三章 迷い路      35

 街道沿いにはたまに、ぽつんと宿があることがある。街道はたくさんの旅人が行き交う道であるから、安定した収入が得られるようだ。マコトとサヤカが、キアドへ向かう分かれ道の手前で休むことを決めたその宿は賑わっていた。
 「一室なら空いてるんですが」と、几帳面そうな青年にそう伝えられ、サヤカたちはアルトンでの部屋割りの言い争いを思い出していた。
「仕方ないよ。ふたりで泊まろう、マコト」
「……仮にも年頃の女性が言うことじゃないよ、それ」
「相棒だけ外で寝かせるわけにはいかないって。ちゃんと寝台はふたつあるんだから」
 いいでしょう、とサヤカは押し切った。
 シュカたちと別れた後、数日が経過していた。領主のいるような大きな町に立ち寄っていないから当たり前と言えば当たり前なのだが、冬が長引いている理由は未だ明かされないまま、雪の降ったりやんだりする道をふたりは進んでいる。たまに見つける宿屋でくらいきちんと体を休めてほしい──なんていうのは、サヤカにとっては当然の願いである。そう押し切ったサヤカを咎めながらも、マコトは渋々了承した。
 どうしてそんなに男女の違いを意識しているのか、サヤカはいまいちよくわかっていなかった。確かにマコトは中性的とはいえ顔が整っているし、触れればその手が男性らしいものだというのも分かるがしかし、逆がわからない。自分がマコトに意識される意味が分からないのだ。女性に対して全員そうであるなら納得がいくなあ、などとサヤカは考えていた。ただ、そんな思考は数時間後には消え去っているのだが。
 夕飯を済ませ、いざ寝るかとお互い寝台に横になった時のことだった。
 ──喧嘩になったのだ。
 原因は、確かにサヤカだった。時折見せる翳りの表情、それがなんだか気になっていたサヤカは、ことあるごとに考えていた。それが今、ふとひとつの道筋を立ててつながったから聞いてみただけ、それだけだったのだ。マコトの、過去についての質問だった。
「マコトって、騎士の話題になるとなんだか悲しそうだけど……なんかあったの?」
「え?」
「私が騎士見習いのことを聞いたときとか、ナツが騎士でしょ、っていったときとか……あれ、でもシュカのときは違ったかな」
「……いや、そんなことないよ」
「あっ、でもシュカの時も『魔法騎士』って話してたよね」
「そうだったっけ」
 マコトの、「深く聞かないでほしい」という抵抗は、自分の仮説に夢中になっているサヤカに汲み取られることはない。灯りの消えた暗闇の中表情も見えないせいで、サヤカは話すのをやめなかった。この時点で既に、部屋は重たい空気が占めていたというのに。
「そうだったよ。……騎士見習い、ってそんなに悩むことなの?」
 無垢な質問がマコトを刺した。
 生暖かい血が心臓からあふれて流れていくような、そんな錯覚に陥る。そこは、そこだけは今はだめなのだ。何人たりも触れてはいけない、ふさがっていない傷口。声を返すことはないマコトに対して、サヤカが続ける。
「気にすることないと思う。マコト、いつも私のこと守ってくれるし、ほんものの騎士みたいで──」
「サヤカにはわからないよ」
 思わず口から零れ落ちた言葉を、マコトは止めることができなかった。彼女はただ、自分を心配してくれているだけなのだとわかっている。サヤカがそういう人だというのは、十分に理解している。今すぐに口を閉じて、誤らなければいけないのに、子供じみた八つ当たりはのどをふるわせて、サヤカを突き刺す剣となっていくのだ。もし本当に彼女が自分の主であったならそんなこともできなかっただろうが、期間限定の相棒なんていう──中途半端な立ち位置であることが、寧ろマコトに拍車をかけた。サヤカが息をのむ気配がありありと伝わってきた。
「ずっと夢を見てきたのに、そのためにずっと生きてきたのに、何度も挫折して、そのたび起き上がってきたのに、」
「……マコ、」
「──二度とあなたは騎士になれません、だなんて突き付けられたその絶望感が、君にわかるの?」
 彼女はきっと言い返せないだろう。
「笑えばいいよ。……僕は騎士見習いなんかじゃないんだ。もう手元にはないその称号に縋ってただけ」
「笑うわけないよ!」
「騎士見習いにすらなりきれなかった僕の、」
「わかるから」
 まだそんなことを言えるのかと、マコトは驚いて眉をひそめた。マコトを苦しめている絶望感は、サヤカにわかるはずがない。そう続けようとしたマコトの脳裏にふと浮かんだのは、ナフェリアに怒鳴るサヤカの姿だった。ただ、口を突いて出るのは皮肉ばかりだった。サヤカのその純粋な疑問が刃になるのは、簡単に予測できていたくせに、頭に上る血は止められない。
「しつこいよ、わかるわけないだろ!」
「夢をかなえられなかった気持ちはわかんないよ! だけど、絶望はわかる!」
「は、」
 思わず暗闇の向こうにいるサヤカのほうを向いたマコトは、サヤカの視線と自分の視線が絡み合った気がした。一瞬の沈黙が、ふたりの頭を冷やしていく。
「……好奇心で聞いて、本当にごめんなさい。私なりに励ませたらいいなって思ってたんだけど、軽々しく聞いていいことじゃなかったね。今度こそ」
「…………僕こそ、ごめん」
 その夜のマコトにとって、それが精一杯の返答だった。ゆっくりと口を噤み、寝台に沈む。おやすみは言えなかった。サヤカはなかなか寝付けないようで、頻繁に寝返りをうっていた。