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「驚きましたよ、ナツどの」
「すみません、そもそも寝ている時間だってことを忘れていまして」
「いえ、有難いのですが……王女様もここに来たということは、季節の切り替えがようやく行われるということで宜しいですか?」
「はい。春の守り人の後任……というか、正規の後任も見つかりましたので」
 居住区は、塔の内部や外に比べるととても暖かかった。暖炉の前に座っているのはもちろんメイクラシアで、冬の守り人である男性と話しているのはナツだった。シュカとナツ以外は、メイクラシアより少し離れたところで暖をとっている。
「ああ、それは良かった。じゃあ、メイクラシア様が動けるようになったらすぐに上層部へ向かいましょう」
 ナツがこくりと頷く。その言葉に、メイクラシアがぱっと振り向いた。
「わたし、もう大丈夫です。行きましょう」
「あたしが寒いから、もう少し休ませてくれるとありがたいねえ」
 青い顔をしてそう言ったメイクラシアを止めようとしたサヤカより、ナツのほうが一枚上手だった。暖炉のそばに座り込んだナツは、メイクラシアが本当に平気になるまで待つつもりなのだろう。ユーキと呼ばれた冬の守り人も、その意見には異論はないようだった。
 彼は時折心配そうに上を見上げながら、居住区の片づけをしているようだった。もともと荷物はそれなりに纏められている様子だったが、それをいよいよ鞄に詰めようとするユーキに、誰も声をかけることはなかった。
「ねえナツ、儀式って何するの?」
「歌を歌うんだよ。それで精霊を眠りにつかせたり、起こしたりするんだ。その歌を歌うのが王族の役目、そして儀式においては、鐘を鳴らすのが守り人の役目」
「じゃあ、夏のはじまりに鳴る鐘はナフェリアさんが打っていたんですね」
「そうだねえ。数年前からもうずっとだ」
 言いながら、ぱちぱちと鳴り響く暖炉に目を落とすナツ。シュリが心配そうに、シュカに問いかけた。
「シュカ、ほんとに平気? 今日儀式を終えたら、春が終わるまでここから出られないんだよ?」
「うん、平気。今年の春はもうだいぶ終わってるし、期間は短いんでしょ。はじめて守り人をやるなら丁度いいよ」
 シュカのもつ荷物が人より少し多かったのは、それが原因だった。随分重かったと思うそれを、今は居住区の主となる部屋であるここに置かせてもらっている。サヤカは少し心配していたが、思い返せば彼はずっと小屋で一人、暮らしていたのだ。大切な家族である姉の生死も、何もわからないまま暮らすよりかは、こっちのほうがましだろうと、身勝手に思う。何よりも、明るい口調で話すシュカを信じたいと、そう思った。
 半時間も経たない間に、メイクラシアがもう大丈夫ですと言いたげに頷いた。ナツがメイクラシアの顔色を見て、妥協したように立ち上がる。
「……それじゃあ、ユーキどの。行きましょうか」
「ええ、わかりました。あとですべての事情をお聞かせ願えれば、と思います。とりあえず今は、冬の精を止めないといけないので」
「勿論です」
 王女と守り人以外がいないはずのこの空間に、八人もの人間が存在するということは、本来ありえないことである。この半時間、それについても、春の遅れについても言及してこなかったユーキは聡明な男性なのだろう。襟巻を返そうとしてくるメイクラシアを押しとどめながら、サヤカはそんなことを思っていた。

 大きな回廊を少し進むと、シュカだけがユーキに呼び止められた。ナツたちはここで待っているように言われる。奥まった部屋へと向かうユーキとシュカに、シュリが不安そうな目を向けていた。
「あそこの先は、精霊たちが寝ている場所だよ。春の精を迎えに行ったんだ」
 それを聞いて安心したように息をついたシュリに、ミコトがそっと寄り添っていた。その様子を見つめていたサヤカも同様に息をつく。そんな様子を見て、ナツが笑ってみせた。
「なんでサヤカが緊張してるんだい」
「いや、ええっと……」
 塔に入ってから、サヤカの口数はめっきりと減っていた。寒さや疲れ、眠気かと思いきやそうでもなさそうだ。
「メイ様の言う、春が来る景色っていうのがどんなのかなって。ずっと考えてたの。いろんなことを考えてるうちに、なんで今こんなに冬景色が広がってるのかなって思って……」
「ああ、四季の変わり目のことかい?」
「うん。それになんだか、ユーキ……さん? も、心配そうな顔だったから。冬の精に何かあったのかなって思って」
 その言葉に、ミコトとメイクラシアが頷いた。
「一度考えはじめちゃうと、いろいろ別のことも考えちゃってさ。そもそも、ここに私はいていいのか、とか」
「サヤカは何の問題もないよ。居て不味いのは僕たちのほうだよ」
「それが心配なんだって……」
「わたしが呼んだのですから、お姉さまがたが何か咎められることはありませんよ」
 メイクラシアがそう言ったときに、向こうがわの扉がぎいと音を立てて開いた。シュリが抱えて出てきたのは、ちいさなマントに包まれた、赤ん坊のようなもの。あれが、精霊なのだろうか。
 サヤカの話は、中途半端に中断された。もちろん口数が少ないのにはさっきまでに述べた理由があったけれど、一番は違ったのだ。結局一周回って、サヤカの心を占めるのはマコトのこと。塔に入ってからやけにサヤカを気にしている彼は、どうして自分を見ているのだろうと疑問に思ったのだ。
 旅の相棒だから? それとも、一緒にいてくれと懇願したから?
 家族のことも、自分のこれからについても確かに不安だった。ただ、サヤカは未だ自分の気持ちが分からなかったのだ。マコトとの関係と、マコトの行動に、すべて意味をつけたがる自分に。
 春の精霊を抱えたまま走ってくるシュカを見つめながら、サヤカはそんなことを考えていた。