、人が変わったように思慮深くなり、精力的に仕事に打ち込むようになった。
お陰で伊達は一気に勢力を伸ばしたが、肝心な縁談の話になると政宗は頑なにそれを拒んだ。
縁談を持ちかけられた翌日には、政宗は必ず自分の殻に閉じ籠るように茶室に籠った。

こんなに精力的に天下取りに打ち込んでいるのに、何故御家の基盤を固める縁談を政宗が拒むのか小十郎には分からない。
ずっと傍で政宗を見守ってきたのに、何があったのか小十郎には分からなかった。

しばらく経っても政宗が茶室から出て来る様子がないので、小十郎はそっと外から声をかけた。

「政宗様、小十郎でございます」
「ああ、構わねぇ。入れ」
「失礼致します」

政宗は丁度湯を沸かしていた所だった。
茶釜から湯を掬う仕草は無駄がなく、綺麗な姿勢でどこに出しても恥ずかしくない程洗練されている。
しかし、膝の前に置かれている茶器は抹茶を立てる物ではなく、硝子で出来た急須だ。
中には毬状の茶葉が入っている。

「丁度良かった、小十郎。今から茶を淹れるからお前も飲め」
「いえ…しかし…」

主は一人になりたいのではないか。
そう思って小十郎が言葉を濁すと政宗はフッと笑った。

「お前と飲みたいんだ」
「かしこまりました」

硝子の急須に湯を注ぐと毬状の茶葉が花が綻ぶように開いていく。
政宗が茶会を催さない限り滅多に茶室に足を運ばない小十郎は、見た事もない茶葉に感嘆の声を漏らした。
政宗は小さく笑う。

「茉莉花は南方で採れる花らしい。日本で採れりゃあもっと手軽に楽しめるんだがな。そうしたら…」

政宗はそこで言葉を切り、想いを馳せるようにゆっくりと薄茶色に染まっていく茶を眺めた。
急須の口から甘く爽やかな花の香りが漂い始めると、政宗の瞳が切なげに揺れた。
政宗はそのまま無言で湯飲みに茉莉花茶を注ぐ。
小十郎が来る事を予想していたのか、またはまるで見えない相手に茶を振る舞うかのように湯飲みは二つ用意されていた。
湯飲みに茶を注ぐと、柔らかな花の香りが一層ふわりと立ち上ぼる。
政宗は一口啜ると目を閉じ、懐かしい香りを嗅ぐように口許を綻ばせた。
その表情は天守閣で海を眺めている時の表情に似ていた。
小十郎も政宗に勧められて一口茶を口に含む。
爽やかでほんのりと甘い香りはどこか儚げで綺麗な女を思わせた。

「誰か心に秘めた女人でもいらっしゃるのですか?」

小十郎は半ば確信していた。
花町に通う訳でもない。
政務に武芸に励む政宗にそんな機会がない事も分かっているが、それでもそれしか心当たりがなかった。
政宗は言葉を選びながらぽつりぽつりと言葉少なに話し始めた。

「夢でもいいから会いたいと思うのに、夢でもなかなか会えねぇんだ。でも、この香りに包まれるとあいつの温もりすら感じられるくらいに思い出す」
「どちらの女人でしょうか」

そこまで心奪われているなら、正室は無理でも側室としてなら迎えられる。
政宗は寂しげにフッと笑った。

「遠い、遠い、俺ですら手の届かない所にいる女だ。あいつは俺に色んな事を教えてくれた。会えなくてもあいつを想うだけで俺は幸せなんだ」

幸せだと言う政宗の笑みは、優しく、しかしとても哀しげだった。

「この小十郎に出来る事ならなんなりと」
「Thanks…縁談を先伸ばしにしてくれ。正室を娶るのは天下を取ってからだ。あいつとの約束だから。だからそれまで待ってくれ。頼む」

もう少し追憶の海にたゆたわせてくれ。

政宗は切なそうに、でも、儚いくらいに綺麗な表情で寂しげに笑った。


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