4. 夢の中のグラジオラス
「ねえ、旅行でもしないー?」
彼女が口を開いたのは、たまたま任務の帰りで一緒になったときだった。その声は明るく弾んでいて、どこか悪戯っぽさを感じさせる。世間一般からしたら、悪戯では済まされないことをしているのだけれど。
「えっ、無理だろ」
「そんなことないでしょー」
今回の任務は、シカマルはキバと、いのはヒナタと組んでいた。大した任務ではなかったため、早めに切り上げてさっさと帰路につこう、と話していたところに四人は合流した。キバとヒナタも久しぶりの再会だったからか、思い出話に花を咲かせている。先をゆく二人に聞こえないように、いのは小声で言った。
「長期任務だとか何とか言ってさ、人里離れた温泉にでも行きましょうよ!」
「すぐバレんじゃねえのか?」
「だーいじょうぶよ!堂々としてれば意外とバレないもんよ!」
「まったく…お前のその自信はどっからくるんだか…」
ふふふ、と上機嫌に笑う いの。きっと本気なのだろう。
だいぶ先を歩いていたキバが足を止め、早く里に着きそうだしラーメンでも食ってかねえか?と提案する。
「たまにはいいな」
少しでも いのと一緒に居られる時間が長くなるのであれば、ラーメンだろうが何だろうが付き合ってやる、シカマルは心の中でそう呟いた。
火影に任務の報告を済ませ、一楽に着くとそこそこ空いていた。陽が傾く手前、時間もまだ遅くはないからだろうか。
しょうゆラーメンを頼む いのとシカマル。ヒナタは塩ラーメン。とんこつラーメンはキバが頼んだものだ。目の前に出てきたラーメンを見てシカマルは顔を顰めた。
「あ、やべ。」
「玉子無しでって言うの忘れちゃったのね?いーわよ、わたし食べてあげるから」
「シカマルくん、玉子嫌いだったっけ?」
「ああ。こういう固ゆでのはちょっとな…」
「さっすが幼馴染、よくわかってんなー!」
「ふふ、でしょ?」
キバの茶化しに得意気に笑う いの。
「そういうのって、やっぱり奥さんもわかってるワケ?」
にやにやしながらシカマルに聞くキバ。途端に いのの顔が不機嫌に曇る。
何も知らないキバは悪くない。そうわかってはいるが、いのの前でそういう話をされると困る。シカマルは面倒臭そうに口を開いた。
「いや、知らねーと思う」
「えっ、だってアツアツな新婚サンでしょ?」
「新婚って…お前な……」
「照れんなって」
お願いだからこれ以上何も突っ込まないでくれ。その思いを溢すようにめんどくせ、と呟いただけで、それ以上何も返さなかった。つい、横目で いのの顔色を窺ってしまう。今この場に一緒に居るのがチョウジとサクラなら、そんな話題絶対に出さないのに、と小さな溜息を洩らす。
勘定を済ませ、キバとヒナタと別れてから、いのの家へ向かう。日も暮れてきたし送ると言って。いのはさっきの一連の流れのせいか、ぶすくれていたが。
「なあ、いの」
「………」
「なあって」
「………」
「怒ってんのか?」
「………」
「(めんどくせーなあ…)」
「……今、めんどくせーって思ったでしょ?」
「…うっ」
さすがにずっと一緒に居るだけある。本当によく自分のことをわかっている。
「怒ってんのか?」
「そりゃあね」
「仕方ねえだろ。世間からしたら俺はただの既婚者なんだから…」
「わかってるわよ!そんなことくらい…!でも……」
「でも…?」
いのの表情が曇る。
「嫌なもんは嫌なの!」
「何ガキみてーなこと言ってんだよ」
「なっ!ガキって!」
「…ま、それ言ったら俺も一緒だがな」
「へ?」
来月いのはサイと式を挙げる。そのことを思うと、シカマルだってやはり嫉妬はしてしまう。
目を逸らし口を尖らせてそう呟いたシカマルの顔を、いのはにやにやしながら覗き込んだ。
「えっ、ひょっとして、シカマルも、ヤキモチ妬いてんの?」
「うるせ!」
「うっわあ、あのシカマルがヤキモチ妬いてるなんて〜!」
「お前だって一緒だろ!」
きゃははと笑い声をあげて小走りで先をゆく いの。さっきの不機嫌なお前はどこへいった、と突っ込みたくなったが、その言葉は呑み込んだ。くるりと振り返ると紫色のロングスカートが控えめに翻る。
「ねえ!来週一週間、空けといてよ!」
「なっ、一週間も?!」
「長期任務っていったら、一日二日やそこらじゃ、終わらないでしょー?」
いのが言うことに一理あるような気もする。ここは いのの言う通り、堂々としてみるか。嬉しそうな笑顔を向ける いのを見ながら、そうシカマルは思ったのだった。
別れ際に路地裏でキスを交わした。散りかけの梅の花が、春の訪れを思わせる。
姿が見えなくなるまで見送ってくれる いのの姿を背に感じながら、自分の家へと向かう道へ足を進めた。その足取りは、いつもよりは確実に軽かった。
「長期任務?」
「ああ。めんどくせーけど、ちょっと厄介な極秘任務でな」
「どれくらいだ?」
「一週間」
「結構長いな…」
シカマルは帰宅してからすぐその話をした。任務の報告の後に次の任務を言い渡されるときもある。明日この話を持ち出すよりは、任務帰りの今日のうちに話した方が自然な流れだろう。
最低限の言葉だけで会話すれば、ボロも出ないはずだ。極秘と言っておけば、深く詮索されることもない。怪しまれないように、表情も変えずに淡々と話す。
砂隠れの里に帰省していたテマリは先週帰ってきている。居間にいるシカマルにお茶を出しながら眉を顰めた。
テマリは、普段から淡白なやり取りしかしようとしないシカマルにやきもきし、そして焦っていた。それもそのはずだ。二人は木の葉隠れの里と砂隠れの里の友好同盟のために結婚した。
しかし未だに子供はできず、むしろその行為すらしていない。二人で外出することさえもままならず、夫婦らしいことは何ひとつしていない。名前を呼ばれたのも、呼んだのも、いつのことか思い出さないとわからないくらいだ。なるべく周りにはわからないようにしてきたつもりだが、やはりどこからか噂というものは立つもので。
「同盟のためとはいえ、やっぱり政略結婚って可哀想ね〜」
「まだ子供もいないの?」
「二人一緒に歩いてるところ、見たことないわよね〜」
「やっぱり上手くいってないんじゃないの?」
そんな身も蓋もない言葉がどこからか耳に入り、鋭い矢の如くテマリの心に突き刺さる。
砂隠れの里に帰省したとき、弟の我愛羅から子供はまだなのかと聞かれた。我愛羅は、風影という立場もあって、友好同盟の何よりの証しともいえる二人の子供ができることを、誰よりも望んでいる。
しかしテマリは困ったような笑みを浮かべ、曖昧な返事しかできなかった。そういう雰囲気ではないどころか、その行為すらしていないということは口が裂けても言えない。
本当に自分はこれでよかったのか。そんな言葉がテマリの頭を過(よ)ぎる。
友好同盟のためとはいえシカマルがこの結婚の話を承諾してくれたということは、少しでも自分に気があるからではないのかと勝手に思い上がっていた。中忍試験で出逢って、様々な任務、激動の忍界大戦、数々の苦境を乗り越え、少しは深い仲になったと思っていたのは自分だけだったのか。
木の葉隠れの里には友と呼べる仲の人間はいないし、姑のヨシノは自分のことを相変わらず余所者扱いだし、肝心な夫が自分の肩を持ってくれないともなると、もはやテマリの居場所はこの里どころか、嫁いできたこの家にすらないということだ。
すっかりぬるくなってしまった煎茶に視線を落としたまま、テマリは口を開いた。
「誰かと一緒の任務か?」
「いや、単独任務だ」
「そうか……気をつけてな」
声色は少し明るくしたつもりだが、視線は手元の湯飲みに落としている。シカマルやヨシノのものとは違う、真新しい自分の湯飲みに。
テマリからのその問いに、シカマルの心臓は僅かに跳ねていた。テマリは何の疑いもなく、ただ誰と一緒に任務するのか聞いているだけのことなのに。変に誰かと一緒だと言うと、その間里で名前を挙げた人とすれ違ったりでもしたらこの嘘がバレてしまう。チョウジかサクラなら咄嗟に何か言い訳でもしてくれるだろうが、今は下手に誰かの名前を出すよりは、単独任務だと言っておいた方が無難なところであろう。これ以上余計なことを言ってしまわないように、シカマルは先に寝ることにした。
「わり。疲れたから先寝るわ」
「あ…ああ、おやすみ……」
また、か。
テマリは肩を落とした。また自分は置いてきぼりか、と。
テマリが寝室に入る頃には、既にシカマルは背を向けて小さな寝息をたてている。いつものこと。いつもの風景。期待なんてしていない。こんなこと、もう慣れた。何度も何度も、そう自分に言い聞かせてきたつもりだ。
それでもやはり少しだけ、目の奥が熱くなる。けれどここで涙を流したら、まるで自分は不幸せだと言っているようなものだ。これ以上惨めな思いはしたくない。だから涙が出てこないうちに眠りにつこう。暗闇の中でそう思うテマリであった。
*****
翌週、シカマルは任務服に着替え、持ち物も最小限にして、怪しまれないように家を出る準備をした。
「気を付けてな」
「ああ」
「いってらっしゃい」
「そんじゃ、いってきます」
テマリとヨシノに見送られて玄関を出る。開けた扉の先の眩しさに目を細める。いつもより朝陽が明るく感じた。
今までで一番長い期間の任務は二週間くらいだったか。それに比べたら短い方だ。忍である以上、任務で長期間家を空けることなんて日常茶飯事でもあるのだから、疑われることもない。まさかこれが旅行しているなんて思いもよらないだろう。自分が忍であることを、少し有り難くも思ってしまう。
後ろめたい気持ちは勿論ある。シカマルだって人の心を持っている。テマリは悪くない。この政略結婚のせい。今までだって何度もそうやって言い訳を並べてきた。申し訳ないという気持ちだってある。でもそれ以上に、いののことを愛している自分がどうしようもなく止められなくて。
鼻先を擽る季節になった。庭先の柔らかな風が頬を掠める。新しい命が芽吹き、どこもかしこも鮮やかな花の彩りにあふれる季節。その花たちの中で嬉しそうに笑う いのの姿を、シカマルは思い浮かべていた。つい緩みそうになる口元を引き締める。
家を出るまでが気を張っていなければいけないというわけではない。この先、たとえ里の外に出たとしてもどこで誰に見られているかわからない。いつだって最大限の注意を払わなければならないのだ。楽しい旅行のはずが、どこかでそう気を張っていなくてはならないのが悔しい。それでも、愛する人と一緒にいられるのであれば。俯き下唇を噛む。ふと視界に入ってきた首から下げている指輪。それを外してポケットの奥に乱暴に突っ込んだ。
待ち合わせ場所に着くともう既にいのは着いていた。新しく芽吹くための準備をしている欅に寄りかかり、どこか不安げな顔をしながら地面に視線を落としている。
旅行しようと言い出したことを、いのは本当は後悔しているんじゃないかと、シカマルは思った。おはようと声をかけるとすぐに顔を上げ笑顔になってはいたが。
「おはよ、シカマル。大丈夫だった…?」
「何が」
「えっ…と、その、テマリさん…」
「…ああ、たぶん大丈夫だ。気付かれてない。」
その言葉を聞くと いのは安堵の表情を浮かべた。それが心配で、先刻は曇った顔つきをしていたのか。
「前にも長期任務あったしな。しかも二週間も。今回は単独だってことにしてるし、極秘任務って言えば詮索されねーし、忍ってこういうとき有り難いな」
少し冗談めかして言ってみせたが、いつにも増して饒舌なのは、かえって いのを心配させただろうか。顔色を伺ってみると、そっか、そうだよね、と いのは力なく笑みを溢していた。
里を離れてからも油断できない。いつどこで誰に見られているかわからないから。神経を研ぎ澄ませるように細心の注意を払う。少し前の自分達からしたら想像もできない。そんな変えようもない現実(いま)に、悔しさが滲む。
自然に手を繋いでいたあの頃が愛おしい。目が合えば、微笑んで。何となく、考えていることもわかって。二人の間を流れる空気がとても居心地良かった。
今こうして いのは自分の隣にいるのに。こんなに近くにいるというのに。手の温もりすら感じられないなんて。固く握られた拳の中で、爪の跡が痛かった。
*****
草隠れの里を抜け、そろそろ土の国に差し掛かるところだった。
第四次忍界大戦の時に他里の人間と関わることが多かったため、気付かないところで自分達のことを知っている人間に出会う確率は、木の葉隠れの里から離れたからといって低くなったわけではない。微妙な距離感を保ちながら、人が集まりそうな場所をできる限り避ける。
湯隠れの里に美肌効果のある有名な温泉があると知っていた いのはそこに行きたいと提案したが、火の国に近いこともあって、二人で話し合った結果やめることにした。
土の国を越えた山合いの深くに秘湯があるとどこかで噂を耳にしたことがあったシカマルは、そこにしてみないかと いのに提案する。確かな情報もない場所へ向かうのは思いきってしまったか。シカマルは少し不安になったが、なければないでいいじゃない、と笑顔になる いのを見て胸を撫で下ろした。
「わたしはね、あんたと一緒に居られればそれでいいの!もし温泉がなかったとしても、野宿だって何だってするわ。シカマルがいるなら何だって、いい」
「いの……」
胸が締め付けられる。今すぐにでも いのを抱き締めたい衝動にかられるが、ぐっと堪えた。
この辺りは雨隠れの里や滝隠れの里に挟まれた地形のためか、湿った空気がどこからか吹いてくる。肌に張り付くようなその感覚に、どうもなれない。ただの湿った空気なはずなのに、不穏な空気にすら感じる。
しかし土の国に近付くほど、湿った空気は徐々に薄れていく。誰かと遭遇してしまうのを避けたいのもあるが、早いところこの不穏な空気から逃れたかったのもあり、二人は足を早めた。
低い空の雲に風が吹き濃紺と重なり絵を描く。雲間から僅かに覗くのは一番星。
「あ、」
いのがふと足を止める。どうやら一番星に願い事をしているらしい。目を閉じ、胸に手を当てている。いのが一番星に何を願っているのか、シカマルは気になったが、聞かなかった。
自分とずっと一緒に居たい、そんな願いをしていてくれたらいいのに。誰かに見られませんように、とか、バレませんように、とか、そういった類いの願い事じゃなく。シカマルはそんなふうに思っていた。
「もうこんな時間か」
日が暮れるまで歩きっぱなしだったようだ。さすがに疲れが出ていた。
「今日中に秘湯に着くのは無理そうだな。今晩はこの辺りで一泊しとくか」
焦る必要はない。まだ旅行は始まったばかりだ。そうね、と微笑む いのの顔が、出てきたばかりの月明かりに照らされ、とても綺麗だった。
岩隠れの里からかなり離れた場所に民宿を見つけた。せいぜい三組くらいの客数しか泊まれないような小さな民宿だ。感じの良さそうな老夫婦だけで切り盛りしているらしい。幸いなことに宿泊客は自分達二人しかいないようだ。
部屋に案内され、宿の説明を受ける。
ささやかながら貸し切り温泉があることには驚いた。いのもとても気に入ったようだ。
予約も何もせず飛び込みで入ってしまったため、素泊まりになるだろうと夕食については半ば諦めていたのだが、自家製の野菜や近所で採れた山菜を使った料理がどうやらここの売りのようで、すぐに支度をすると女将はにこやかに言い、いそいそと部屋を出ていった。
「素敵な宿ね」
「ツイてたな」
「温泉もあるんですって!先に行っちゃおっかなー!歩き疲れてもう足がパンパンー」
上機嫌に温泉の準備をしている いのを、背後から抱き締めた。やっと、いのに触れられる。それだけでシカマルは幸せだった。
「ちょ…っと、シカマル……女将さん来ちゃう…」
「これから晩飯作るなら暫く来ないだろ」
「そうだけど…」
振り向く いのの顔は紅潮している。優しく口づけるとそれに応えるように目を閉じた。
「会いたかった」
「…ふふ、会ってたじゃない」
「そうじゃない」
「わかってるわよ」
二度目のキスは深く苦しいキスだった。息ができないくらい激しく。こんなに近くに、愛する人ががいる。会いたかった。触れたかった。もう誰にも、邪魔はされない。
*****
月が暗闇に飲み込まれるような、そんな夜だった。いつの間にか雲はなくなっていて、真っ黒なペンキを塗りたくったような夜空が、この場所が人里からだいぶ離れた所だということを物語っている。
山菜蕎麦や天ぷら、川魚等の料理を堪能した後の温泉は格別だった。温泉は小さな貸し切り風呂のため二人一緒に入れるのだが、いのは恥ずかしいから嫌だと言って聞かなかった。二人でゆっくり温泉に浸かりながらこの月を眺めたかったのにな、そんなふうにシカマルは思っていた。
温泉からあがって着替えをし、髪を軽く乾かす。髪を下ろしたまま部屋に戻る。部屋の窓を開けていたらしい。ドアを開けると廊下まで風が抜け、心地が良い。お先、と いのに言った。
「久々に見た…」
「あ?ああ、これか」
髪の毛を下ろしている姿。前はよく見ていたはずなのに。結婚してからは、当たり前だが見せるような機会がない。力なく笑い、そうだな、と返す。
「髪の毛下ろしてるシカマル、好き。」
「下ろしている時だけか?」
笑ってそう言うと、もう、違うわよバカ、と小突かれた。
「やっぱ温泉はいいな。ゆっくり月も見れるしよ」
いのと一緒に入りたかったがな、と意地悪っぽく付け足すと、いのは真っ赤になって、じゃあわたし行ってくる!と部屋を出ていった。
明日の天気はどうだろうか。ただでさえ情報もろくに知らずに来てしまったわけだから、天気が悪ければ秘湯を探すのもさらに難航するだろう。地域が違うため、慣れない番組がつけっぱなしのテレビに流れている。それをぼうっと見ながら天気予報を待った。
一日中移動しっぱなしで、さらに気張っていたこともあり、疲れが一気に押し寄せ、睡魔がシカマルを襲った。
夢を見ていた。
いのが、自分の目の前から去っていこうとする夢。いのの背中を追いかけるが、どんなに追いかけても追いつけない。すがるように何度も いのの名前を呼ぶが、いのは耳を傾けようともしない。目の奥が熱くなっていく。自分が今泣いていることに気付いた。
次第に足元が闇で覆われ、奈落と化する。そこに足を取られ落ちても、いのは見向きもせずにさらに去っていく。思い切り いのの名を呼んだ。
「―――…マル……シカマルってば!」
はっと目を醒ますと、眉間に皺を寄せた いのの顔が目の前にあった。テレビでは天気予報が終わりに差し掛かっている。いくらも寝ていなかったのだろうが、やけにリアルで嫌な夢だった。
「……い、の………?」
「もうシカマルったら、こんなところでうたた寝なんかして!風邪でもひいたらどうすんのよー!」
まだ心臓がどくどくと嫌な音を立てている。汗こそかいていないものの、背筋に風が抜けたかのように冷たい。
「……夢、か……」
「夢?」
「……嫌な夢だった」
「どんな?」
いのが、俺の目の前から去っていく夢。そう続けると、いのは一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みシカマルを優しく包み込むように抱き締めた。
「大丈夫よ。絶対いなくならないから」
耳元でそう囁かれた。そのまま首筋を流れていく熱い吐息。思わず抱き締め返す。
本当はすがって泣きたかった。それこそ夢の中の自分のように。だけど今、いのはここにいる。自分の腕の中にいる。それだけで充分なのに、これ以上何を求めるのか。どこにも行かないでくれという言葉を飲み込み、抱き締める腕の力を強めた。
これは夢の中なのか、現実なのか。現実ならば、このまま時間が止まればいい。今日が来てから、何度そう思ったことか。
いのと過ごす時間はあっという間だ。地球上の生物には平等に時間が与えられている、なんてよく言うけれど、今の自分達には他より確実に短い時間が与えられているのだと錯覚するほどだ。
久しぶりに触れられる いのの肌。浴衣の裾から覗くそれは、白くて滑らかで。熱を帯びているように身体が火照っているのは温泉のせいか、はたまた自分と肌を重ねる悦びを感じているからなのか。後者ならばいいのにと、シカマルはキスの雨を降らせた。
どんどん夜は更けてゆく。想いが重なる。そして二人の身体も、重なり合った。
--------------------
2017.01.14
Gleis36