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 質素ながらに味の沁みた根菜のスープの香りが鼻腔をくすぐった。裏の畑で採れるそれらを使ったスープは毎日の夕飯に欠かさず出てくるものだ。少女はその香りを楽しみながら、言われるがままにパンを切り分けている。太陽はすでに傾いて、外は赤く染まり始めている。夕飯時だった。
 毎日の食事は今まで、トウトが担当だったようだ。ざっくばらんな性格の彼に掃除をやらせようものなら、四角い家を丸く掃くのは自明の理。どうやら少女が来るまでは掃除がシュヴァルツ、食事がトウトという振り分けだったらしい。
 現在は、教えてもらいながらとはいえ少女は朝と昼の食事を担当しているため、トウトの食事が食べられるのは夕飯だけだ。野菜が几帳面に切りそろえられた少女のスープより、ごろごろと煮込まれたスープのほうが美味しく感じるのはなぜだろうか。
「お待ちどうさん、スープできたぞ」
 パンを切り終わり卓に並べていた少女の横を通り抜け、トウトが三人分のスープを机に並べ始める。木の椀たっぷりに注がれたスープには、すでに武骨な形のスプーンが突き刺さっていた。
 いただきます、と三人の声が揃った。ふたりより幾ばくか高い自分の声がなぜだか一番耳に残る。湯気の立つ良い香りのスープに一番に手を付けるのはいつだって少女で、トウトとシュヴァルツはいつもパンに齧りつくところから食事を始めている。
「やっぱりトウトの作るスープは美味しいわね。私の作るものと何が違うのかしら?」
「そうか? 俺は自分の作ったスープよりお前の作ったスープのほうが美味しく感じるけどなあ」
「あら、そうなの? 味覚の違いかしら」
「…………誰かに作ってもらった飯は上手いんじゃないのか」
「そう言うってことは、シュヴァルツもそうなの?」
「……一般論だよ」
「でも確かに、納得できるよな」
「そうね」
 そう言って二人から言葉を投げられて、シュヴァルツは少し俯いて見せる。スプーンにざく切りの人参を乗せると、いつもの丁寧な仕草とは裏腹に雑に口へと運んでいた。
 どこまでも素直じゃない人だ、と少女は微笑みを零した。それから、椀を片手に持ってスープを飲み干そうとしてか口に当てて呷るトウトを真似て、口元に椀を持っていく。そんな行儀の悪いことを真似するなと誰かに言われそうだな、と思った。
 スープの温度が移ってほんのりと暖かい椀が近くなって、少女はすっと目を閉じる。
 ぽちゃん、と音がした。その場違いな水の音に目を開けると、どこかで引っかかったらしく、指輪がスープに浸かってしまっている。これは確か、シュヴァルツにもらったという指輪ではなかっただろうか。まずいことになったと慌ててスープの椀から指輪を引っ張り出した少女に、トウトが「布巾持ってくるから待ってろ」と言い残して立ち上がった。
「ごめんなさい、これは貴方が送ってくれたのよね?」
「気にしないでいい。……やけどは?」
「してないわ。そこまで熱くなかったもの」
 ならいい、と寛容に頷いてくれたシュヴァルツに甘え、とりあえずこの指輪を外さなければならないと紐に手をかける。そしてそのまま首を通して外しかけて、すんでのところでやめた。赤い光のことを思い出したのだ。
 ほどなくしてトウトが布巾を渡してくれるまで、少女はぽたぽたと垂れるスープを手を受け止めていた。布巾はシュヴァルツが受け取って、少女の指輪をゆっくりと磨いてくれた。

「こういう時にその指輪が外せないのって不便だな」
「そうね。もう同じ失敗はしないようにするけれど」
 食器を洗う用に木桶に汲んであった水で手を洗った少女が再びテーブルにつくと、トウトがそう話しかけてきた。指輪を椀にいれてしまうなど不器用、不注意もいいところだ。もうこんな失敗は犯すまいと心に決めながら、少女はため息を吐いた。
「ふたりはこの指輪の原理を知らないの?」
「俺は知らない。シュヴァルツは?」
「……俺も知らない。と言うか、俺が作った時はその赤い石を嵌めてない」
「確かに俺も見覚えはないけど……そもそも、首から外せない首飾りだなんて聞いたことないぜ。魔法でもあるまいし」
「そう。……情報がなさすぎるわね」
 言いながらパンを一口食べた少女は、咀嚼する合間に指輪を指で摘まんでじっと見つめた。指にぴったりと嵌まった指輪が外せないならともかく、首飾りの形をした指輪が外れないだなんて聞いたこともない。記憶喪失なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、ふたりの反応から見ても常識的にあることではないのだろう。
 神に捧ぐための神器や、神託を授かった巫女の所持物、はたまた贅を尽くすことを権力の象徴としたがる貴族。目を眩ませるほどの光を発せられる宝石を手にすることができるのは、最低でもその程度の権力者じゃなかろうか。一介の──多少髪の色が白いだけである──町娘ごときが手にする代物じゃないのは、少女にもなんとなくわかった。
「それ、相変わらずなのか? 外せないの」
「一応着替えるたびに外そうとしてみてはいるんだけど、駄目だわ。これ以上続けたら目が潰れてしまいそう」
「そうか……」
「……害があるかもしれないから、外せるなら外したほうがいいと思うけど」
「……それもそうなんだけれど、どうにも。真っ赤な光なんて目が慣れていないから、力が抜けるの」
「それが記憶喪失の原因だったりするかもしれない」
「でも見覚えのない石が嵌まってるだけで、本体はお前が作ったやつだろ?」
「……見た限りは」
 話を聞く限りこれは、シュヴァルツが作ったものらしかった。少女は改めて指輪をまじまじとみると、ずしりと指先に乗る重みに目を細める。女性がつけるにしては太めの指輪だが、これが手作業と言われると重みがまた違ってくる。
 これが自分に何か悪影響を与えるとは、まったく思えなかった。見覚えはないけれど、これが身についている現状は、少女にどこか安堵をもたらしていた。赤い光にも、そこまでの嫌悪は感じない。
 シュヴァルツはしばらく黙ったのちに、ゆっくりと言った。
「……紐切ったら、外せるんじゃないか」
「言われてみれば……そうね」
 少女の首にかかっているそれは、組紐に指輪が通してある形の首飾りである。鉄でも川でもないから、切ろうと思えばそこらにあるパン切り用のナイフでも容易く切れてしまうことだろう。ただ、別に今のところ悪影響がないのだったとしたら、少女はこれを身につけておきたかった。少女は提案自体には理を認めつつも、そこまでの強硬手段に出る必要はまだないと答えようと口を開く。
 そんな少女より先に口を開いたのはトウトだった。
「それは駄目だろ」
「なんでだ?」
「コハク……レインがめちゃめちゃ大切にしてたものだぞ、それ。壊したり切ったりしたらお前絶交されても──いや絶交はされないだろうけど、一日二日口きいてもらえなくたっておかしくないぞ」
「……あのコハクが?」
「それ、常に肌身離さず持ってたのは知ってるだろ」
 少女はぱち、と瞬きをした。二杯目のスープをごくごくと飲みながらあっけらかんと答えるトウトに、シュヴァルツが顔を顰める。
「……あの赤い光、コハクの──あの時の目に似てて、心配なんだよ」
「それはわかるけど、でもそもそもあの首飾りはコハクのものだし、俺たちがどうこうする権利はないだろ」
「……そうだな」
「私はこの首飾り好きよ。もしかしたら逆に、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないし……実際に悪影響が出るってわかってからにしない?」
「分かってる。……もともと無理強いするつもりはなかった。そう聞こえたならごめん」
 納得したように頷いたシュヴァルツが、そういって少女に頭を下げ、少し微笑む。出会い頭の印象が強いせいもあるけれど、感情的な人柄だと思っていたシュヴァルツにそういわれたことで、少女の印象が塗り替わる。ここでトウトや少女に噛みつかないあたり、本当は聡明で落ち着いた人柄なのかもしれないな、と思った。二杯目のスープ食べているふたりと違い、まだ食事の初めに盛られたばかりのスープが入った少女の椀は、少し冷めている。
 シュヴァルツの笑顔を見たのは、初めてのことだった。