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 ナフェリアとサヤカへの質問攻めも落ち着いて、シュリが自分の荷物の整理と着替えも終わった後のことだった。隣の部屋の扉が開く音がして、一人分の足音が部屋の前を通り過ぎる。マコトかな、と直感で思った。
 下の階では、まだベルが起きているようだった。こつりこつりと響く足音はだんだんとゆっくりになっていって、途中で完全にぴたりと止む。サヤカはふと思い立って、扉を開けた。その音に気が付いて振り向いたのは、やっぱりマコトだった。
「サヤカ」
 その、驚いたような緊張しているような面持ちに、思わず部屋を滑り出る。マコトの声が聞こえたのか、サヤカを引き留める声はなかった。
「どうしたの」
「なんとなく……マコトがいるかなって思って。そっちこそどうしたの」
「……母さんに、いろいろ報告しなくちゃいけないからさ」
 そう言って、マコトが弱弱しく笑った。金色のひとみが、いつかの翳りを帯びて細められる。思わず手を伸ばしかけて、やめた。マコトはもう自分の意思で、自分と向き合っている。サヤカが励まそうだとか、そういうのはもうきっといらない。
「そっか」
「うん。…………ねえ、サヤカ」
 ここで見送るのが最善だ、とサヤカは思った。前までのサヤカだったとしたら、一緒に行くだなんだと言っていたのかもしれないけれど、サヤカのほうからその言葉が紡がれることはない。期間限定の相棒、その終わり──それはもう訪れているのに、ずるい私はまだ言葉にしていない。その後ろめたさが、サヤカの中ではすごく大きかった。
「情けない話なんだけど。……一緒に来てくれないかな」
 無意識に左手を背に隠していたサヤカが、我に返ってマコトを見つめ返した。
「サヤカがいたほうが、安心するから。……いや、ほんとに情けないね、これ」
「……私がいたほうがいいの?」
「うん」
 自嘲気味に視線を外し苦く笑うマコトに、サヤカはぱちくりと瞬いた。その沈黙を悪いほうに取ったのか、マコトが言い訳のように両手を振る。
「……いや、忘れて。ごめんね、もう眠くなるような時間なのに」
「あっ……違うの。いいよ、行こう」
 頼られた。
 その事実がなんだか胸をあたたかく染め上げて、ぼうっとしてしまっただけなのだ。サヤカのその返事に、マコトは心底安心したように相好を崩した。とても緊張していたのだろう。階段の下ではいまだ、ベルの気配があちらこちらへと動いている様子だった。
 居間に顔を出したマコトとサヤカに、ベルがぱっと顔を明るくする。どうぞ座って、と促されて、サヤカのほうは少々委縮しながら卓についた。
「明日の朝はどうしようかしら、料理のほうはいいんだけど席がないのよね」
「あ、みんなでどこか食べに行くから……母さんはいいよ、突然帰ってきたのは僕らだし」
「あ、そうなの? じゃあそうさせてもらおうかしら。明日は忙しくなるしね」
「うん、シュリさんとシュカの件も……ありがとう」
「ミコトの大切な人……それも恋人さんとあれば、助けないわけがないでしょう。家族は大切よ、明日の夜にでも来てくれるよう頼むつもり」
「なんか、冬が長引いてるし不自然に鐘もなったし──城が忙しくないといいけど」
 マコトとベルの会話が、そこで一段落した。サヤカは先ほどナフェリアとした会話の、魔導士たちは忙しいという部分を思い出す。少しくらい仕事を抜けてきてくれるといいなと思った。家族のためならそれくらいしてくれるのではないか、という希望も勿論あったのだけれど。
 サヤカとマコトの前に、何やらせわしく動いていたベルが温めてくれたらしいホットミルクがことりと置かれた。
「あっ……ありがとうございます、こんな」
「そんなに委縮しなくてもいいのよ、サヤカさん。ミコトたちが下に来た時にあっためたものだから、少し冷めてるかもしれないけど、ごめんなさいね」
「いえ、そんな……あったかいです。いただきます」
 見れば、部屋の隅にあった暖炉の上には小さな鍋が置いてあった。さっきから水の音がしていたのはこのカップを洗っていたらしい。いびつな陶器からは、ミルクの暖かさがにじんでいた。
 マコトとサヤカの座る四人掛けのテーブルの向かいに、ベルはすっと椅子をひいて座った。ベルが何かを見透かしたような目で見つめる。気まずい沈黙が机の上を漂った。やがて、マコトが観念したように呟く。
「聞いてると思うんだけど」
「うん」
「……騎士見習いの称号を剥奪されました。理由は、暴君だったとはいえ、いちどこれと決めた主君を守れなかったから」
「ええ、聞いてるわよ」
「……だから、帰ってきました」
 ホットミルクにも手を付けず、マコトは母親を見てゆっくりと話していた。テーブルの下で微かに震える手が、緊張をあらわしている。そんなに怖い母親なのだろうか、とサヤカは能天気なことを思った。
「あとで父さんにも、言います」
「ええ」
「…………」
 ただ笑って頷くだけのベルに、マコトは視線を逸らす。これ以上何を言えというのだろうか。知らせからまっすぐに帰ってこなかったことに怒っているのか、そもそも父親に紹介された先から追い出されてきたなど不名誉なこと過ぎて、もはや見放されているのか──不安ばかりが頭をよぎる。堪えきれずに俯いたときに、右手の指先にサヤカの手が触れた。
 サヤカのほうをちらりと見れば、少し微笑んでマコトを見ていた。やがてその細い指先は、ぎゅうとマコトの手を握る。
 これでは本当に情けないな、とマコトは思った。サヤカが格好良すぎるだけなのかもしれないけれど、自分はサヤカの隣でいつだって、背中を押されてばかりだ。僕だって、サヤカを支えて、背中を押してあげたいのに。絡み合う指の熱に、ゆっくりと深呼吸した。
「……ずっと応援してもらってたのに、夢をかなえられなくてごめんなさい」
 泣きそうに震えた声だった。それでもきゅっと唇を噛んで、母親に向かってぺこりと礼をする。サヤカも、じっとベルを見つめていた。