09

「北の町の正式名称はラ・ノーズだぞ」
 相変わらず無心に木を削っているらしいシュヴァルツは、トウトたちのほうを見もせずにそう言った。帰ってきた瞬間こそ少女のほうを一瞥しほっとした顔を見せたものの、それ以降は不愛想だった。トウトと少女が北の町について話し始めるまでは。
 急に会話に入ってきたがために何を言われているのか一瞬理解が追い付かなかった少女に対し、トウトは一泊置いてから手を叩く。
「そういやそうだったな」
「……そいつに嘘教えるなよ……」
「悪い悪い、忘れてた。ずっと北の町って呼んでたからさあ」
「……安直な名前ではなかったわけですか」
「そうなるな。みんな北の町って呼んでるからどうしてもそっちで覚えちまうんだよな」
「覚えやすいのは分かるけど」
 シュヴァルツはわざとらしくため息をつきながらそう答えた。どうやらトウトよりシュヴァルツのほうが記憶力が良いらしい。あまり饒舌に話すほうではないようだから、話す分の気力をそちらに割いているのだろうかなどと少女はぼんやり考えた。
「帰り道でトウトから聞いたのですが、魚のよく揚がるという西の町にも本名があるのですか? シュヴァルツさん」
 少女は、ふとシュヴァルツに問いかけた。少しでも歩み寄りたいという気持ちももちろんあったが、単純に気になっていたというのもある。
 シュヴァルツは少女のほうへ顔を上げると、一旦手を止めた。トウトがお湯を沸かすために暖炉の前に胡坐をかいている。ことことと心地いい音が鳴っていた。
「……ラ・ウェズ」
「ああ、みんなラが頭文字なのですね。どこか別のところの言語が由来なのかしら」
 端的に答えたシュヴァルツに、少女はそっと頬杖をついて考え事に耽り始める。少女がそうやって何事かを考えている様子を、トウトは微笑ましく見守っている様子だった。少女は、自分がどうやらそういったことを考えるのが好きらしいと自覚した。
 ぼんやりと窓の外を見ている少女への視線は、既に会話を終えたはずのシュヴァルツからも刺さっていた。微笑ましげというよりか、どちらかというなら鋭い視線だ。作業の虫であるように見えた彼が小さな彫刻刀を持ち上げないのに違和感を感じて、少女は改めてシュヴァルツに向き直った。
「なにかご用でしょうか」
「……いや」
 問いかければ、シュヴァルツは頭を擡げて俯いた。明らかに呼ぶような視線だったわりにあっさりと目を逸らされ、少女は首を傾げる。手元を見ている割に、彫刻刀を手に取る様子はない。
 トウトは、そんな二人の様子を見ても特に何かを言ってくる様子はなかった。今日の夕飯にスープを作るからと鍋を見ているのももちろんあるだろうが、彼にとってこの光景は特に違和感のあるものではないということだ。少女はそう判断した。彼が不愛想なのは昨日から変わりないのだ。
「……シュヴァルツさん?」
「…………それ」
 もう一度問いかけるように名前を呼べば、シュヴァルツは顔をあげないままに言葉を帰した。表情は、平生瞼にかかるか否か程の長さの前髪で隠れている。
「……トウトは呼び捨ての癖に、なんで俺は呼び捨てじゃないんだ」
「……呼び捨てでいいのなら、勿論そうしますけど……シュヴァルツは、それでいいのですか」
「……何が」
「貴方にとって、私はコハクではないのでしょう? 大切な人の形をとった別人に見えるなら、無理に家族として扱わなくとも」
「お前はコハクじゃないけど、家族じゃないとは言ってない」
 コハクじゃないという言葉に、トウトの咎めるような視線がシュヴァルツの背に刺さった。シュヴァルツは気が付いていないようで、シュヴァルツの背後のトウトがばっちりと視界に入る少女だけにその視線が届く。
「……敬語も、なくていい。そうだよな、トウト」
「それは勿論だけど……コハクの好きなようにしろよ。お前知らない人にいきなり敬語仕えない質だろ」
 少し鋭くなったトウトの声音が小屋に響いた。ふたりが少女のことについて話すとどうにも空気がぴりぴりして叶わない。彼らは家族と言っていたが、もしかして不仲なのだろうか。いつもシュヴァルツに敵意を当てつけているように見えるトウトに疑問を覚えた。
 同時に、少女は引っかかった。別に自分は、彼らに敬語を使わないことにためらいなどないのだ。
「……敬語でなくていいなら、お言葉に甘えてそうするけれど。本当にいいの?」
 少女がそう答えて見せれば、トウトとシュヴァルツは同時に目を見開いた。猜疑の視線が少女の艶やかな髪を揺らして、靡かせる。
「……なあに、やっぱり嫌? シュヴァルツだけじゃなくてトウトまでそんな反応するのね」
「……コハク?」
「なにかしら、トウト。何か違和感があるなら敬語に戻すけれど」
「……口調、どうした?」
「口調? どこか変かしら……敬語じゃないから?」
「……だから言ったろ。こいつはコハクじゃない」
 なにやら放心しているトウトに、シュヴァルツはもの言いたげに何度目かのその言葉を繰り返した。口調が、コハクと今の少女でなにか違っただろうか。自分が敬語を外すとなればこの口調であるのは限りなく当たり前だ。
 トウトは相変わらず、少女を擁護してくれているようだった。そんなこと言うなともはや恒例化してしまった言葉を返してから、少女に向き直る。
「昔のコハクと全然違う喋り方するから驚いただけだ、悪い。お前がその口調で話したいならもちろんいいよ。敬語よりか気楽だしな」
「そう、不快じゃないなら何よりだわ」
「不快だなんてあるかよ。コハクが帰ってきてくれたんだから多少の口調の差なんて気にしてる場合じゃねえだろ」
「幾度となく思ったけれど、愛されてたのね。光栄よ」
 ああそうだ、とトウトは頷く。いい家族を持ったものだと思った。記憶のない自分でさえも受け入れてくれる兄貴分と、記憶を失ってどうやら大分変化したらしい少女に悲しんでいるだろうに、家族の輪には入れてくれるもう一人の兄貴分。彼らに拾われたことも含め、恵まれすぎていると思った。
 しかしトウトが目を見開くほどの変化だ。昔のコハクというものにこだわっているシュヴァルツには受け入れてもらえないかもしれない。少女は少し不安げに目を細めると、少し声の調子を下げてからシュヴァルツに問いかけた。
「……もしかして、昔の私とは口調が違う私は受け入れられないかしら、シュヴァルツ」
「…………お前をコハクとして認めることはできない」
「シュヴァルツ」
「行方不明の家族がいきなり記憶喪失で戻ってくるなんて、そうそう簡単に受け入れられるものじゃないわ。……だからそんなに咎めなくていいのよ、トウト」
 この二日で飽きるほど繰り返されたやり取りに、とうとう少女は口を挟んだ。その言葉を受けてトウトはすっと口を閉ざす。まだなにやらもの言いたげだが、少女の言葉には逆らえない様子だった。そんなにきつく言ったつもりはなかったのだが。
 シュヴァルツは未だ黙り込んでいた。ここで受け入れられないと言われたらどうするべきか悩みどころだが、それは後で考えればいいかと思考を投げる。
 それからたっぷり数十秒悩んだ後に、シュヴァルツはようやく口を開いて見せた。
「……家族じゃないとは、言ってない。別人だと思ってるだけだ」
「……別人としてなら、受け入れてくれるの?」
「…………別に」
 空気感に耐え切れなくなったのか、シュヴァルツはそこでそっと彫刻刀を手に取った。静まりかえった部屋にかりかりと作業の音が響くようになり、緊迫感が薄れていく。日常が戻ってくるようだった。トウトはまだもの言いたげだったが、おとなしく鍋のほうへと戻っていく。
 外では、雨が降り始めたようだった。夕立ちか、ざあざあと雨粒が屋根にたたきつけられる音が響いていた。シュヴァルツは一度視線だけで窓のほうを見やってから、作業へと戻っていく。
「……なら、新しく名前でもつけて頂戴よ。シュヴァルツ」
「…………は?」
「……駄目かしら。きっと、私をコハクって呼ぶのは抵抗があるでしょう?」
「……いや、でも、コハクはコハク……」
「あら、別人なんじゃなかったの」
「おい、何言ってんだ、お前はコハクだろ。シュヴァルツもじき慣れるよ」
「折角だし、トウトも考えてくれないかしら。シュヴァルツもそのほうが私に慣れると思うのだけど……それとも、貴方は別の名前で呼ぶほうが嫌?」
「記憶が戻るきっかけをなくすかもしれないだろ」
「……そうかもしれないけれど。このままぎくしゃくするのは嫌よ、私とシュヴァルツも、トウトとシュヴァルツも。それこそシュヴァルツが慣れて、私を受け入れたら、呼び名を戻してもらえばいいと思うの。……もちろん、ふたりが嫌なら構わないけれど。ただの提案だわ」
「一理あるっちゃあるけど、お前はそれでいいのかよ、コハク」
「私が提案したのよ、構わないわ」
 トウトは、そう言われて黙り込んだ。シュヴァルツは相変わらず木に向き合っているものの、作業の速度は格段に落ちている。
「……トウトとシュヴァルツ、私のことで揉めているように見えるわ。もともと不仲だっていうならお節介かもしれないけれど、違うのなら気になるのよ」
「…………なんだか、押しが強くなったか?」
「……敬語じゃないからじゃないかしら。シュヴァルツはやっぱり敬語のほうがいい?」
「…………いや。別にいい」
 シュヴァルツは困ったように視線を泳がせていた。いつの間にか暖炉にかけていた鍋の水は沸いていて、トウトは戸棚から食料を取り出している様子だ。沈黙の降りた空間で、少女はばつが悪そうに顔を顰める。余計なお世話だっただろうか。
 トウトは、気弱そうな声で言った。
「……やっぱ、俺は反対。コハクがコハクじゃなくなる気がするからさ」
「……そう。やっぱり余計なお世話だったかしら。……焦っていたみたい。ふたりとも、軽率な発言をしてごめんなさい」
「…………レイン」
 少女が身を引こうとした瞬間に、シュヴァルツは鋭く言った。いきなり何のことだ、とシュヴァルツを見た少女に向き直り、もう一度口を開いて見せる。
「レイン、でどう。……名前」
「……レイン」
「雨が降ってるから。……お前はコハクより、雨が似合うから」
 少女は驚いて少し黙り込んだ。雨が似合う、というのはどういうことだろうか。視線は自然と窓の外に向き、ぽつぽつと植物を濡らす雨に目を取られた。
「…………いいわね、レイン」
「……よかった」
「それじゃあ、これからはレインって呼んで。シュヴァルツ」
 シュヴァルツはこくりと頷いて、また俯いた。その瞳からは、どうにも納得できないといわんばかりだった色は消え、穏やかな空気を見に纏っていた。トウトは未だ少し不満げではあったけれど、口を出してくる様子はない。
 本当に愛されていたんだな、と改めて思う。ふたりとも形は違えども、深い愛情をコハクに注いでくれるのだ。ここは、どうしようもなく居心地がいい。
 話はひと段落したようだった。いつの間にか少しだけ浮いていた腰を椅子に降ろすと、こにいることを許されたのにひどく安堵を覚えている自分に気が付いた。いつの間にか浅くなっていた息をつく。記憶喪失で右も左も分からない自分を無条件に助けてくれた人たち、彼ら──この場合で言うと、明らかに少女に複雑な感情を抱いていたシュヴァルツのことだ──に許されるのは、何もない空虚に立っているような感覚から、地面に足をつけたような気分になる。居場所があるということはこんなにも心地がいいのだと思った。
 少女は、何度か深呼吸を繰り返すと、スープを作るトウトを手伝おうと立ち上がった。