06

 低い唸り声がする。それも、一匹分ではなく合唱のように重なって、それは二人の耳に触れた。恐怖が勝ってしまってゆっくりとしか振り向けないサヤカと対照的に、マコトが即座に振り向いた。キイン、と金属が滑る音を立てて剣が抜かれた。
 ────狼の群れだ。
 振り向ききったサヤカの視界を、数匹の狼とマコトが埋めた。こんな隠れ場所も逃げ場所もほとんどない場所で狼の群れに会うなんて運の悪い。人間を襲った暁には食料が手に入るのがわかっているのか、狼たちは確実にサヤカたちを狙っていた。張り詰めた空気に思わず息を止める。
 じりじりと距離を詰められる。一歩ずつ引くふたりに、近づく狼という一触即発の状態に、サヤカは心臓がうるさくて、痛い。いつでも魔法を放てるようにこころの中で詠唱しつつ、マコトと一緒に後ずさりした。
 先に動いたのは狼だった。群れの頭と思われる狼が走り出すと同時、取り巻きの数匹もふたりに向かって猛然と走ってくる。くるりと身を翻したマコトが、サヤカの手を取って走り出した。素早い決断だったが、雪に足を取られ早くは走れない。
 掴まれた手が熱い。雪を蹴散らしながら、あまりにも長く感じる一瞬を走りぬける。どんどん近づいてくる足音におびえたのが伝わったのか、それとも逃げ切れないと判断したのか、マコトがサヤカの腕を離した。
「振り返らないでくださいね{emj_ip_0792}」
「えっ、あのっ!」
「全部片付けたら合流します、逃げてください{emj_ip_0792}」
 真剣な声色に一瞬逆らえず、そのま目の前の崖をよけるように走った。襟巻が風に揺れる。マコトの言葉が脳に届き意味を理解した瞬間、サヤカは振り向く。背中には崖、目の前には狼。マコトはまさに背水の陣である。
 サヤカとて、昨日出会ったばかりの人に守られっぱなしなど、御免だ。
 ちょうど、襲い掛かってきた狼はすべてマコトに引き付けられたようで、サヤカのほうを見ている狼はとりあえずいなかった。その状況をいいことにそのまま魔法を使う。さっきまで心の中で詠唱していたそれを再び丁寧に言い直し、地面から大量の蔓を生やした。
 サヤカは、マコトの周りにいる狼の足を取ろうと集中し、じいと狼の群れを見つめた。惜しみなく魔力を注がれた魔法の蔓が、ぐんぐんと狼を囲み、そして足をとられていく。間一髪でそれをよけた狼たちも、絡み合う蔓に進路を邪魔されたものは多いらしく、マコトはそれでもなお向かってくる狼だけ相手した。
 怒涛の出来事が一気に起こったな、とサヤカが息を吐いた。サヤカの蔓に巻き込まれている狼と、マコトが適度に仕留めた狼で群れはすべてのはずだ。この場から早く去れば、脅威はないだろう。マコトが慌てた顔でこちらへ走ってきているのも気が付かず、サヤカは気を抜いた。
 顔の真横を銀色が駆け抜けた。肉を貫いたような物騒な音が耳元で響き、サヤカは小さく悲鳴をあげた。マコトが即座にサヤカの目を塞ぎ、「見なくていい」と呟いた。荒げた息が熱くて、時が時なのにも関わらず胸がどきりと鳴る。すべてがこんがらがって息を止めたサヤカの手を、マコトが剣を鞘にしまったその手で取った。そして、走り出す。
「とりあえず、狼の視界の外まで離れましょう」
「はい」
 機械のように返事をして、サヤカは導かれるままに走った。息が切れる。少しすれば目隠しの手もはずれて、不安定だった走りが少しは安定した。
 サヤカのかけた魔法はいつ切れるか、まだ切れないとわかっているのにひやひやとしていた。マコトがどの道を行こうかと速度を保ったまま辺りを見回している。雑に取られた手を握り返せば、マコトが安心させるかのように握り返してきた。少し驚きながら、マコトと同じように周りを見渡した。木々の間をすり抜けて、崖沿いを走る。ふたりの左側を埋める、身長の三倍ほどのそれを降りられればなお安全なのだが。
「……っ、ここらへんまで、くれば」
 いいですかね、とマコトが足を止めた。小さく頷いて、サヤカもその場に立ち止まる。握られた左手がやけに意識されたが、サヤカはなんとなくそれを離せなかった。
 目を伏せ、肩で息をするふたり。マコトがひときわ大きくため息を吐いたとき、なんだか体がぐいと引っ張られた。サヤカも巻き込まれて滑りかけ、すんでのところでマコトが手を振り払う。
 雪が積もっていて気が付かなかったが、そこはなだらかな坂になっているようだった。もちろん続く先は崖で、頭を打ちでもすれば命が危ないくらいの高さで──
 サヤカは、わざわざ振り払われた手をもう一度掴んだ。重力に逆らえず、ふたりの体がぐいとがけ下に引っ張られる。マコトが納得いかないかのように顔をくしゃりとゆがめ、サヤカを自分に引き寄せる。それは一瞬の出来事だった。
 サヤカが眉を吊り上げて地面を睨んだ。同時に、呪文の大部分を省略した詠唱が行われる。雪があるから悪くても大怪我、死ぬことはないだろう、と思うマコトがきたる衝撃に備えて目をつぶると同時に、サヤカの魔力がいっぱいに放出された。
 大量の花が雪を縫って現れると同時、ふたりは勢い良くそれに沈んだ。
 サヤカは己の作り出した花と、昨日の吹雪で積もったばかりの新雪に左手をついた。ぴりっとした痛みが手首に走るも、落下速度に見合った衝撃が体中に走ったせいで一瞬頭がぐわんとまわる。まだ少し揺らいでいる視界の中、サヤカは花の中から顔を出して怒鳴った。