「店を出て左に曲がって、真っ直ぐ行った右側、って言ってたよな」
 散歩のおともにもらったコーヒーを傾けながら、暖かな太陽の下を歩く。フェラーリの隣は、今はアルピーヌだ。もちろん、白熱したオーバーテイクなんてものはないし、クロスラインで順位を奪い合うこともなく、2人はサイドバイサイドのまま、ただ穏やかに歩いている。
「ねえ、フランスの伝統的なブーケって、どんな感じなの?」
「シャンペトルブーケって呼ばれるものだ。野に咲く花や葉っぱを摘んで、そのまま束ねたような感じの花束。小さい頃に作っただろう」
 彼は「このぐらいの大きさになるぞ」と、手で指し示してくれた。軽く抱えるほどの大きさらしいそのブーケは、柔らかな雰囲気の草花を使い、ふんわりとまとめたもの。ハーブや紅葉した葉や実、ホオズキを使ったものなど、まとめる草花に制限はなく、気負いしないラフな花束だと、なんだか嬉しそうに説明してくれる。
「楽しそうだね」
「だろ。メルセデスもボトルを落とすぐらいの花束を作ってやるよ」
 前に一度だけ、皆の前でセーフティカーがメルセデスの頬にキスをして、メルセデスは驚きのあまり手にしていたボトルを落としたことがあった。真ん丸になった彼の目を思い出して、フェラーリは思わず笑みをこぼした。それぐらい驚いてくれるだろうか。それぐらい、感動してくれるだろうか。
 綺麗な鈴の音が鳴るフラワーショップのドアを開けると、見覚えのある白髪と、オレンジの髪が見えた。先客のようだ。
「ハースとマクラーレンか。珍しい組み合わせだな」
「あれ? フェラーリとアルピーヌだ」
「こんにちは」
 どうやら、2人も誰かに花束を送りたいらしい。カウンターの奥で、落ち着いた雰囲気の女性店員が花をまとめている。
「ごめんなさいね、もう少し待っててください」
「ぼくたちはぼくたちでまとめるよ。だから、ゆっくり作ってあげて」
 束が2つあるということは、それぞれ別の相手に渡すつもりだろうか。ハースの渡す相手はうっすら分かる。だが、マクラーレンは? いつも貰う側の彼は、いったい誰に向けての花束だろう。気になったものの、それを聞くのはあまりにも野暮だ。
「マクは誰に渡すんだ。またファンの女のコか?」
「ヒミツ」
「なんだよ。じゃあハースは? ウィルに渡すのか」
「うん! 可愛いの作ってもらうの」
「どの花を選んだんだ?」
 ……アルピーヌは、そういう野暮ったいことを平気でする。心にスッと入り込んでくるのに、どこか不愉快ではなくて。もちろん仲間だからというのもあるだろうが、それを踏まえても、人を警戒させない話術とでもいうのだろうか、それが心地いいとさえ思う。
「フェラーリ、ちょっといいかな」
 アルピーヌとハースが盛り上がっているところを、マクラーレンに手招きされる。
「そのマント、メルセデスのだよね」
「うん。預かってるの。なれそめを聞くかい?」
 即座に首を横に振られて少し落ち込んだが、「それよりも」と両手を握られ、肩が跳ねる。
「あのね、ここ、2階がカフェなんだ。そこに今、ウィルがいるの。1人で紅茶を飲んでると思うんだけど、少し足止めしてほしいんだ」
 どうやら、ウイリアムズがティータイムを楽しんでいる間に、花束を完成させてサプライズするつもりらしい。いかにも2人が考えそうなことだ。
「お願いしてもいい?」
 無意識なのか、わざとなのかは分からないが、マクラーレンは瞳を潤ませ上目使いでフェラーリを見つめる。そんなことしなくてもいいのに。仲間を無下に扱う者など、このF1の世界には誰1人としていない。
「もちろん。オレンジちゃんからのお願いならいつでも聞くよ」
 彼の表情がパッと明るくなり、「ありがとう」と素直な言葉で感謝される。真正面から感謝を述べられるのは、やはり心地のいいものだ。
 アルピーヌを2人のもとに置いたまま、フェラーリは階段を上がる。ふと、表彰台に上がるときに使う階段が脳裏をよぎり、記憶と今が繋がった。試合でも、試合以外でも、仲間と共に過ごした大切な思い出がたくさんある。そして、それはこれからも、階段をひとつひとつ上るように重ねていくのだろう。無意識のうちに、口角が上がっていた。
 木製のドアを引くと、紅茶の香りが空気の流れにのって鼻腔をくすぐる。ティーカップを磨いていたマスターは、こちらを一瞥し微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「彼が飲んでいるものと、同じものを2つ」
「かしこまりました」
 ウイリアムズは、窓際のカウンター席に座って、紅茶の最後の一口を堪能していた。無言のまま隣に座ると、彼はフェラーリの顔を確認することなく、「貴方の口に合わなかったらどうするの?」と優しい声で呟く。
「合わせるさ」
「まあ、キザな人」
「ロマンチストって言ってよ」
 ほどなくして、紅茶とミルクが2つずつ並べられる。冷めないうちに、とそのまま一口含むと、しっかりとした強いコクが一気になだれ込んできた。むせて咳き込んだりなどはしなかったが、ぎこちなくカップを置く。その様子を見ていたウイリアムズが、なんとも嬉しそうに口元をほころばせ、「はちみつを彼に」とマスターに注文する。
「この時期のアッサムティーは、セカンドフラッシュっていう夏摘みの茶葉でね、渋くはないけど、濃厚で力強いコクが特徴なの。だから、ミルクと甘味を足してあげることで、その強いコクを美味しく楽しめるようにするのよ」
 マスターからはちみつをもらい、ミルクと合わせてアッサムティーに混ぜる。あんなに強かったコクは丸みを帯びてマイルドになり、穏やかに楽しめるようになった。
「なるほど、勉強になるよ」
「イタリアはコーヒー、いえ、エスプレッソが主流だからね。紅茶の楽しみ方とはまた違うもの」
 楽しそうなニコニコ顔の彼は、「ドイツって言った方が良かったかしら」と、ミルクティーを口に運びながら聞いてくる。羽織っているのがメルセデスのマントだと気づいていたようだ。ソーサーにカップを戻すと、「似合っているわよ、ちょっと見慣れないけど」と目を細めた。
「メルシィからもらったの?」
「いや、預かっているだけだよ」
「そう。珍しいわね。あの子、自分のモノはあまり人に触らせたがらないのに。貴方のことをかなり信用しているみたい」
「そうだといいな」
「そうじゃなかったら、大切なマントを渡したりしないわよ」
 角砂糖をティースプーンにのせ、ミルクティーにそっと沈ませる。白い砂糖は、紅茶に触れた瞬間からすぐにその色を吸い込み、あっという間に同化して見えなくなる。くるり、とひと混ぜすると、仕事を終えたティースプーンをソーサーに戻す。その一連の動きに、なぜか見惚れていた。ひとつひとつの動作に、ウイリアムズの品性や知性というものが表れているような気がする。
「貴方と紅茶が飲めるなんて、光栄だわ」
「ぼくも嬉しいよ。ティーちゃんとゆっくり話してみたかったんだ」
「いつも話しているじゃない。コース上で」
 ライバルでしょ、と小さな声がこぼれた。全くまさしくその通りだ。全てのサーキット場は楽しい戦場でありながら、マシンとドライバーとチームが一番輝くドラマチックな舞台で、周回を重ねながら皆で対話をして、美しいレースを紡いでいく。
「レースは対話、か」
 その対話は物語を作り、人々を魅了し、虜にさせる。対話は記録され、それぞれの乗用車にフィードバックされる。そしてそこから生まれた技術は、モーターだけにとどまらず、枝分かれするように転換され、その先々で発達し、やがて世界という大きな樹を作り出す。世界最高峰のモータースポーツと呼ばれるゆえんがそこにある。
「F1と共に生きてきた貴方なら分かるでしょう。数多のチームと、ドライバーと、マシンと、私たちはずっと、命懸けで対話している」
 命懸け、という言葉に、思わず顔をしかめてしまった。自身も、自分以外も、衝撃的で残酷な別れを何度も何度も体験してきた。夢に見て真夜中に飛び起き、勝手に流れる涙を止められないまま、寝室を支配する暗闇と、"命"という言葉のあまりの重さに、押し潰されそうになる日もある。
「……そんな顔をしないで、ロマンチストさん。今は、私も貴方も命の危険には晒されてないわ。穏やかな午後の優雅なティータイムよ。さ、笑って」
「ありがとう、ティーちゃん……ウイリアムズ」
 フェラーリが笑顔を取り戻すと、ウイリアムズもまた、微笑みを投げ掛けてくれる。