旦那が武田の屋敷に上がったのは、十の頃からだった。
姫様は、その時七つで、姫様は旦那を一目見るなり気に入ってしまって、手習いをすると言っては、旦那の膝の上に上がり、旦那は旦那で、後ろから姫様の手をそっと握り、手習いを教えていた。
雷が怖いと言っては、旦那の布団に潜り込み、その腕の中ですやすやと眠っていた。
旦那が鍛錬をすると言えば、一緒に槍を握り、手合わせをしていた。
だから、武田の槍の使い手で一番が旦那なら、二番は姫様というくらいに強くなってしまった。
武芸をこよなく愛するお館様は、それを止めようともせず、姫様の槍が上達するのを満足そうに眺めていたものだった。
これ以上、姫様を鍛えて、嫁ぎ先をなくすおつもりですか…。
俺は何度、お館様にそう突っ込もうと思った事か。
確かに兄妹のような存在と言えばそうなのかも知れないけれど、姫様のお顔にはいつも憧れるような表情が浮かんでいて、幼いながらもそれは紛れもない恋心だった。
旦那は旦那で、優しい眩しい笑みをいつも姫様に向けていた。
そんな状態が何年も何年も続くうちに、姫様は17、旦那は20になってしまった。
相変わらず姫様は旦那にべったりで、旦那も姫様を甘やかす。
何で、このお家は、姫様と家臣がこんな状態で何も言わないのかと、ひっそりと頭を抱えたものだった。
城下に手を繋いで出かけては、綺麗な簪を姫様の御髪に差して、旦那が微笑む。
姫様は嬉しそうに頬を染めて、旦那にじゃれつくように抱きつく。
そして、二人で茶店で甘味を食べては茶を啜り、また店をひやかして歩く。
庭で花が咲けば、それを手折り、姫様に捧げる。
旦那が、姫様は、とても可愛らしく、美しいと褒めそやす事もしばしば。
嬉しそうに姫様は微笑むと、旦那が手折った花を床の間に綺麗に大切そうに生けていた。
そんな二人が恋仲じゃないだなんて、普通、思わないだろ!?
俺だっててっきり想いを交わしているものだと思っていた。
だから、筒井筒、と言ったんだ。
二人の仲が引き裂かれたのは、伊達が天下統一まであと一歩という時の事だった…。
伊達の旦那に惚れ込んだお館様は、姫様を真田の旦那から遠ざけようとした。
姫様を嫁がせるおつもりだったんだろう。
姫様は当然嫌がり、人目を盗んでは逃げ出し、旦那に会いに行ってた。
…はぁ、また頭が痛くなって来た。
何で、武田の人って普通に逢瀬出来ないのかな。
姫様の逢瀬と言えば、竹槍を握り締めて走り出し、旦那が鍛錬している竹藪の中に飛び込んだと思ったら、「隙在り!!」と背中から奇襲、だもんな…。
当然、そんな隙を見せない旦那はニヤリと笑い、姫様の槍を軽くいなすと、姫様を引き倒し、首のすぐ横に槍を突き立て、吐息のかかる距離で、「この真田幸村の首を狙うとは上等。さあ、どう抵抗してみせるか、見ものでござるな」なんて言いながら、からかうように姫様を拘束して苛めて遊んでいるものだから、見ていた俺は、本当に涙目だった。
姫様は姫様で、顔、真っ赤だし、旦那はくすくす意地悪く笑ってるし、寝技のかけ合いっこは、男女の情事みたいだし、あー、もー、他所でやって、って何度思った事か。
でも、見張るのは忍の役目だし、役得なのか損なのか本当、分からなかった。
他人には破廉恥破廉恥言ってるけど、この俺様がどれだけ旦那の破廉恥行為を見せられて来たか思い出すと、涙がちょちょ切れる。
いずれ、旦那は正式に姫様を娶るのかな、とも思った。
だって、幼い頃からあんなに仲睦まじかったから。
だからこそ、姫様も期待していたのかも知れない。
お館様が姫様の婚儀を進めると正式に宣言した時に、旦那がお館様を止めてくれると。
それが2年前の事だった。
旦那はお館様の宣言を聞いて、驚いたような顔をして、じっと考えた後に、「お家のためになりましょうぞ」と答えたのだった。
その時の姫様の顔、正直、見られなかった。
急に立ち上がり、走りながら部屋に戻ってしまったから。
遠ざかっていく泣き声が、本当に哀れだった。
その晩のうちに、俺達は上田に戻るよう、お館様に申し付けられた。
出立の準備もせずに、旦那は縁側で、ぼんやりと夕暮れの庭を眺めていた。
そこに、疾風の如く姫様が現れ、いつものように「隙在り!!」と涙声で叫び。
初めて隙を突かれた旦那はそのまま姫様に押し倒されて、接吻を交わしたのだった。
姫様は、涙を流しながら、何度も旦那の唇を奪った。
二人にとって、あれが最初で最後の接吻だった。
俺は、あの時、本当に哀しかった。
姫様と旦那を見てるのが好きだったから。
別れてしまうのが可哀想だった。
なのに、旦那…。
俺、まさか、旦那がすっかり忘れてたなんて思わなかったよ…。
あの時の、俺様の涙、返して…。
あれが恋仲じゃなかったら、何が恋仲なのか、俺には分からないよ…。
俺は、深ーい溜息を吐いた。
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