アルカディア四話没

 その日は朝から、雨が降っていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう……つっても昼前だけどさ。よく寝れたか?」
「はい、おかげさまで」
 シュヴァルツとトウトの二人が既に卓についていた。シュヴァルツは、何やらナイフを片手に作業しているようであり、トウトがそれの手伝いをしているように見える。木を彫っている様子だ。がり、がり、と細かくナイフが動き、そのたびに木のくずが机に散っていった。
「おはようございます、シュヴァルツさん」
「……おはよう。シュヴァルツでいい」
「では、シュヴァルツと」
「敬語もいらない。俺にも、トウトにも」
 手元にある木から目を離すことなく、シュヴァルツはそう言った。ぱち、と目を見開いたのは少女とトウトの二人で、シュヴァルツはなんでもない顔をして手を動かしている。
 彼なりの歩み寄りだろうか。
 記憶喪失ともなれば、コハクという人物の昔の人格と今の自分には乖離があるかもしれない。受け入れられないのももっともな話だ。それでも、自分を家族として認めようとしてくれているのかもしれない。ただ家族に敬語を使われるのが違和として心に引っかかるだけかもしれないけれど、微かな可能性だとしても、そう思うと胸が暖かくて嬉しかった。
「分かったわ、シュヴァルツ。トウトもそれでいい?」
 さあさあと雨の音が屋根を叩いている。薄く微笑んだ少女に、今度目を見開くのはシュヴァルツのほうだった。トウトはすでに吃驚眼になっていたものの、少女の反応に皿に目を見開く。
「コハ、」
「コハクじゃない」
「……シュヴァルツ、昨日からどうしたんだよ」
 思わずと言った体で零れたトウトの声を、シュヴァルツが遮っていた。受け入れられないなりに歩み寄ろうとしてくれたならばなおさら嬉しいと少女は思った。多少上機嫌に、シュヴァルツに問いかける。
「コハクじゃないなら、私は誰なのかしら」
「…………さあ。雨降ってるし、レインとか」
「シュヴァルツ!」
 適当な返答に、咎める声音をあげたのはトウトだった。しかし、少女はトウトのように怒るどころか笑ってみせる。トウトを片手で制して、シュヴァルツに微笑みかけた。
 少女は、出会って一晩しかたっていないけれど、ふたりのことが好きだった。家族だといって、寄る辺のない自分を拾ってくれたからかもしれないし、トウトの言うように家族だからかもしれない。体が覚えているのかもしれない。彼らに──彼に認められるなら名前くらい、関係ないとさえ思ったのだ。
 実際、コハクと呼ばれても反応できる自信はない。記憶がないのだから当たり前のことだが、馴染みがないのだ。加えて二人の反応を見るに、コハクと今の自分には大分の乖離があるらしい。出会い頭に抱擁をくれるようなシュヴァルツが、自分を受け入れない程度には。
「レイン、……レイン。いい名前ね。暫く借りようかしら。レインとしてならお話ししてくれる? シュヴァルツ」
「…………別に」
 コハクとして認められないなら、シュヴァルツが自分を家族として認められないなら、それならそれでも構わない。少女を排除しようとしているわけではなく、コハクでない少女を認められないだけの様子だから──きっと、すべてを思い出したらまた家族として接してくれるだろうから。
 そんな穏やかな確信がどこかにあったから。
 少女──レインは、どこか不満げな顔をしているトウトに向き直る。
「私はレイン。よろしくね」
「……コハクじゃなくていいのか?」
「どんな名前でも馴染みはないし、コハクでもレインでも私のことを指すなら同じだわ。それならシュヴァルツが呼びやすいほうがいいと思って。トウトは私のことをレインと呼ぶのは嫌?」
「まあ違和感はあるけどさ。シュヴァルツがそうしたいならそれで全然構わねえよ」
「それじゃあ、私はレイン。宜しくね」