六章 それぞれの春の日     79

 訳が分からない、という言葉がいちばんしっくりくるのだと思う。ナツ以外の人の時間がぴたりと止まったように思えるくらい、部屋は静まり返っていた。暖炉の炎がはじける音が耳元で聞こえたように感じるくらいだった。しんしんと降る雪の音が聞こえるくらいの静けさだった。
「……いや、嘘だろ。ナツのいつもの冗談だって。なにみんな本気になってんだよ」
「いや、待ってくれ」
 エンクスが、笑い飛ばそうとへらりとしたミコトを押しとどめる。その真剣な瞳に気おされて、ミコトが押し黙る。彼さえ黙ってしまえば、この空間は既に静けさにに支配されている。
「最近、魔法騎士の中でも貴族の地位がつくもの……とても高位の人たちが集まって、ダダチのあたりで誰かを捜索するらしいという話が出ていた。フィーザどのたち魔導士にもそういう話のひとつやふたつ、ないか?」
「いえ、私たちは……」
 否定しかけたグリディアを、ヴァールが手で押しとどめる。
「魔導士のほうに、そういった動きはありません。……ですが、最近なにやら秘密裏に来客がありました」
「来客……そうだ、ありましたね。でもあれは確か、十数年前に城を出ていかれた側近が挨拶に戻ってきただけだと……関係ないのでは?」
「ああ、クト・ソーラどのと、その奥さんだったっけか」
 エンクスの声に、サヤカがびくりと肩を揺らす。マコトが心配そうにサヤカを見つめたことで、視線は再びサヤカに集中した。
 やっとの思いで、喉から言葉を捻り出す。
「サヤカ…………サヤカ・ソーラって言います。──私の名前」
 それは、ここにいる誰もが聞いたことのない文言だった。名字に当たる部分を、サヤカはあえて一度たりとも名乗ってこなかったのだ。
「家族と血が繋がってないって知って……私が名乗っていいのかって迷って、ずっとサヤカって名乗ってきてて」
 それに、と震えた声で続ける。
「ダダチ……私が、母親に宛てた手紙で、行った場所として最後に書いたところです」
 傍証ばかりが集まっていく。エンクスたちの沈黙が答えだった。そんなわけない、人違いだと叫びたくてたまらなかった。確かに、家族と血が繋がっていないことを気にしてはいたけれど、血が繋がっている自分の本当の家族と会いたいなどと思ったことはなかったのだ。きっと自分を捨てた、そう思っていたからだったのももちろんあるのだけれど、本当の家族に出会ってしまったら──もう、今の家族と、『家族』には二度と戻れない。
 サヤカは今の家族が好きだったのだ。現実を受け止めきれなくて、勝手に逃げ出しただけで。
 ふるふると小刻みに首を振ったサヤカに、マコトが落ち着かせるように名前を呼ぶ。サヤカは震える手で自分の首から首飾りを外すと、ナツに差し出した。
 受け取るのを一瞬躊躇った様子のナツの手に、サヤカは無理やりそれを押し付ける。肌身離さず持っているようにと言われていたそれは、自分の生い立ちを示すものであり、国に必要不可欠な鍵。そんなものを持っているのが耐えられなかった。サヤカにとってそれは、『そんなもの』でしかなかった。
 ナツが宝石を握ったのを見るとすぐさま、マコトの手さえ振り払ってサヤカは家を飛び出した。
 一瞬放心していたマコトが、我に返ってすぐにサヤカを追って飛び出した。ヴァールがナツに、心配そうに言う。
「あの、このまま彼女が逃げたらどうするんです。追いかけなくていいんですか」
「……それならそれで、いいと思うんだけどねえ。ここからはサヤカが決めることだ」
 ナツが、遠い目をしてそんな風に言う。自分の手の中に収まった鍵である宝石を見つめると、悔しそうに握りしめる。そんな能天気にも見えるナツの行動に、ヴァールは不安そうに立ち上がった。どうやら、追いかけるつもりらしい。
「あの子はあの子なりに考えてたのに、あたしがお国のためだって名目のもとに引っ掻き回したんだよ。逃げる自由くらい与えてやりたいもんだね」
 扉へ行こうとするヴァールを遮ったのは、彼を追い抜いて行ったシュリだった。
「……っ、これ以上サヤカちゃんを追い詰めないであげて、お父さん」
「シュリ、」
「サヤカちゃんは本当に必要なの? その鍵さえあればいいんじゃないの? わたし、細かいことは分からないけど、サヤカちゃんは自分がお姫さまだからって喜んでるようには見えなかった」
「……鍵さえあれば、とりあえず扉は開くわ、ヴァール。落ち着いて」
「……そうだね」
 重く冷たく静まり返ったその部屋で、ナツがシュカに歩み寄る。途中、グリディアにサヤカの持っていた鍵を渡すと、自分の上着のポケットを探った。
 やがてナツの手には、朝餉のときにシュカから渡された腕輪が現れる。ぐいと手を伸ばして、寂し気な笑みでナツは続けた。
「だから言ったろ。あたしがこれを持つ資格はないんだよ」
「……そんなこと」
「自分の身分を偽っていたうえに、家族のことで悩んでるって知っていたサヤカの心を引っ掻き回した。仲間なんて呼ぶにはあまりにもひどいだろう?」
 サヤカがナツにそうしたように、ナツはシュカに腕飾りを押し付ける。シュカは何とも言えない、泣き出しそうな悔しそうな顔で、どうしようもなくそれを受け取っていた。