14

 少女が目覚めたのは、まだ日が昇る前のことだった。開け放しにされた部屋の向こうには簡素な窓があり、そこから覗く光は夜明けには足りない。ただ夜が白んでくるころなのだろうな、とだけ分かった。
 心臓がやけにうるさく鳴り響いていた。トウトに撫でられた時の心地いい鼓動ではなく、痛いほどに嫌悪、さらにいうなれば危険を訴える信号のような感覚。首筋には悪寒が漂い、眠りから覚めるときに無意識に飛び起きていたらしく、冷や汗が頬を伝う。目は見開かれていた。ただ息が浅く、状況がよくわからない。差し込む隙間風が、今生きているこの場所が現実だと少女に教えていた。服と肌のこすれる感覚が嫌に鮮明に感じられた。
 いまのは夢か、と理解するまでに少しの時間を要して、それから少女は深くため息をついた。まだ心臓はばくばくとうるさいけれど、今さっきまで少女を襲っていた強烈な恐怖心が収まっただけでも大分楽になるものだ。何度か冷たい空気を灰に招いて、少女は自分の心拍数がゆっくりと平常に戻るのを感じる。頬を伝った汗は、行儀が悪いと思いながらも袖で拭った。
 水を飲もう。そう思って、少女は自分の部屋を出る。まだ薄暗い小屋の中は寝静まっている様子で、少女は少し考える。毎朝の水汲みはシュヴァルツの仕事のようだったけれど、昨日は教えてもらって少女もやってみた。近場の井戸まで行って、桶一杯に水を汲む。その桶はひどく重いけれど、それだけである。少女にもできる仕事だった。
 そもそも水が飲みたいのだから、汲みにいかなければならないのは現実だ。少女は木桶を手に持つと、帰ってきた時に開けなくて済むように扉を開け放して、家を出た。井戸は家の扉が視認できる、少し離れた木の裏にあった。
 少女は、からからと音を鳴らしながら釣瓶が井戸の底へたどり着くのを見ていた。ぽちゃんと水の音が響き、ずしりと腕に重みが走る。目を細め、ゆっくりと鶴瓶を持ち上げれば、水を零しながらゆっくりと昇ってきた。少女はそれを静かに支え、しゃがむと、重たいそれを傾けて手持ちの木桶に移し替える。水が時々顔や服に跳ね、その冷たさに少女はどこか生活感を得る。自分が息をしていることに、どこか安心した。
 水が落ちていく音は、どこか心地がいい。木桶にどんどんと溜まっていく水を眺めながら、少女は軽くなっていく釣瓶をただ傾けていた。釣瓶一杯ぶんは、大体木桶の半分程度だ。この程度なら、トウトの支えがなくとも少女ひとりで持って歩けるだろう。
 釣瓶から水がなくなる直前に、どこか慌てたような足音が聞こえてきた。最後の一滴がぽちゃん、と音を立てて木桶に移されてから、少女は顔をあげて音のするほうを見た。この辺りに、自分たち以外の人はいない。この足音は、トウトかシュヴァルツのどちらかの足音だろうか。
 少女が開け放った扉から飛び出してきた人影は、青ざめた顔で辺りを見渡している様子だった。黒髪が朝の風に靡くのが見え、まだ薄暗い森の中でもそれがシュヴァルツであることが分かった。少女は、彼らしくもなく慌てた様子に眉を潜めた。なにかあったのだろうか。
 彼をそのまま放っておくわけにもいくまい、と少女は思った。彼やあの家、またはトウトに何かあったなら、家族として自分に出来ることはしなければならない。そう思って、少女は彼のところに急ごうと多少雑に釣瓶を井戸に投げ入れた。先程ゆっくりと釣瓶を降ろしたときと違い、重力のままに釣瓶が落ちていく音は静けさに支配された森によく響いた。その音に呼応するようにシュヴァルツの視線がこちらへと向き、水の入った木桶を持っていこうか、ここに置いたまま彼のほうへと行こうかと一瞬迷っていた少女に留められた。
 夜に溶けてしまいそうな瞳が一瞬見開かれ、それからひどく安堵を伴ったように伏せられた。少女はその様子にさらに首を傾げる。状況の把握が追い付かない。家の壁に寄りかかるようにして深く息をついたシュヴァルツに、少女は桶を置いて駆け寄った。
 判断が遅い、と頭の中で誰かの声がする。咄嗟の決断は正確に早く熟さなければならないものだ。思慮が浅いのもまた問題だけれど、最悪の結末を招く前に決断するのも重要だというのに。
 少女を見て、俯いていたシュヴァルツは顔をゆっくりとあげた。
「お早う、シュヴァルツ」
「……おはよう、レイン」
「なにかあったの?」
 シュヴァルツはどこか安堵した様子だったけれど、まだ自分は何があったかわかっていない。念のためと潜めた声でそう問いかければ、シュヴァルツは小さく首を振った。
「いや、……俺の、早とちり」
「早とちり?」
「お前が、居なくなったかと思って……焦った。水汲んでただけ……なんだよな」
 最後の一言は、念を押すように力のこもった声だった。何かを疑われているか、心配をかけているか。わからないけれど、本当に水を汲んでいただけであることに嘘はない。少女がこくりと頷けば、シュヴァルツは再度深く息をついた。
 太陽の光が、森の向こうから顔を出していた。茂る葉の隙間を縫って、シュヴァルツの瞳に光が差す。何か愛おしいものを見るように、慈しむように細められた瞳には、困惑した顔の自分が映り込んでいた。彼の口角がかすかに上がり、微笑むようにして言葉が紡がれる。
「──よかった」
 その静かな言葉に、目を見開くのは少女のほうだった。
 その瞳は確かに、自分じゃない誰かを──コハクを、見ているような気がした。少女の背筋に走るのはどうにも自分とは思えないような感覚で、彼の微笑みに一瞬で体中の血が沸騰したかのように熱くなる。知らない感覚に肩を揺らした少女にも頓着せず、シュヴァルツの視線は確かにレインを突き刺していた。
 彼の声は特別な、甘い声に聞こえる。初めて見る彼の微笑みと、意思に関係なく熱くなる体に少女は混乱する。どう返していいやら分からずに固まってしまっている間に、シュヴァルツの表情はいつも通りの仏頂面に戻ってしまっていた。
 家族と呼ぶには薄く感じる、トウトに比べてどこか他人を感じさせる彼。なんだか、見てはいけないものを覗いてしまったような、少女はそんな感覚がした。そんなはずはないのに。自分は、彼の家族であるはずなのに。彼の優しさに懐かしさのひとつも覚えないのは、いったいどうして。
 そんな少女の横をすり抜け、シュヴァルツが井戸のほうへ向かう。はっと我に返ってその背を追えば、彼は少女の行っていた水汲みの続きを負おうとしている様子だった。
 朝露が光る森の中、少女はシュヴァルツに駆け寄った。少女より素早く釣瓶を持ち上げる様子に、彼が自分より力の強いことを改めて知らされる。軽々と水を木桶に移し替えた彼は、そのままひょいとそれを持ち上げた。
「……一方的に運ばせるのはなんだか申し訳ないわ」
「いいよ、重いだろ」
「……私が使おうと思って汲んだのだけれど」
「どうせ俺達も使う」
 確かに、少女が持って歩けばよろめいてしまいそうな重さの桶ではある。シュヴァルツはそれだけ言うと、すたすたと先を歩き始めてしまった。
 肌寒い風に、先程の熱は既に冷めていた。迷いのない足取りにただついていくだけになってしまった少女は少し考えた後に、そっとシュヴァルツに微笑みかける。
「ありがとう、お言葉に甘えるわ」
「…………ああ」
 少女の対応に、意外そうに少しだけ目を見開いたシュヴァルツは、それを取り繕うかのようにぱっと前を向いた。