10

 ざあざあと屋根にたたきつける水滴が鳴らす無遠慮な音と、湿った森の香りに、なぜだか目が覚めた。あてがわれた部屋の寝台の寝心地は体によく馴染み、深い眠りへと誘ってくれるものだったけれど、なぜか。
 ふわとあくびをひとつしてから、まだ日が昇るには遠い夜の中で起き上がった。伸びをしてから再び眠るつもりだったのだが、何やら居間では炎が揺れている様子だった。その光につられて、音を立てないように居間まで歩く。靴を履くのを忘れたせいで、冷えた木の感触が直接足の裏に沁みた。
 ゆっくりと光源へと向かう少女にも、炎を灯したその人はすぐに気が付いた。昼間は結んでいた薄茶の髪を降ろしたトウトは、なにやら本を読んでいたらしい。行儀悪く椅子に立てた膝の上に本を置いたまま、少女に向かって手を振った。
 まだ眠気の残る頭でぼんやりとトウトを見る少女を見てか、トウトは自分の隣の椅子をひく。少女は慣れた様子でそこへと腰を下ろした。それを見届けて、トウトは小さく笑って問いかけた。
「寝付けなかったか? 」
「起きたのよ。ふいに」
「悪夢でも見たか」
 もう大丈夫だからな、と自分より大きくて節ばった手が頭を撫でる。炎に照らされた髪が乱れてしまっているが、どこか心地よくてその手に頭を預けていた。
「快適な眠りだったわ。本当にふと目が覚めただけ。心配かけたわね」
「そうか? それならよかった」
「貴方こそ眠れないの?」
「そんなとこだ」
「そう」
 聞くだけ聞いたけれど、少女には何もできない。肌寒さに寝付けないのか、それとも昼間のように何事かを思い出して寝付けないのか。なんにせよ、少女にできることはない。ぱらり、とめくられる頁の音を聞きながら、少女は船を漕いでいた。
「……眠いか?」
「……そうね」
「寝るなら寝台に行けよ? 頭打つぞ」
「ええ」
 言いつつ、トウトは片手で頭を撫でるのをやめなかった。どこまでも優しいそのぬくもりに身を預けるようにしてすり寄れば、トウトは驚いたようにこちらを見たのちに笑う。
「懐かしいな。お前がこうやって甘えてくれるの……小さなころは俺たちに引っ付いて回る泣き虫だったくせに、少し成長したら直ぐに強がりを覚えちまったからさ、お前」
「あら、そうだったの。……なんだかこうされるのは心地がいいのよ」
「これくらいいくらでもしてやるよ」
「それは嬉しいわ」
 少女はそう言って、トウトの腕に体重を預けた。妹扱いというやつだろうか、記憶のない今となっては、その無条件のぬくもりが何にも代えがたく有難い。
 炎の橙が、トウトの髪を照らしていた。光に透けるふわふわとしたそれの見覚えを頭で探り、どこにもないことを確かめる。本当に、すっぽりと記憶がなくなってしまったのだな、と思った。ゆらゆらと揺れる炎と紙の擦れる音が、少女を眠りへと誘っていた。
 暫くの沈黙が下りた。
 うとうとと船を漕いでいる少女に、トウトが問いかける。
「……お前は、シュヴァルツにレインって呼ばれていいのか?」
「……なぜ? もちろん構わないわ。……少しでも、家族と歩み寄れるのなら、なによりよ」
「コハクって呼ばれなくてもいいのか? こうやって撫でてもらわなくても?」
「……シュヴァルツはそういう手合いじゃないでしょう。兄というより友人と呼ぶほうが近いように感じるわ」
「……そうだな」
 お前がいいならいいんだ、とトウトは言う。
「何か、問題があるのかしら。トウトも呼びたいように呼んでいいのよ、コハクでも、レインでも」
「シュヴァルツとお前が納得してるならそれでいい。レインって呼ぶよ」
「優しいのね、譲歩してくれるの?」
「俺は、シュヴァルツとお前がいいならいいんだ。本当に」
「随分と献身的なのね。貴方とシュヴァルツの不仲を疑って悪かったわ」
「不仲なわけねえだろ、一番の親友で家族だよ」
 龍の紋章が表紙に刻まれている本だった。本の中身をちらりと覗いても、少女にはほとんど読める文字がない。読み込まれているらしく古ぼけた本の頁は、トウトの手によって一頁づつゆっくりとめくられていく。
 トウトは、少女のほうへ首だけ動かしてから、愛おしそうに微笑んだ。少女の髪をより一層ぐしゃりと乱して撫でながら続けた。
「勿論お前もだよ、レイン」
「……あら、光栄……」
 その先の言葉は出てこなかった。少女がトウトに体重をかけていたせいで、ふたりの距離はとても近い。真っ白な歯を見せながら、眉尻を下げて笑ってみせる彼の笑顔に、なぜだか胸が高鳴った。頬に熱が集まるのが実感できる。自分の髪を*き乱すトウトの手がやけに意識され、鼓動が早まる。眠気など、どこかへ飛んで行ってしまったような錯覚に襲われた。
「不安にさせて悪かった。俺もシュヴァルツも仲悪くなんてないよ」
「…………そう」
「そう。俺もあんまり余裕なかった。コ……レインが一番大変で、シュヴァルツも同じくらい混乱してるのに、俺がしっかりできなくてごめんな」
「……十分しっかりしてたわ、お兄さま」
「うわ、歯がゆい。トウトでいいよ、レイン。……ゆっくり、思い出していこうな」
 曖昧な返事しかできないのを誤魔化しついでに微笑んで見せた少女のことを、トウトはゆっくりした手つきで解放した。どうやらお兄さまと呼称されるのは相応に恥ずかしいらしい。そっと距離が離れていって、ようやく少女の鼓動は落ち着く様子を見せた。トウトは机に置いてあった押し花の栞を本に挟むと、ゆっくりと立ち上がる。
「さ、寝よう。引き留めて悪かったな」
「……そうね、寝ましょう。話に付き合ってくれて嬉しかったわ」
 トウトは机の上にあった蝋燭を揺らして消した。途端に暗闇に包まれる部屋の中で、どうやら部屋に帰るべくか背を向けているようだ。少女も緩慢な動作で立ち上がると、椅子をもとの位置へと戻す。椅子の足と床が擦れた音が響いた。
「それじゃあおやすみ、レイン」
「おやすみなさい、トウト」
 脈打つ鼓動の速度は未だ少し早かった。少女はその正体がなにか分からないまま、ゆっくりと寝台にその身を横たえていた。
 今度は、雨音が少女を眠りへと誘っていた。