暦を読み切れなくて、また小十郎を呼びに行かせてから、俺は暦を睨みつけて考え込んでいた。
高熱が出てから、一週間ほどで発疹が少し手や身体に出来て、口の中にも水膨れがすぐに出来たような気がする。
それから、割とすぐに目が腫れぼったいような疼くような感覚がして、鏡を見たけれど、見た目には何も変わらなかったから、そのまま忘れていた。
それが、数日後、ものすごい痛みを感じたと思ったら、みるみるうちに目が腫れ上がり、一晩明けた時には眼球は飛び出し、俺は右目の視力を失っていた事に初めて気付いたんだった。
それからの事は、思い出したくない。
俺の手のかさぶたが取れたのはいつだったか…。
切り取られた右目の傷跡の激痛に苦しんでいるうちに、手から疱瘡の発疹は消えていた。
刀傷が酷く痛むのは、1週間ほどだから、疱瘡が一通り終わるのは、2週間から3週間の間と見積ればいいか…。
遠い記憶だから、なかなか思い出せない。
甲斐の村が厳重に封鎖されている今、頼れるのは俺自身の記憶だけだ。
暦をじっと見つめながら、考えを巡らせる。
「政宗様、小十郎でございます」
「ああ、いい所に来たな。入れ」
「はっ!失礼致します」
小十郎は部屋に入り、暦を睨み付けている俺の前に控えた。
「いいから、顔を上げろ。俺だけじゃ、読み切れねぇ事があるんだ」
「はっ。暦でございますか?甲斐の疱瘡について、収束の時期を計算してらっしゃるのでございますね?」
「話が早いな、小十郎、その通りだ。黒脛巾組を再編成させたのは、この辺りだったか?」
22日前の日付を扇で指し示す。
小十郎は、少し考えて、答えた。
「おおよそ合っているかと思います。正確には、この日付けだったように思います」
小十郎は、俺の扇の3日前を指し示した。
「25日前か…。黒脛巾組が遙を初めに村で見かけたのはいつ頃だったか、覚えてるか?」
「再編成した後に送り込んで、到着したのが約3日後、その後、4日間は遙様の消息は不明だったはずでございます」
「その前は?」
「そうですね…。黒脛巾組が疱瘡流行地域付近で、猿飛佐助に殺害されました。共に行動していた者から鳩を使った早文で、知らせを受け取りましたので、その日のうちか、約1日遅れで知らせが届いたと思われます。その日のうちに、すぐに黒脛巾組の再編成を行い甲斐に派遣致しました」
「ああ、思い出したぜ。黒脛巾組の頭領自ら俺に報告に来たな。真田幸村が女を連れてたって知らせが来た日だな。という事は、遙はその頃に疱瘡の治療を始めてたって事になるな」
「おっしゃる通りだと思います」
「という事は、甲斐で疱瘡が流行してから一月足らずという事になるな…」
俺は扇を弄びながら、また記憶を辿った。
「なぁ、小十郎。俺が疱瘡で高熱を出してから、発疹が収まったのは、だいたい2週間か3週間で合ってるか?」
「そうですね…どこを完治と考えるかによりますが、3週間後には発疹は完全に消えていたのは確かだと記憶しております」
「そうか…。じゃあ、問題は、村の規模と疱瘡がうつる速さだな。そこから計算すれば、おおよそ収束の時期が掴めるだろう」
「疱瘡がうつる速さでございますか…。その件に関しましては、典医に文献を調べさせました。最初の患者が現れてから、2週間程で身近な者が疱瘡にかかり、その後は鼠算的に広がるそうでございます」
「なるほどな…。最初の患者が現れただけじゃ流行とは言わねぇからな。遙が治療を始めたのは、最初の患者が現れてから、2週間後辺りという事になるか…。そこから鼠算的に増えるとして、村の規模がだいたい50人と見積もれば全員感染するとしても、完全に広がるのに2週間足らずほど、か…」
小十郎は、しばらく眉間に皺を寄せて考え込んでいた。
「政宗様、遙様の文に書かれていた疱瘡について、今一度、詳しく教えて頂けませんか?」
「ああ、いいぜ。まず、感染した患者の飛沫から身近な者が感染する。飛沫とは、だいたい10尺の距離まで飛ぶものとする。潜伏期間は、2週間。つまり、感染してから疱瘡の症状が出るまで2週間、だそうだ。発熱を疱瘡の発症として考える、と書いてある。身近な者が疱瘡を患うのに2週間って文献の記録と一致してるな。発症してからは、膿疱が出来て、それがかさぶたになるまでは個人差がある。そして、かさぶたが一番感染力が強いため、それが剥がれる時に爆発的に流行が広がる。それが、遙の疱瘡についての説明だ。ただし、遙は、流行の兆しが見えた時にすぐに予防薬を村人全員に与えたそうだ。すでに疱瘡を患った者でも予防薬によって命は助かる可能性が高くなる。かさぶたによる爆発的な感染は、村を封鎖している限り起こらない。また、予防薬を与えた場合、発症までの時間や完治までの時間が未知のため、遙でも収束の時期は断言出来ない、という事だ」
「そうですか…難しいですね…。早く治るのか、長患いをするのか、全く読めませんね…。では、政宗様、こうお考えになったらいかがでしょう?政宗様がおっしゃる通り、村人全員が疱瘡にかかるのに2週間、完治までに3週間。丁度35日間ほどですね」
「遙が治療を開始したのが、25日前だとすると、収束まで、あと約10日間。甲斐まで馬を飛ばしてそのまま攫って来るとなると、もうあんまり時間がねぇな」
俺は苛ついて、親指の爪を噛んだ。
「真田幸村と猿飛佐助、二人一度に片付けるだけなら何とかなるが、遙を庇いながらとなると、狭い村の中、どう陣形を組むか考えなきゃならねぇし…」
「そうですね…。この小十郎が政宗様の背中をお守り出来るのならば、事は容易いでしょうが、残念ながら、お供出来ず、申し訳ございません。街道に騎馬隊を配置して、そこで、この小十郎が指揮を取りながら政宗様をお待ち致します。そこまで何とか逃げ切って頂ければ、後は、しんがりを務めますので、政宗様は江戸まで先に馬を飛ばして下さい」
「それしかねぇか…。今日中に、斥候の技量の番付けを作っとけ。出陣まで時間がねぇ」
「いえ、番付けをお届けに上がった次第でございます。つい話しこんでしまい、ご報告が遅れまして申し訳ございません」
「流石だ、小十郎!じゃあ、俺が真田幸村を倒すとして、猿飛佐助の足止めをどうするかだな…」
小十郎と斥候の配置について話し合おうとした時の事だった。
廊下からバタバタと足音が聞こえて来た。
「筆頭!!失礼しまッス!!」
「おう、入れ!」
リーゼントをがっちり固めた部下が息を切らせて部屋に入って来た。
「黒脛巾組からの早文ッス!!鳩が運んで来ました!!じゃあ、俺はこれで失礼しまッス!!」
膝をついて俺に小さく折りたたまれた文を手渡すと、襖の前で一礼をして、襖を閉めるとまたバタバタと遠ざかって行った。
「鳩の早文?火急の知らせだな」
俺は文を広げて、その内容に目を瞠った。
「小十郎!!この戦、勝ち戦だ!!」
「勝ち戦とは、なにゆえでございますか?」
俺は唇の端を吊り上げて笑った。
「真田幸村が、遙のそばを離れた!昨日昼過ぎから武田の屋敷に留まり、本日も動く気配なし、だそうだ。日付けは今日になっている」
「しかし、政宗様、また真田幸村が帰って来ないとも限りませぬ」
「いや、面白い事が書いてある。遙が猿飛佐助と二人きりで料亭に行った事に、真田幸村が大変憤っている様子。猿飛佐助と真田幸村は仲違い中と考えられるってな。猿飛佐助との逢瀬については江戸に着いてからじっくりと俺自ら詮議してやるから、後回しだ。どうせ、腹減ってただけだろ、あいつは。患者に食事全部回して、やつれてふらふらの遙を見かねて猿飛が料亭に連れてったってオチだ。間違いねぇ。あいつはそういう女だ」
「ずいぶん、自信たっぷりでございますね。お疑いにならないのですか?」
「ああ、お前は遙を知らねぇから、浮気を疑うんだろうな。あいつは、俺しか愛せねぇ女だ。それに、考えてみろ。猿飛佐助が料亭を使うってのは、どういう時だ?」
「諜報のために女を籠絡する時だけでございますね」
「そうだ。遙から何を聞き出せるか考えてみろ。異世界の話しか聞き出せねぇのは武田も分かり切ってるはずだ。今の武田は遙に指一本触れられねぇよ。遙が傷付いて塞ぎ込んで治療を止めたら、村は全滅、下手したら甲斐まで全壊だ。丁重にもてなすだろうな。治療に全然役にも立ちそうにねぇ真田幸村が、ずっと遙に張り付いてたって事は、多分、遙に懸想でもしてたんだろ。護衛なんて口実だ。猿飛佐助だけで十分だからな。で、猿飛佐助と逢瀬に出かけたと思って幻滅して、遙と猿飛佐助を逆恨みしたってオチか、Ha!面白れぇ!やるじゃねぇか、遙!!天然無自覚男たらしもたまには役に立つな!!」
「ままま、政宗様!!奥方様にあまりにも失礼なお言葉では…」
「失礼もへったくれもあるか!俺はありのままを言ってるだけだぜ?あいつのモテ方ときたら、いちいち嫉妬してたら身が持たねぇくらいに、あいつに憧れてる男だらけだ。あいつ、天然無自覚男たらしだから、本人にそんな気、全然ねぇしな。あいつの涙に絆される男なんて山ほどいるだろうな。お前も一度、あいつの泣き顔見たら納得するぜ、きっと。でも、あいつ、マジで無意識なんだぜ?お前も聞いただろ、遙の必死な愛してるの嵐。あんだけモテモテのいい女が、俺しか愛せねぇってのは最高の気分だ!」
ふふん、と笑うと小十郎は呆れたようにぽかーんと俺を見つめていた。
「な、何と申しますか…この小十郎の理解の範疇を超えた、不思議な絆でございますね…自分の妻がそんなに男の気を引いてばかりと思いましたら、この小十郎は耐えられませぬが…さ、最高の気分でございますか…」
「当たり前だ!あいつは俺だけの至宝だ!男が至宝に惹かれるのは当然だ!そんな事にいちいち嫉妬してられるか!むしろ光栄だっ!じゃなかったら、7年間も離れたままで夫婦でいられる訳ねぇだろ!」
「そ、そうでございましたね。確かにおっしゃる通りでございます」
「正直、あいつの傍にいられる男達をぶった切りてぇ気持ちもなくはねぇが、死体の山がわんさか出来るだけだし疲れるだけだ、馬鹿馬鹿しい。そんな暇と体力あったら、あいつが音を上げて泣こうが喚こうが抱きまくる方がよっぽど満足だし、すっきりする!7年間の積年の思い、覚悟しろよ、遙っ!!」
くつくつと笑うと小十郎は顔を背けて咳払いをした。
「あの…政宗様…積年の恨みに聞こえますが…その…せっかく久々にお会いするのですから…もう少し手加減して差し上げて下さい…」
「出来るか、んなもん!!何年も何年も、世継ぎ世継ぎと言われ続け、堪え続けたんだ!!ああ、いくらでも、いくらでも、城の奥に引きこもって世継ぎ作りに励んでやるぜ、遙となっ!誰にも文句は言わせねぇ!!伊達の基盤を盤石にするためになっ!!文句あるかっ!?世継ぎが出来るまで、引きこもるからな!!今の俺に足りねぇのは、遙と世継ぎだけだっ!!遙、待ってろよ…!!クックックッ…!!小十郎!!」
キッと小十郎を見遣ると小十郎は青褪めていた。
「すぐに戦の準備に入る。軍議を開くから手配しろ。今すぐだ!!」
「は、ははっ!!」
小十郎は平伏すると、部屋を出て行った。
もうすぐ遙を再びこの腕に抱ける。
俺は、あの時そう確信していた。
でも…。
俺は、遙を、武田信玄を見くびっていた。
遙が最高に頭がキレる女だって事を忘れてた。
呆れるくらいに律儀な女だって事を忘れてた。
武田信玄の懐の深さを見誤っていた。
愛情が憎悪に変わる業の深さを、俺自身がよく知っていたはずなのに忘れていた。
あれは、天がくれた好機じゃなかった。
遙を信じて待つ道が正解だったのに、急いだあまりに遠回りをする羽目になった。
それも、気が遠くなるなるほどの遠回りを…。
遙を信じて待てば、誰も傷付かずに済んだ。
あんなにも多くの人間が、心に傷を負う事はなかった…。
遙も、俺自身も含めて…。
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