筒井筒 -3-

「姫様…。この幸村とて辛いのでございます。こんなに愛おしく幸せな気持ちは初めてでございます。これが、逢瀬なのだと、初めて知り申した」
「初めて…?」
「ああ、そうだ。祝言を挙げるまでは、おなごは抱かぬと固く心に誓っていたからな」
「幸村…。嬉しい…。私が幸村の初めてなんだ…」

姫様は、嬉しそうに笑うと、また涙目になって行った。

「泣かないで下され。手放せなくなってしまう…。俺は、お館様をこれ以上、裏切る事は出来ませぬ」

姫様の目に盛り上がった涙がまた零れ落ちていく。

「さあ、姫様。そろそろお部屋にお戻り下さい。あまり遅くなると、疑いをかけられます」

姫様は、黙ったまま、涙を流し続けた。

「全く、仕方のないお方だ…。では、姫様に、後朝の歌をお贈り致しましょう。それで、最後でございます」

俺は夜着を羽織ると、文机に向かい、料紙を広げて歌を書いた。
あまりにも有名な歌で、なんのひねりもないのが悔やまれるが、俺の姫様に対する想いを真っ直ぐに表現する歌なんて、これ以外になかった。

『逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり』

それを、書き終えて、墨を乾かすと、まだ褥で泣き濡れている姫様に差し出した。
姫様は、ぐすぐす鼻を啜りながら、その歌を見ると目を瞠った。

「幸村、これって…」
「姫様への想い、この幸村、お恥ずかしながら、こうしてお会いするまで気付かなかった。情けない男だ。最後の最後に身体を重ねてから、こんなに深く姫様を想っている事に気付くなんてな…」
「ううっ、幸村の馬鹿っ!!鈍感!!何で、もっと早く気付いてくれなかったの!?何で、別れ際にこんな歌、くれるの!?嫌、嫌!!これで最後なんて、絶対に嫌!!私、夜が明けても帰らない!父上に怒られても構わない!」
「しかし、それでは、姫様は尼寺に閉じ込められて、もう二度とお会いする事は叶わないでしょう」

そう言うと、姫様は悔しそうに唇を噛んだ。

「政宗殿に嫁ぐ前には焼き捨てて下され。それまでは、その歌を俺と思い、俺の事を忘れないでくれ…」

姫様は、じっと床に目を落としたまま、辛そうに眉を顰めていた。

「明日、また…」
「明日…?」

姫様は、俺をキッと睨みつけると、言い放った。

「あの人の所になんて、まだ帰さないんだから!!せっかく想いを交わしたんだから、明日帰るなんて、絶対許さない!!」
「姫様…。これ以上、幸村を困らせないで下さいませ」
「…あと一日だけ…。それで、今度こそ諦めるから…。お願い、行かないで…。今宵もまた、って光る君のように言って…」

はぁ…。
誰だ、源氏物語など語り聞かせたのは。
光源氏の、六条の御息所との最後の別れの言葉が「今宵もまた」だったような気がする。
姫様は、何でそんな辛いお言葉で俺を引き止めるのだ。
俺は深い溜息を吐いた。

「俺は光る君のように、期待をさせるような言葉を姫様に囁いて、永遠にお別れする事など出来ませぬ。されど…姫様がどうしても、その言葉が欲しいとおっしゃるのなら、姫様に囁きましょう。ただし、この幸村の言葉に二言はござらん。姫様を欺く事など出来ませぬ。だから、姫様の願いを叶えて差し上げましょう。明日もこの屋敷に留まる。ですから、今宵もまた…」

姫様の髪を撫でながら、そう耳元で囁くと、姫様は花が綻ぶような笑顔になった。
今宵、初めて見た、久方ぶりの姫様の笑顔だ。
俺が、愛でて止まなかった、姫様の可愛らしい笑顔。

「幸村、ありがとう!私、今宵もお忍びに来るわ!だから、見つからないうちに、帰る。乳母が心配してると思うから」
「ああ、そうして下さいませ。今宵もまた、姫様をお待ちしております」

姫様を引き寄せて口付けを交わすと、姫様は、素早く身仕度を整えて、大切そうに文を懐にしまった。
そして、また、小袖を頭からすっぽりと被る。

「幸村、愛してる。今宵もまた…」

そう言うと、風のように去って行った。

「今宵もまた、か…」

村に帰らぬとなると、佐助が心配するかも知れない。
でも、俺は姫様の願いを叶えて差し上げたかった。
俺自身、もう一度姫様と想いを交わしたかったし、遙殿に会いたくなかった。

あれは、恋ではなかったのだ。
今なら分かる。
愛とは、恋とは、とても穏やかで幸せなものなのだと…。
たった一人を想い、愛を囁き合うものだと。

だからこそ、許せない。
佐助と軽々しく出かけてしまった遙殿が許せない。
こんな気持ちのままでは、あの村に帰る事なんて出来なかった。

今しばらく、武田の屋敷に留まり、槍の稽古でもしよう。
姫様の想いだけを心に描き、憎しみは、槍の鍛錬にぶつけて忘れてしまおう。

褥に横たわると、まだ微かな温もりがあった。
姫様の温もりだ…。
微かに残り香もする。
布団をかぶり、胸いっぱいにその残り香を吸い込むと、また可愛らしい姫様の笑顔を思い出し、穏やかな気持ちになっていった。

心が安らぐと、身体の疲れが一気に押し寄せ、俺は深い眠りに落ちて行った。


その頃、俺は、遙殿の事を全然分かっていなかった。
ただ憎しみを抱いていた。
本当の遙殿の姿を俺は知っていたはずなのに、俺の勝手な子供じみた思い込みで、盲目になっていた。

今でも、後悔している。
何故、信じてやれなかったのかと…。

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