遙殿は、忍隊にかるてという、患者の記録を義務付け、重症患者を診る合間にかるてに目を通しては、遠くの村の治療の指示を飛ばしていた。
遙殿は、俺の事を「人の上に立つ器の人間だ」と言っていたが、俺から見ると、病魔という名の敵と戦う、兵どもを束ねる指揮官のようだった。
遙殿の集中力は凄まじく、その上あまりにも長いこと働き続けるから、いつか、また倒れてしまうのではないかと心配していた。
「大丈夫。研修医の時は、3時間寝られればいい方だったから、何て事ないよ」
そう笑顔で返されたら、返す言葉もない。
聞けば、毎日、昼夜問わず、そのような環境で仕事をしていたというのだから、見た目からは想像もつかないほど、本当はお強い方なのだと思った。
今、遙殿は、仮眠を取るから一人にして欲しいと言い、村長の家で休んでいる。
一刻経ったらまた起きるつもりらしく、その体力と気力に恐れ入る。
俺には朝まで眠って構わないと言って部屋の奥に消えてしまったが、そんなに簡単に頭を切り替えて眠れそうになかった。
遙殿に付き合って、短時間睡眠を不規則に取っていたせいか、今日は昼までぐっすりと眠ってしまって、日が暮れて長いこと経つのに、到底眠れそうになかった。
村長の家を出て、井戸端に腰を降ろして空を見上げると、満月が輝いていた。
丁度、真夜中だ。
辺りは月光で明るく照らし出されて、いつか、遙殿が歌いながら煙草を吸っていた事を思い出した。
あれは、政宗殿を想って歌っていたのだろうな…。
遙殿の恋心に気付いた今なら分かる。
綺麗なのに哀しいような歌だった。
俺は、深い溜息を吐いた。
忙しく働く遙殿には近寄りがたくて、俺は何だか距離をおかれてしまっているようで、寂しい。
その代わり、佐助が右腕となって、遙殿にぴったりと張り付き、的確に忍隊に指示を飛ばしていた。
政宗殿の事を聞く事も出来ない。
あの時、感じた恋心も、温もりも、まるで夢だったのではないかと思えるくらいに、遠い昔の出来事のようなほど、遙殿は忙しく、凛とした医者の顔しかここの所、見ていない。
「なあにしけた顔してんの、旦那!」
頭上に影が出来たと思ったら、音もなく佐助はそこから飛び降りた。
そして、俺の隣に腰かける。
「うー」
言いたい事はたくさんあるのに、言葉にならず、唸り声だけが漏れてしまう。
それを聞いた佐助は、けらけらと笑った。
「あ!もしかして、旦那ったら、妬いてんの?俺が遙にぴったり張り付いているから」
いきなり図星を突かれて深い溜息が漏れた。
「ああ、そうだ。遙殿のお役に立てるお主が羨ましい」
「またまたー!旦那だって手伝ってるでしょ?それに、恋仲なんだからさ、疱瘡の流行が鎮まったら、ゆーっくり二人っきりにさせてあげるからさ、だから、そんなに深刻になんないでよ、ね?」
「恋仲?」
誰と誰が恋仲なのだ?
そう思って首を傾げると、佐助はにこにこと微笑んだ。
「いいの、いいの、隠さなくても。俺、見ちゃったから。邪魔者はもうすぐ退散するから心配しないで!」
「誤解だ…」
佐助が何を見たのか想像に過ぎないが、それは大きな誤解だ。
「誤解…って…?」
それまで、調子良く話していた佐助が、はっと顔色を変えた。
俺は俯き、苦々しく呟いた。
「お主の誤解だ、佐助。遙殿には想い人がいる…うなされていた遙殿は、想い人の夢を見ておられたのだ…」
「想い人…」
俺の言葉を繰り返して、そして、佐助は絶句した。
俺はまた深い溜息を吐いた。
「初恋って実らぬというのは本当なのだな…」
想い人が政宗殿だと思い浮かべると、俺は何もかも政宗殿に負けてしまったのだと、打ちひしがれて、本音を漏らさずにいられなかった。
「え!?初恋!?そんなはずないでしょ!?」
佐助の素っ頓狂な声に苛つき、キッと睨みつける。
「この年で初恋で悪かったなっ!」
「怒んないでよ!違うってば!旦那、忘れちゃったの!?ずーっと前に初恋して、長い事、まるで恋仲みたいだったのに、引き裂かれちゃったの、忘れたの!?」
長い事、想って?
恋仲で?
引き裂かれた?
誰と誰が?
きょとんとして佐助を見つめると、今度は佐助が深い溜息を吐いた。
「接吻まで交わしたのに、そりゃないよ…。つくづく報われないよね、姫様も!思い出した?今は伊達の旦那の許嫁筆頭の、うちの姫様だよ!」
「なっ!?姫様…!?」
そう言われて鮮明に思い出した。
奪われてしまった、俺の初めての接吻。
お館様が姫様の婚儀を決めてしまわれた時、姫様は屋敷を抜け出した。
そして、上田に帰る仕度をしていた俺の前に疾風の如く姿を現したと思ったら、怒りを露わにした顔をして俺をいきなり押し倒し、驚く間もなく唇を唐突に奪って、そのまま固まってしまって動けない俺の唇に何度も吸い付くと、「馬鹿!!」という捨て台詞と共に走り去って行ったのだった。
台風一過、という感じで過ぎ去る嵐の後姿を見ながら、何が起こったのだろうとぼんやりと眺めていた。
何故、接吻されたのか、馬鹿となじられたのか、分からないまま。
いや、あれは、本当に接吻だったのか…?
それすらも分からないような、嵐のような出来事だった。
姫様の事は妹のように可愛がって愛でてはいたが…。
あれは、初恋、なのか…?
「はぁ、井戸端で、話すのにお誂え向きで笑っちゃうよ。正に、筒井筒の仲だよ」
「なっ!?筒井筒!?」
幼馴染みがそのまま恋仲になり、終いに夫婦になるという、あの話か!?
「少なくとも姫様はそう思ってるよ。それに、旦那も、姫様に対しては、すごく優しかったし、見てるこっちが破廉恥だ!って叫びたくなる台詞やら行動やら、もう…。熱ーい、熱ーい、恋人同士だったよっ!はぁ…。全部、無自覚か…。嫌んなっちゃうよ、本当に。あんなに一緒にいたんだから、姫様の事、たまには思い出してあげなよ…姫様が可哀想だよ…」
姫様の事か…。
ずいぶんとお会いしていないような気がする。
それも、そのはず。
2年前、俺が唇を奪われたのを最後にお会いしていないのだから…。
ずっと兄妹のように育って来た、お転婆の、可愛らしくお美しい姫様…。
俺の、初恋の…人…?
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