04 如月 龍




 龍が次に目を覚ましたのは、事故から三日後の事だった。ベッドの傍でずっと龍を見守っていた父親から全てを聞いた。事故の事も、左目の事も、彼女が死んだ事も。しかし龍は取り乱す事はなく、それをすんなりと受け入れていた。

 だが、それから龍は変わった。

 事故以来、一切笑う事はなく、子供とは思えない落ち着いた雰囲気。学校には行かず、一日の殆どを部屋で過ごすようになった。食事の時も部屋から出ず、使用人が毎日部屋の前に食事を置いていく。しかしその食事もほとんど食べていなかった。そんな龍に、両親は常に心配していた。
 家は驚くほど静かになっていた。しかし週に一回だけピアノの音が家中に鳴り響くのだ。その日は決まって、“彼女”が来ていた日曜日だった。流れる曲もずっと同じ、彼女が愛した「きらきら星」だった。だがとても悲しく、切ないメロディ。それはまるで、龍の気持ちを表しているようだった。
 とても悲しい「きらきら星」はずっと流れ続けていた……。

 それから事故から一年経った時だ。真夜中、龍は部屋の外にいた。喉が渇き、水を飲むためだった。誰もいない、静かで暗い廊下を歩いていると、コソコソとメイドたちの話声が聞こえた。龍はメイドたちに気付かれない様に足音を消し、彼女たちの会話を聞いていた。

「あの事件から1年ね。龍坊ちゃまも部屋から出るようになってよかったわ」

「そうね。一時期は本当に心配したわ。あのピアニストの先生が死んで、そんなにショックだったのね……坊ちゃん、すごく懐いたもんね」

「あら、貴方知らないの?」

「え?」

「あのピアニストの先生、龍坊ちゃまの実の母親よ」



******



 彼女がピアニストをやめてすぐの事だ。雨が降る夜、彼女は子供を産んだ。髪の色も、目の色も、あの男にそっくりだった。彼女は、すやすやと気持ちよさそうに眠る我が子を見て、微笑んだ。我が子が泣きだすと、彼女はすぐにピアノを聞かせた。「きらきら星」を聞かせると、我が子は気持ちよさそうに眠りはじめる。生まれて初めて出来た我が子と過ごす時間は、彼女にとって幸せな物だった。
 ……しかし、その幸せは長続きしなかった。

「ほんとうに、すまない」

 男は彼女に謝った。彼女にとって、彼からの謝罪はこれで二度目だった。男の傍には、彼女の我が子を抱いた妻―――そう、男にとって彼女は「愛人」だった。しかし彼女もそれを承知で男と寝たのだ。何とか妻に隠し通していたが、彼女が妊娠して全てが発覚した。男は全て妻に明かした。浮気の事も、彼女の事も、そして彼女の中に男の子供がいる事を……。
 有名な投資家が有名なピアニストと浮気をして子供が出来たなんて世間に知られたら全てが終わりだ。だから男は彼女にピアニストを辞めてほしいとお願いしたのだ。

「辞めてからの君の生活は何とかする。だからピアニストをやめてくれ、そして……この事は秘密にしてもらえないか」

 男がそう言うと、彼女は受け入れた。そして子供を―――龍を産んだ。

 男は龍が生まれたことを喜んだ。しかしそれは彼女との子供が生まれたから喜んだわけではない。如月家を継ぐ長男が生まれたことに喜んだのだ。
 男の実の妻は病気で子供が産める体ではなかった。その為跡継ぎをどうするかが、彼にとって悩みの種だった。当初の予定では身寄りのない子供を引き取る予定だったが、丁度その時に龍が生まれたのだ。
 待ちに待った子供が本当に喜ばしいことだ。しかし問題なのは「愛人」の子供と言う事。幸いにも龍は父親に似ていた。それを知った男は、再び彼女にお願いをした。

 龍を、妻と自分との間に生まれた子供だという事にして欲しい―――と。

 怒られる覚悟のお願いだった。拒否される覚悟はあった。しかし彼女はその願いさえも受け入れた。とある“条件”付きで……。
 翌日、彼女から渡された紙を見て、男と妻は驚いた。その条件は以下のものだ。

 その1 母乳が必要なうちは彼女が龍を育てる。

 その2 週に一回は龍に会わせる。その際は父親の友人として紹介させる。

 その3 彼にピアノを教える。その先生はもちろん自分。

 その4 ピアノを教えている間は誰でさえ、邪魔をしてはならない

「この4つの条件さえ守ってくだされば、私は何も言いませんわ。私自身の事、そして、私と貴方との関係を……」

 彼女はそう言いながら笑った。妻は不服そうな顔をしてたが、男はその条件を呑んだ。もしこの条件を一つでも拒否をすれば、彼女は「真実」を世間に言いかねないからだ。
 だから彼女は、週に一度だけ我が子と会えることを許された。しかしそれは、自分が実の母親だとは言えないとても辛いものだった。だが彼女は、例え自分が実の母親だと言えなくても、愛する我が子と過ごせる事、彼にピアノを教えることが出来る事が幸せだった。
 いつか龍が大きくなって、すべてを受け入れるくらいまで大きくなったら真実を話そうと、彼女も、そして男も思っていた。

 しかし、現実はそう上手くは行かない。龍は事故から1年後に、「真実」を知ってしまったのだ。しかも、このような形で……。

「先生が、僕の母親……」

 わずか8歳に襲った衝撃的な真実。自分は父親と愛人の間に生まれた子供で、しかもその母親は自分の初恋の相手。
 自分は、本当はこの世に生まれてはいけない子供だったのか。母親と思っていた女からは、さぞ自分が憎らしかったに違いない。何故なら彼は、愛する夫と愛人の子供。そんな子供を今まで我が子の様に可愛がってきたと言うのか。そんなはずはない。可愛さなんて、一欠けらもないはずだ。

 如月家の跡取りの事しか頭にない自分勝手な父親。

 夫と愛人の子供を我が子の様に育てる母親。

 愛人との間に生まれた罪深き子供。

 ここまで上辺だけの幸せは観たことがない。龍が今まで過ごしていた「幸せ」は全て偽物だという事か。その瞬間、龍の中で何かがひび割れた。

「あああああああああああああッ!!!!!!!」

 龍は大声で叫ぶ。その声を聞き、近くにいたメイドたちは驚いた。自分たちの話を聞かれたという事は、彼の様子を見て一目瞭然だ。
 何もかもが壊れた龍はただ叫び続けた。そして泣いた。泣いて、叫んだ。喉が潰れてしまうのではないかと言う位、叫んだ。さすがに目を覚ました両親が龍の元に駆け寄った。龍の様子を見て、男は全てを察した。

「龍……龍! おい、誰か! 医者を呼んできてくれ!」

 男の指示で近くにいたメイドはすぐに医者を連れてきた。医者は暴れる龍に鎮静剤を注射した。だが龍の暴走はこれで終わらなかった。翌日、再び龍は部屋に籠り始めた。前回と違い、今回はピアノが鳴る事はなかった。



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