馬を走らせている間も、気分は鬱々として、溜息ばかりが零れた。
俺が好きだと思った遙殿は幻想だったんだろうか…。
俺には分からない事ばかりだ。
遙殿は、単に酷い病人を見慣れているだけなのかも知れない。
遙殿にとって、あの老人は、多くの患者の中の一人に過ぎないのかも知れない。
幾多の屍を見て来た俺もどこか感覚が麻痺している。
佐助の拷問に立ち会う事もある。
武田のためと思えばこそ、その時だけは、俺も非情になれるし、なるべく早く楽にさせるため、手酷く痛めつける事もある。
でも、そんな日は、やっぱりどっと疲れるし、食欲もなくなる。
遙殿は、病人に同情したり、あまりの病気や怪我の酷さに、気分が塞ぐとか、食欲がなくなるという事はないのだろうか…。
しかも、遙殿は、政宗殿を焦がれてあんなに辛そうに涙を流していたというのに、嬉しそうに佐助の腕に抱かれて二人で料亭に出かけてしまった。
政宗殿からの文も読む事なく…。
男女二人きりで、料亭など、完全に逢瀬だ。
見方によれば、浮気にも見える。
料亭ならば、その気になれば人払いをして、そのまま情事になだれ込む事だって出来てしまう。
遙殿には危機意識というものがないのだろうか。
それとも、佐助ならば、そのような関係になっても良いと思ったのだろうか。
政宗殿を裏切っても構わないと…。
とても、純粋で、優しくて、繊細で、一途で、綺麗なおなごだと思っていたのに、本当は、神経も図太く、軽々しいおなごだったのだろうか…。
分からない…。
遙殿の事が分からない…。
そんな風に思うと、俺の恋心すら、幻想だったように思えて来る。
愛おしく思った。
自分の身の危険もかえりみず、笑顔を絶やさず病の人々を助ける姿が美しいと思った。
遙殿が病に倒れた時、心から心配して、失いたくないと思った。
政宗殿を想っていると知った時、絶対に渡したくないと思った。
それくらいに恋焦がれた。
でも、俺が恋した遙殿は、ただの幻想、俺の理想だったのかも知れない。
この何とも言えない喪失感は、何なのだろう…。
これは失恋なのだろうか…。
いや、失恋というより、幻滅、の方がしっくり来るかも知れない。
また、一つ深い溜息が漏れた。
今晩は、夢見が悪そうだ。
その前に、眠れるかどうかすら怪しい。
布団を敷いて、夜着に着替えて肘まくらをしながら横になっていても、頭の中で、様々な事が浮かんでは消え、また浮かんでは消える。
その時、障子の向こうに人の気配を感じた。
物思いに耽っていて、こんなに近付くまで気配に気付かなかったとは、俺らしくもない。
誰か、用聞きにでも来たのか?
人払いをしたはずなのに。
「下がれ。人払いを申し付けたはずだ」
そう言った途端、すっと障子が開き人が入って来たと思ったら、後ろ手に障子を閉めた。
その人物…女は小袖を頭に被り、顔を隠し、着ている着物は白い夜着だ。
俺は、溜息を吐いた。
たまに、屋敷の女が俺に抱かれようと、訪れて来る事がある。
俺は、想いを交わしたおなごと祝言を挙げるまでは、誰ともそのような穢れた関係になりたくなくて、いつも冷たく追い出していた。
だから、もう最近ではそのような不埒な真似をする下女や侍女などいなくなっていたというのに。
「俺に抱かれようなどと不埒な考えは捨てる事だ。下がれ。下がらぬのなら、無理矢理にでも放り出す」
俺は身体を起こし、殺気を迸らせながら、殊更に冷たく言い放った。
この殺気に恐れをなして、俺を訪れた女はみんな逃げ出して行っていた。
しかし、この女は、全く動じない。
訝しげに見つめると、微かな忍び笑いが聞こえた。
「あら、幸村。この私に向かってそんな口を利いても良いのかしら?」
「なっ!?そのお声は…」
「しーっ!!大声出さないで」
そう囁くと、はらりと小袖を取り払った。
そこには、姫様が立っておられた。
2年振りにお会いする姫様は何だか以前より一層お美しく見えた。
「幸村が帰ってきたって、乳母が教えてくれたの。どうしてもどうしても嫁ぐ前に一目でいいから幸村に会いたいって泣きついたら、目を瞑ってくれたの。だから、来ちゃった…」
姫様は、悪戯が成功したような子供のような笑みを浮かべた後、みるみるうちに、涙目になって、いきなり俺に抱き付いた。
ぎゅうっとしがみつくように俺を抱き締めて、俺の肩に顔を埋めて、声を殺して泣き始めた。
「姫様、なりませぬ…。このような格好で其れがしにお会いするなど…。お館様のお怒りに触れます」
「嫌…。ずっとずっと会いたかったんだもん。幸村に会えなくて、すごく悲しくて、辛かったんだもん。嫁いだら、一生会えなくなっちゃうんだもん。だから、どうしても甲斐を離れる前に、幸村に会いたかったの…」
一生会えなくなる、という言葉は、自分でも驚くほどにぐさりと胸に突き刺さった。
嫁ぐという事は、もう二度と故郷には戻らない事を意味しているのに、俺は、その事の重要さを噛みしめて考えた事がなかった。
幼い頃から一緒にいるのが当たり前過ぎて、姫様の縁談の事も、武田のため、と素直にただそう思っただけだったが、姫様ともう二度とお会いする事が出来ない事を意味していた事に俺は気付いていなかった。
いつも慈しみ、お守りして来た姫様と、俺はもう二度とお会い出来なくなる…。
もう、お守りする事も叶わなくなる…。
一年会わない程度では、姫様はお元気だろうか、と思う事がたまにある程度だった。
俺も上田と武田の屋敷を行き来したり、諸国に赴く事もあったから、忙しさで姫様の事ばかりを考えている暇はなかった。
遙殿と出会ってからは、お館様と遙殿のお側に控えるため、武田の屋敷近くに長くいただけであって、俺も普段は忙しい。
こんなに長いこと上田を空けて武田の屋敷の傍にいるのは本当に久しぶりだ。
「ううっ、幸村ぁ…。幸村ぁ…」
姫様は、俺の名前を小さな声で呼びながら、しくしくと泣いておられる。
俺は、姫様の髪を撫で、あやすように背中をさすった。
「姫様、そんなに泣かないで下され。其れがしは、姫様が悲しまれると、自分まで悲しくなり、そして姫様をお慰め出来ない自分が情けなくて仕方なくなるのでござる。姫様を悲しみからお守り出来ない事を口惜しく思うのでござる」
しばらく背中をさすっていると、段々と泣き声が止んでいって、ようやくホッとした。
抱き付いたままの姫様をそっと引き離すと、姫様は、まだ悲しそうな顔をして、涙で頬を濡らしていた。
その涙を親指で拭う。
姫様のお顔に微かに笑顔が戻ったが、また、深い哀しみに満ちた表情に戻ってしまった。
「姫様…。いつもの可愛らしい笑顔は見せては下さらぬのか…?縁談の事で、悲しまれておられるのか?」
姫様は、小さく首を横に振った。
「縁談だけじゃないもん…。幸村が悪いんだもん…」
「其れがしが…!?」
俺は姫様の意外な言葉に驚き目を瞠った。
いつも、姫様を慈しみ、大切に、大切に、お育てして来たつもりだ。
この一年間、お会い出来なかったとは言え、それは縁談のためにお会いする事を控えていただけで、俺が姫様を悲しませる原因だなんて、思いもよらなかった。
「侍女に聞いたの…。幸村が心変わりをして、その人を幸村の隣りの部屋に住まわせ、今も、その人と出かけたままだって。幸村が大切にしてるのは私だけだと思っていたのに、私だって幸村の隣りの部屋で過ごす事を年頃になってから禁じられてたのに、幸村がその人を片時も離さないって聞いて、すごく悲しかった。あんなに大切にしてくれてたのに。子供の頃からずっと。なのに、父上の怪我を治した女のお医者様に心変わりしてしまったって…。幸村は、もう、私の事、どうでもよくなっちゃったの…?」
姫様の瞳にまた涙が盛り上がって行く。
「そんな事はござらん。姫様は、この真田幸村が全身全霊をかけて、お守りし、慈しんで、大切に、大切に、お育てして来たお方。その気持ちは、今でも変わりがございませぬ」
「じゃあ、何で?何で幸村は、その人とばかり一緒にいるの?侍女が、そのお医者様、とても綺麗で美しい方だって言ってた。私、幸村がその人に恋したんじゃないかって思ったら、すごく悲しかった」
恋、という言葉にまた胸が酷く痛んだ。
確かに恋心を抱いた。
その意味では、姫様のおっしゃる事は、真実だ。
「幸村…。私、幸村だけが好き。愛してる。幸村も私の事を愛してくれてると、ずっと思ってた。幸村が、私を娶ってくれるってずっと信じてた。何で、あんなに一緒にいたのに、いつも優しくて大切にしてくれてたのに、私じゃダメなの?その女の人と、私、どっちの方が大切なの?」
「それは、もちろん、姫様でございまする。この真田幸村にとって、命を懸けてもお守り致したく、大切なのは、姫様以外にはおりませぬ」
「じゃあ、何で…」
姫様は、涙を浮かべて俺を見つめた。
何故なんだろう…。
姫様より大切なお方はいないというのに、何故遙殿に恋心を抱いてしまったのだろう…。
佐助の言う通り、あれはただのないものねだりだったんだろうか…。
一時の激情だったのだろうか…。
温もりの心地よさに恋と錯覚してしまったのだろうか…。
「其れがしにもよく分からぬのでございます。其れがしには、愛や恋というものが、よく分からぬのでございます」
「誰よりも大切にしたいって気持ちは愛じゃないの?私は、幸村がとっても大切。幸村が戦に出かけた時、心配でたまらなかった。怪我をしないか、討ち死にをしないか…。幸村を愛しているから…」
「姫様…」
大切にしたいと言う事が愛…。
奪いたいというのは、愛ではないのか…?
「私、幸村と夫婦になりたい。だって、だって…。みんな、政宗様は素晴らしいお方で見目も麗しいって言うけれど、お会いした事すらないんだもん。そんな人と、その…閨で一夜明かすなんて、怖い…。愛してくれるかも分からないのに。ううん、私は好きな人にしか触れられたくないの。幸村としか夫婦になりたくないの!ううっ…」
姫様は、また泣き出した。
佐助の言葉が蘇る。
政宗殿は、姫様を愛する事なく、男児を産ませるためだけに、姫様を無理矢理犯すつもりだと…。
こんなに、大切で、一途に俺を想って下さる姫様が、そんな目に逢うのなんて、断じて許せない。
「しかし、姫様、お館様は其れがしとの婚儀はお許しにならないでしょう。姫様のお心は大変もったいなく、そして、それが姫様の願いならば叶えて差し上げたい。しかし、お館様のお言葉は絶対でございます」
姫様は、悔しそうに、顔を歪めた。
「父上には逆らえない…。私も分かってる。兄上は父上に逆らって切腹させられてしまった。幸村が切腹させられるなんて絶対に嫌!!でも、今日は覚悟を決めて来たの…」
そう言うと、姫様は、夜着の帯をしゅるりと解いて、そして夜着をするりと脱いだ。
白い裸体が露わになる。
「幸村との婚儀が叶わないなら、せめて嫁ぐ前に私を抱いて…。幸村の温もりを記憶に刻んで、政宗様の妻になっても、忘れないように、幸村と素肌で抱き合いたいの…」
俺は、姫様の白い肩がちらりと見えた瞬間、思わず顔を背けた。
この視線で姫様の裸体を見る事ですら、姫様の純潔を穢してしまうと思ったから。
「幸村、お願い…。最後の我儘、どうしても聞いて欲しいの…。これが本当に最後だから…」
そう囁いた姫様のお声は涙声だった。
また、しゅるりという衣擦れの音が聞こえた。
しおりを挟む
top