武田の屋敷では、こうして遙を腕の中に閉じ込めて、警戒する事なく眠る事が出来なかった。
あの夏の思い出が蘇る。
いつまでも、飽き足らず、こうして遙の安心しきった穏やかで綺麗な寝顔を見るのは、かけがえのない俺の安らぎで、本当に久しぶりだ。
真田幸村が付けた痣もすっかりと消えている。
あの痣を見る度に、怒りと哀しみで、やるせなかった。
こうして、すっかりと痣も消えた遙を抱き締めて眠るのは、7年振りだ。
いつまでも、こうして遙の寝顔を眺めていたい。
長い睫毛が落とす影も、綺麗な鼻筋も、柔らかい唇も、俺だけが見ていい、とても幸せな光景だ。
俺は、ふっくらとした唇をそっと親指で撫でた。
それでも起きないほど、遙は疲れている様子だった。
でも、もうすぐ起きなければ、小十郎が痺れを切らして起こしに来る頃だ。
今日は、八王子に寄ってから江戸に帰らなければならない。
俺は遙の耳元で、優しく囁いた。
「Good morning, my sweet heart」
遙は、うーんと唸りながら、俺の首に腕を回し、寝ぼけたまま、キスをした。
「Good morning, darling」
そのまま、何度も柔らかなキスをしているうちに、遙は、ようやくはっきりと目を覚ました。
そして、ホッとしたように、遙は微笑んだ。
「政宗とこうして目を覚ますの、何だか久しぶり。このまま、抱き合っていたいな」
「そうだな。でも、そろそろ着替えないと、小十郎が痺れを切らす。江戸入りが遅くなるからな」
「そうだね。何だか残念」
「江戸に着いたら、いくらでもこうして抱き締めてやるよ。俺は、もうお前を離さねぇ。ゆっくり朝寝をして、あの頃みたいにただお前を抱き締めてぇな」
「ふふっ。江戸に行くのが楽しみ。じゃあ、着替えようかな。馬に乗るなら白衣がいいよね?」
「そうだな。荷物は部下に持たせる。小十郎は俺の護衛に付くからな」
「ありがとう」
俺達は、それぞれ着替えた。
すると、遠慮がちに、襖の向こうから小十郎が声をかけた。
「政宗様、遅めの朝餉をお持ちしますか?江戸入りが遅れますが…」
「私、朝は殆ど食べないの。おにぎりとお味噌汁がいいな」
「俺も遙と同じで構わねぇ。早く江戸入りしてぇからな」
「承知」
「あ、待って!岩魚の塩焼きは食べたいな」
思わず俺と小十郎は笑ってしまった。
岩魚なんて、川の上流に行けばいくらでも食べられる。
「だって、食べた事、ないんだもの」
「Huh?マジか!?」
「うん。だって、あの世界じゃ、山奥に行かないと食べられないんだよ?」
「そうか…。自然が殆どなかったもんな。分かった。小十郎、岩魚の塩焼きも付けてくれ。俺の分もな」
「かしこまりました」
小十郎は、中居に申し付けると、襖の向こうに控えた。
「お前の朝餉は?」
「申し訳ございませんが、済ませてしまいました。撤退の指揮を取っておりましたので」
「そうか、thanks。心置きなく江戸に向かえるな。途中で八王子に寄る。守りを固めろ」
「はっ!そのように陣形を組んでおりますから、ご心配には及びません」
「流石だ、小十郎」
その時、中居が茶を持って現れて、小十郎はそれを持って部屋に入った。
「政宗様、余程待ちきれないのですね。あとは鎧を着けたらすぐに出立出来ますね」
「ああ、もちろんだ。早く江戸に帰りたいからな。遙の十二単を選ぶのも楽しみだ」
「その件に関しましても、侍女達に申し付けております。遙様にお似合いの十二単を選ぶのには、きっとお時間がかかりますので、京より取り寄せております。ごゆっくりお選び下さい。正月が明ける頃には京に着くとよろしいかと」
「Thanks, 小十郎。一服してから朝餉だな」
「はっ!」
俺と遙は、茶を飲みながら、ゆっくりとタバコを吸った。
起き抜けのタバコは、一層旨く感じる。
遙は、終始笑顔で、小十郎も嬉しそうに笑った。
「すっかりご快復なさって安心致しました。江戸に着いたら、お疲れになるでしょうから、ごゆるりとお過ごし下さい」
「小十郎、ありがとう」
「それから、手習いもして下さいませ。政宗様がお手すきの時にでも、ゆっくりで構いませんから。それから、南蛮の商人達とやり取りする際は、お力添えをお願い致したいと存じます」
「英語とフランス語とスペイン語なら何とか」
「それだけ出来れば十分でございます」
タバコを一本吸い終わって、もう一本吸っているうちに、茶がなくなり、小十郎は、茶を注いだ。
遙は、吸い終わると、ポケットから練り香水を取り出して、耳の後ろと手首に着けた。
とても懐かしい香りがする。
「これは…!」
「小十郎、どうしたの?」
「政宗様のお部屋で焚いておられた、南蛮の香と同じ香りが致します。ずっと遙様を想って焚いてらしたのですね。懐かしそうで、哀しげなお顔をしてらっしゃいました。やっと合点が行きました」
「香りと声は、記憶に残りやすい。俺は遙を忘れたくなかった。遙からは、いつもこの香りがしていたからな。忘れられなかった。7年もな」
「政宗…」
俺は、遙の首筋に顔をうずめて、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
小十郎は、顔を背けてくすくすと笑っていた。
「政宗様もお元気になられたようで、嬉しく思います」
その時、朝餉が運ばれて来た。
小十郎は配膳すると、部屋の外に控えた。
遙は、岩魚の塩を見て、くすくすと笑った。
「どうした、遙?」
「政宗が、塩を大人買いした事を思い出したの。もっと高級な塩もあったのに、政宗ったら、赤穂の塩を選んでおかしくて笑っちゃった。でも、あの塩の山が全部なくなった時は、哀しくて泣いちゃったよ…」
「そうか…。それもいい思い出だったぜ?さぁ、冷めないうちに、食え」
「うん!」
遙は、物珍しそうに岩魚を見つめて、そして美味しそうに目を細めて食べていた。
俺にとっては、そんなに珍しくもないが、遙と一緒にこうして食べると、一段と美味しく感じられた。
そして、遙は、味噌汁を飲んで怪訝そうな表情を浮かべた。
「味噌って尾張と駿河と仙台にしかないよね?」
「ああ、そうだな。これは仙台味噌だな」
「懐かしいな。お母さんが仙台味噌が好きだったから、よく食べてた」
「そうか…。あの世界が恋しいか?」
「恋しいと思う事もあるけど、絶対に結婚は嫌だったから、政宗と再会出来て、こっちの世界に来られてやっぱり良かったと思うよ。家族は恋しいけど、病院を継ぐのは嫌だったし、美紀もいるから、淋しさ半減かな。美紀の事も心残りだったから」
「あいつは生意気だが、俺達のキューピットだからな。それに遙の命を救ってくれた。悪いようにはしねぇよ。あいつの祝言も望むようにさせてやる。でも、まだまだだな。猿飛も、美紀も、気持ちがまだ結ばれてねぇからな。しばらくお預けだ」
そんな事を話ながら、ゆっくりと食事を終えると、小十郎が膳を下げ、俺の鎧を着せた。
遙は、バッグを持ち、小十郎に渡した。
「部下に持たせろ。お前は護衛につけ」
「承知。では、参りましょう。遙様はお一人で馬に?」
「うん。政宗の両手が空いてた方が私も安心だもの」
「お前を抱き締めたいのはやまやまだが、その方が好都合だな。行くぞ」
「うん」
俺達は、宿を後にした。
外では部下達が、既に陣形を組んでいて、美紀は、猿飛と共に馬に乗っていた。
「美紀、大丈夫なの?」
遙は気遣わし気に美紀に尋ねた。
美紀は笑顔で答えた。
「昨日、佐助と遠乗りしたから大丈夫。でも、政宗のスピードにはついて行けないから、忍隊の半分の人達の護衛でゆっくり行くよ。八王子で待ち合わせね。それにしても、遙ったら、政宗と同じスピードで走って柵を越えられるまで馬の練習をしてたからびっくりしちゃったよ。でも、良かったね、報われて」
「お前、そんな事もしてたのか?」
「うん。いつか政宗に出会えた時に、一緒に遠乗りしたくて」
「お前って本当に健気で可愛い奴」
「遙様、何と健気な…!!」
俺は籠手を嵌めたまま、遙の頭を撫でた。
「じゃあ、行くぜ。Are you ready, guys!?先鋒、行け!」
「Yeah!Ya-ha!!!」
先鋒が走り出して、俺と遙と小十郎もそれに続いて爆走し始めた。
街道の両脇には、紅葉した木々が広がっていて、遙は歓声を上げながら、俺に話しかけていた。
それでも、俺と並んで馬を疾走させるものだから、俺は本当に驚き、そして、遙の努力と健気さにまた愛しさが募った。
遙は、本当に俺を惹きつけて止まない、愛しい愛しい女だ。
早く江戸に帰って、遙とゆっくり過ごしたいと切に願った。
しおりを挟む
top