03. 星の砂

仕事が終わって部屋に戻ると、時計は朝の9時を指していた。
少し仮眠を取ったら、夕方からまた仕事だ。
長時間の手術に立ち会った後で、疲れているのに何故か意識は冴えて眠れそうになかった。

私はバッグの中に入れていたペンケースから指輪を取り出すと、左手の薬指に嵌めてソファに深くもたれかかった。
ジャケットのポケットから煙草を取り出し、火をつけて深く吸い込む。
銘柄は、あの頃と変わらないKOOLだ。

Keep Only One Love.

政宗にこの煙草をもらったのはもう5年も前なのに、私はまだ忘れられなかった。
繋いだ手の大きさもまだおぼろげに覚えている。

笑った目の優しさ。
少しハスキーな声。
温かい腕の中。

一生懸命記憶の糸を辿っても、まるで夢の中のようで、輪郭も色彩も曖昧に揺らいでいる。
あの頃と気持ちは変わらないのに、記憶だけが遠ざかっていく。

煙草の火を消すと、私はブランケットを肩までかぶってソファの上で小さく縮こまった。
しばらくすると、体温でブランケットが温まり、身体が温かくなってくる。

何度こうして独り寂しく暖を取ったことだろう。
何度、政宗の温もりを思い返しただろう。

もう記憶は薄れているけれど、政宗の温もりと唇の柔らかさはまだ身体が覚えていた。
こうして温もりに包まれると何だか安心する。
目を閉じると、まだ政宗の温もりが思い出せて、私は政宗の腕の中の温かさを想いながらまどろみ始めた。


瞼に白い明りを感じて目を開けると、霞みがかった視界が段々と広がっていった。
柔らかな陽射しに照らされた浜辺が目の前に広がっている。
やけに身体がふわふわとした感じがして、景色は淡い光に包まれてぼんやりとしていて、ああ、これは夢の中なのかな、と思った。
寄せては返す波の音が、緩やかで、心地よい。
そのまま何となく独り白い浜辺をふらふらと歩いていると、綺麗な巻貝が足元に落ちていて、それを拾おうと、私はしゃがんだ。
すると、目の前に影が落ち、大きな手がその巻貝を拾い上げた。
その手のあまりの懐かしさに私は息を呑んだ。

その左手の薬指で輝いているのは、ダイヤが3つ付いたティファニーのアトラスの結婚指輪だった。
男らしい節くれだった綺麗な指も、あまりに懐かしくて吐息が震える。

ずっと会いたかった。
夢の中でもなかなか会えないから、こんなに近くに彼を感じるのは久し振りで、恋しくて愛しくて堪らなくて、熱いものが胸の奥から込み上げてくる。
視線を上げると、涙で滲んだ視界の向こうに、変わらない優しい笑顔の政宗がいた。

「政宗…?」

掠れた声で問うと、政宗は困ったように眉根を寄せた。

「遙、お前すぐ泣くな」

そう言って、私の目元を指先で拭う。

「政宗なの?」

目の前の政宗は、私と別れる前と変わらない、少し少年のような面影を残していた。

「ああ、そうだ。遙、会いたかった」

そう言われると、夢だとは分かっているのに涙が溢れ出す。
私は政宗の首に両腕を回し、抱きついた。

「政宗!政宗!!会いたかったっ…!!」

政宗の首筋に顔を埋めると、懐かしい政宗の肌の香りがした。
政宗の身体も、記憶の中の政宗と同じように、とても温かかった。
私の欲しかった温もりがそこにあった。
政宗は私を抱きとめ、あやすように優しく後頭部を撫でてくれた。
そんな仕草も変わっていなくて、ますます涙が溢れる。

「政宗、好きっ!愛してる」

涙で吐息を震わせながら言うと、政宗は私をギュッと抱き締めた。

「遙、I love you, too.」

私の耳元でそう囁くと、柔らかな唇が、耳朶へ頬へとそっと触れて、そして最後に私の唇に重なった。
柔らかく何度も唇を食むのもあの頃と変わらない。
愛しくてときめき過ぎて胸が苦しい。
それでも止められなくて、私は政宗の首に縋りついて政宗の唇を求めた。

二人同時に吐息を吐いて唇が離れると、また強く抱き締められた。
こうして頬を温かい胸に当てて抱き合うと、とても安心した。
温もりに包まれると、愛されていると実感する。
ようやく涙も止まって政宗の身体にもたれかかっていると、優しく頭を撫でられた。

「お前、疲れた顔してる」

政宗の声は心配そうだった。
私は微笑んで言った。

「私、医師になったよ。まだまだ見習いだけど、毎日頑張ってる」
「そうか…。俺は天下を統一した」

政宗は少し身体を離して、真直ぐに私を見つめて言った。

「そう、良かった」
「お前も医師になれて良かった」

政宗が天下を統一したのは知っている。
だからこれも私の都合の良い妄想だ。
それでも、夢の中で会えて良かった。
相変わらず政宗は温かくて、優しい。

政宗は私の肩を引き寄せると、浜辺に腰を下ろした。
そして私の頭を引き寄せて膝の上に乗せる。

「疲れてるんだろ?このまま寝ろよ」
「もったいないよ。折角会えたのに。……もう一度キスして」

そうねだると、政宗はくすりと笑い、また優しいキスをした。
段々とそれが深くなっていき、甘い陶酔感に包まれる。
目を閉じて感じるのは、政宗の温もりと柔らかい唇だけだった。

「遙、愛してる」

そう囁く吐息が唇を掠めると、急に意識が浮上する感覚に襲われて、私は叫んだ。

「嫌!行かないで!政宗、愛してるっ!」

そう声を上げたのも虚しく、私は自分の声で目覚めた。
視界が歪んでいる。
目元を拭うと涙でしっとり濡れていた。

遙、愛してる。

最後に聞いた政宗のセリフがまだ鮮やかに耳に残っていて、愛しさと切なさのあまり、クッションを抱き締めてまた涙を流した。

今だけ泣かせて。
次に会う時は、笑顔で会えるようにするから。
だから早く夢の中で会いに来て…。


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