3. 絡み合いそして鮮やかに咲く金竜花
「シーカーマールーーー!」
「(?!この声は…)」
いのだ。シカマルは心の中で続けた。
二階の屋根から ずかずかと家に上がりこむ いのの習慣は幼い頃からのものだ。勿論靴は屋根に置いて。自室に上がる前にこの声を一度聞く。その合図は今でも通用するのかと、考える前にシカマルは階段を上がっていた。
「あ、おい、お客さんなら玄関じゃ……」
テマリは階段を駆け上がっていくシカマルを不思議そうに見上げた。
「いの…!」
「あ、やっぱりこっちってわかったー?」
襖を開けるや否やシカマルは いのの名前を叫んだ。いのは窓からひょっこり顔を出していて、靴を脱ぎ まさにこれから家に上がろうとしているところだった。
ふふふ、と蝶がふわりと飛ぶような軽やかな笑い声が耳に届く。この声だ。この声が聞きたかったんだ、俺は。シカマルは途端に胸が熱くなった。
「わかるに決まってんだろ!どれくらい」
一緒にいたと思ってんだ、と言いたかったのに、どすん!という音と共に目の前が真っ暗になり、シカマルの言葉は途切れた。一体今何が起きたのかシカマルは顔をあげるまでわからなかった。
いのがシカマルに抱きついたのだ。窓から飛び降りる形で。床まで然程高さはないものの、いきなりのことでシカマルは尻もちしてしまう。
「お、おい、いの?!」
「おっひさー!元気にしてたー?」
「いや、元気っていうほどじゃねえけどよ。お前こそ…って、ちょ、放せって!」
「……」
「?……いの?おい、放せ…」
「嫌よ」
急に声のトーンを下げるいの。それと同時に抱き締められた腕に力がこもる。
「いの!冗談はよせって!まずいっての!それに俺達…」
「あら。なぜかしら?だってわたしたち、まだ別れてないでしょ?」
不敵な笑みを浮かべる いの。ぎくりとした。視線が交わる。その一瞬だけ時が止まったように感じた。
かと思いきや、いのは抱きついていた手をぱっと離した。不思議に思ったシカマルだったが、その理由は後にすぐわかった。
「おい、お客様なら客間へご案内しなきゃ駄目だろ……って、あ…」
「テマリさん、こんにちはー。お邪魔してまーす」
階段を上がってきたテマリの気配を察知したのか。さすがこういうところは一応くのいちなんだな、と変なタイミングで感心してしまう。それよりもさっきと今の態度があからさまに違うことに感心を通り越して恐怖を覚えるシカマルであった。
「あっ、いいんですいいんですー!わたし達、いつもこんな感じなんでー。お客様扱いなんてしないでいいですからー」
いつもこんな感じ。確かにそうだ。もともとお互いの家を行き来する仲であったし、家族ぐるみで仲が良かった両家は、こんな感じで家に上がりこんできても気にしてはいなかった。
しかし、いつもこんな感じ、というその言葉が、テマリには何となく気に食わなかった。
二階から入るのは、小さい頃から忍者の真似ごとをしていた名残である。今もこの部屋はシカマルの部屋として使っている。ここが寝室であったりテマリの部屋に変わっていたら、いのはどう思っただろう。
テマリはどこか面白くなさそうな顔をしていた。それもそうだろう。自分と結婚したばかりの夫が、幼馴染とはいえ他の女と親しくしているのを目の当たりにしたら。しかも、自分の知らない過去や、二人だけに許された時間の長さをこうも見せつけられたら。いのがシカマルの幼馴染だということは変えられようもない事実であるし、こういったことがあるのは仕方のないことだとはいえ、頭の中ではそうわかっているつもりでも、やはり面白くはないだろう。
しかしそれをあまり顔に出すのも大人げないと思ったテマリは、慌てて表情を戻す。あからさまに表情を変えたつもりではなかったが、その一瞬の揺れた表情を いのは見逃さなかった。
「まあこんなところで立ち話ってのもなんだし、お茶でも飲んできなよ」
「あっ、じゃあお言葉に甘えちゃおっかなー♪」
わざとらしく聞こえただろうか。ちょっとはしゃぎ過ぎたか。いのはテマリを警戒するように盗み見るが、テマリの方は何も感じ取ってはいないらしい。テマリが意外とこういうことには鈍いたちなのか、自分が上手く誤魔化したということなのか、いのにはまだわからない。
一階に降りてくるとシカマルの母ヨシノがいた。所謂、二世帯住宅というやつだ。いのはヨシノとも仲が良かったため、以前と同じように笑顔で いのを迎え入れてくれた。
「あら、いのちゃん。いらっしゃい」
「おばちゃん、こんにちはー!お元気でしたかー?」
「ええ。まあまあ、いのちゃんったら、またさらに綺麗になってー」
「えー?そんなことないですよー。おばちゃんったらお上手なんだからー」
二人で笑い合っているのを、テマリは羨ましそうに見ていた。自分にはヨシノとこのような仲になれないということがわかっているからだ。
「テマリさん。いのちゃんにお茶を出してあげて」
「あっ、はい!すみません…」
その一瞬のやり取りを見て、二人が上手くいっていないことを、いのはすぐに察した。無理もないであろう。政略結婚なうえに木の葉隠れの里出身ではない余所から来た嫁なのだから。由緒正しい奈良家の血筋に、まさか他里の人間が入り込むなんて、ヨシノも予想だにしていなかったのだろう。
しかしいのは、ヨシノを味方につけようと付けようなんて気はさらさらなかった。自分の意志で、自分の力で、やれることはやってみよう。そう思ったうえでの行動だった。
「あっ、おふたりとも、この度はご結婚おめでとうございます。おばちゃんも、おめでとうございます。体調崩しちゃって式に出られなくってごめんなさい」
わざとらしく聞こえないように。それだけは注意した。最大限に無理をして笑顔も作った。社交辞令じゃないけど、これくらいは言っとかないと怪しまれる。いのはそう思った。
丁寧にお辞儀して顔を上げた時に、笑顔を崩さないままシカマルを睨むように見つめる。シカマルはその気迫に、つい視線を逸らしてしまった。
一頻(ひとしき)り居間で会話する四人。いのはヨシノと昔話で盛り上がっているし、その話についていけないテマリは愛想笑いを浮かべているし、この奇妙ともいえる光景をシカマルは冷や冷やと眺めていた。
陽も傾きそうな頃合いに、夕飯の支度があるからと いのは席を立った。思わずシカマルも立ち上がり、送るよと声をかけてしまった。そのときテマリの瞳が揺れたのは誰も知らない。
「お邪魔しましたー。テマリさん、お茶とお菓子、ごちそうさまでしたー」
「あ、ああ……また、いつでも来てね」
今はそう言うのが精一杯だったのであろう。視線の先は玄関で靴を履いている自分の夫の背中だった。
家からだいぶ離れた所まで来て、周りに人がいないのを確認してからシカマルは口を開いた。
「どういうことだ。いの」
「どういうことって?」
「その…まだ、別れてないって……」
「あら。だってそうじゃない。はっきり別れたことにはなってないはずよ」
「それはそうかもしれないけどよ……俺、結婚したんだぜ?」
「わたしは認めないから」
意志の強い、いのらしい真っ直ぐな声。足を止めて自分の影を見つめる。夕陽に伸びた、黒く長い影を。
少し先まで歩いてしまったシカマルは浅い溜息をひとつ吐き、いのの方を振り返る。
「俺にどうしろと……」
「いいの。このままで。」
え、と顔を上げると、いのと視線が交わった。真っ直ぐな影と一緒に重なり合うように。
「わたしは別れたくない」
「それは…」
「わたしは今でも、これからも、ずっとあんたが好き」
「そりゃ俺だって一緒だっての」
「じゃあ決まりね」
あの不敵な笑みがまた零れる。シカマルもまた、ぎくりと肩を強張らせた。
いのは、つかつかとヒールを鳴らしてシカマルに近付き、耳元で囁いた。
―――このまま、付き合ってればいいのよ。―――
いのの息が耳にかかる。そこがやけに熱く感じた。一瞬だけ、その言葉の意味がわからなかった。
しかしシカマルの脳裏に不倫という二文字がすぐに浮かび上がる。
咄嗟に顔を上げ いのの方を見ると、真っ直ぐとシカマルの瞳を捉えている。本気だ。いのは。シカマルは確信した。
いくら足掻いても変えられない現実。しかし いのに対する想いはどうしたって消え失せることはない。それはきっと、この先も。
表向きは現状維持。上手くやっていけるだろうか、自分に。不安なことだらけだ。だけど、このまま 終わらせることもできない。
どちらが正しい道なのかははっきりしている。しかし自分達は今、歪んだ道を進んで自ら闇へ飲み込まれようとしている。
ならばいっそ、闇の世界へ二人で飲み込まれよう。二人一緒なら、きっと大丈夫だ。
自分の影に視線を落としていたシカマルは、もう一度 いのを見つめ直した。今度は揺らぎのない真っ直ぐとした目で。それがシカマルの返事だと、いのにはわかった。
二人の影が重なり合い、ひとつになった。影は先程よりも伸びている。季節外れの金竜花は鮮やかに咲く。絡み合うように。寄り添ってきた いのの背中に腕をまわし、抱き締める。今まで会えなかった日々の分まで、きつく、きつく。
*****
シカマルの家に いのがやって来た日から一ヶ月が経った。その間、いのと会っていない。
どうしているんだろう。シカマルは空を仰いだ。白い息が溶ける空は、いつの間にこんなにも高くなっていたのか。
不倫をする、という覚悟を二人でしたのに、どうして連絡がない。会いたい。今すぐにでも会って、あの日のように いのを抱き締めたい。
でも、自分から会おう、なんてどう言えばいい。どうすればいいのかわからない。ただ彼女のことを想うだけの日々。
そうしているうちに、いのに縁談がやってきたらしい、という風の噂がシカマルの耳に届いた。とはいっても、相手はよく見知った顔、サイであり、いのの母親が持ちかけた話であった。
サイは唯一の家族のように慕っていた義兄を亡くし、自分の家を継ぐようなこともないため、山中家に婿養子に入ることに何の問題もなかった。
サイならば見知った顔であったし、どこの馬の骨かも知らない奴に いのを取られるよりはいい。それに、そうすれば自分のことを忘れてくれるのではないか。このまま棘(いばら)の道を共に歩いて彼女を危険な目に遭わせることもないだろう。と都合のいいことばかりシカマルは考えていた。
しかし、それとは裏腹にやはりどこか嫌な感情もあったりで、複雑な心境ではあった。そんな自分はとうに結婚してしまったというのに、なんて身勝手な。とシカマルは思わず苦笑する。
―――このまま、付き合ってればいいのよ。―――
あのとき いのが発した言葉は熱を帯びていて。思い出すだけで耳が熱くなる。
どうして連絡がない?お前は会いたくないのか?もう俺のことは嫌いになったのか?お前は自分の結婚のことはどう思っているんだ?あのときの言葉は嘘だったのか?
胸の奥底でどんよりとしたものが渦巻くような感覚に吐き気すら覚える。
「おい、顔色が悪いぞ?大丈夫か?」
夫の身を案じてくれる妻の言葉も、今は届かない。
―――会いたい。会って話がしたい。―――
ただ、それだけだった。
*****
それからさらに一ヶ月ほど経った頃。季節は冬の終わりを告げようとしている。テマリは砂隠れの里に帰省し、ヨシノも旅行に出掛けていて、シカマルは久しぶりの一人の時間を満喫しようと休暇を取り、広い家の中でだらだらと過ごしていた日のことだった。
「シーカーマールーーー!」
「……っ!」
この声をどれほど待っていたことか。もうこの声を聞く日が来ないのではないかと思っていたくらいだ。シカマルは階段を駆け上がる。
「いの…!」
「シカマル!」
シカマルはすかさず いのを抱き締めた。いのもまた、それに応じる。
「お前、なんで…なんで連絡寄越さねえんだよ…!俺が…俺がどれだけお前のこと……!」
「ごめんね…色々バタバタしちゃってて」
いのの瞳が揺れていた。思わず抱き締めた力を緩めるシカマル。
「あ…わりぃ……そ…っか、そうだよな。お前、結婚するんだもんな。こんなの、もう駄目だよな…」
「違う!!」
間髪入れずに いのは言った。
「そうじゃないの!わたしだってあんたに会いたかった。でも…ほら、噂であんたも耳にしてるでしょ…?それでちょっとバタバタしちゃってて……。でも、この関係を終わらせようとか、そんなこと、全然思ってないんだからっ…!」
え、と顔を上げるシカマル。いのの瞳は相変わらず真っ直ぐ自分の方へと向けられている。あのときと変わらない。
「…大丈夫、なのか……?」
「当り前じゃない!大丈夫じゃなくても、大丈夫にするの!だってわたし、あんたとずっと一緒にいるって…」
その言葉の続きは、シカマルの唇によって塞がれてしまった。不意打ちで驚いたが、いのはゆっくりと目を閉じて、久しぶりのシカマルのその感触に酔いしれた。
会えなかった時間を埋めるような、静かで、優しくて、甘い口づけ。浅く、深く、でも決して離れることはなく。いのの瞳から涙が溢れてきた。シカマルはそれを優しく指で拭う。
「……ん、……ごめん、テマリさん、来ちゃうね…」
「砂の国に帰省してる」
「おばちゃんは…」
「…旅行中」
ゆっくりと顔をあげる いの。刹那、熱い視線が交わった。
二晩だけ。
二人に許された時間は、たった二晩だけだった。今まで会えなかった分の時間は、たった二晩では埋められない。
けれど、会っていられないよりは。
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2016.10.31
Gleis36