朝食を終え、てきぱきと慣れた手つきで街に向かうための荷物を纏めはじめた彼らの横で、少女は棚からはたきを取り出した。ふたりが不在のうちに、少女は部屋の掃除と畑の世話を熟さなければならない。ふわりと肩をくすぐる自分の髪を、邪魔にならないようにと組紐で結わいた少女に、トウトが瞬きした。
「レイン、支度しないのか?」
「……支度? してるわ」
「鞄とか」
「鞄? 家事をするのに鞄が必要なの?」
シュヴァルツが鞄に放り込んだ皮袋には、おそらく銅貨かなにかが入っているのだろう、金属がぶつかり合う小気味の良い音が零れ落ちる。無言で手を進める彼に対比するように、少女とトウトの会話は噛み合わない。はたきで棚の上を掃除しながら、少女は小首をかしげた。
「いや、街行くだろ? お前も」
トウトも、少女の真似をするかのように首を傾げながら言う。少女は、訝し気に目を細めた。街へ行く、とはどういうことだろうか。あれだけ迫害だの、殺害だのと、物騒なことばかり言っていたというのにあっさりと誘われるのは、少々理解が追い付かない。前髪を指で摘まんで持ち上げて眺めながら、少女は問いかけた。
「……行ってもいいものなの、この髪よ。迫害されているんじゃなかったのかしら」
「ああ、いや、大丈夫だよ。今日行くのは東の街だから」
「……それじゃレインにはわからないだろ、トウト」
「え? あ、あー……そうか、そうだな。東の街には、なんていうか迫害がないんだよ。東の街では白の子が堂々と外を歩いてるし、俺たちも何度かそれを見てる。だから大丈夫だけど……いや、怖いのはあたりまえだよな。留守番がいいか?」
心配そうにそう問われて、少女は目を細めた。東の街と呼ばれるそこが安全だというのなら、青空の下を彼らと歩いてみたい──そう思ったのは嘘じゃない。それに、「白の呪い」の影響がないのであれば、森の中にある小屋にひとり取り残されるよりも、武術の心得のあるふたりに同行したほうが安全だろう。数瞬の思考のあとに、少女は微かに微笑んだ。
「いいえ、行っていいなら勿論行くわ。いちど、街に行ってみたかったの」
「そうか。ならよかった」
トウトは安心したように笑うと、いつか見た龍の紋章の本を鞄に放り込んだ。
外の空気は心地いい。木々の隙間から覗く青空を弾む気持ちで見つめながら、少女とトウトたちは森を歩いていた。涼やかな風が通り抜け、少女たちの髪を服を揺らす。山小屋から一時間も歩けば、人通りは少ないが山の中でも街道に出ることができたようだった。
「東の街まではどれくらいなの?」
「あと一時間も歩けば着くぜ」
緩やかな山道は、定期的に手入れがされているらしくそれなりに広く歩きやすい。馬車の車輪のあとなどが目立っていて、人の通る道であるのが明白だった。
東の街では、シュヴァルツの作った工芸品を卸して、それから生活物資を買いに行くらしかった。売るための荷物を最低限しか渡されなかった少女は、ふたりに比べて随分と身軽な装いとなっていた。それでいて多少息切れをしている少女を気遣ってか、ふたりは少し歩く速度を緩めてくれているようだ。ふたりは少女の倍と荷物を持っているはずなのに、体力の違いが現れている。
「東の街はどんなところなのかしら」
「東の街は山脈の上にある街でさ、地方のはざまにある街なんだ。俺たちの居るロアスラン地方と……どことの間だっけ、シュヴァルツ」
足を動かしながらそう問いかけた少女に、トウトは楽しそうに答えた。冷静を装いながらも、少女は自分の声が弾んでいるのが分かる。存外、自分は街に行くということを楽しみにしているようだった。
「……ヴァーク地方。それと東の街の正式名称はラ・イズ」
「そうそう、それ」
「ふうん、地方のはざま……迫害がないのと何か関係あるのかしら」
ひとまとめにされたシュヴァルツの髪が風に靡く。さらりとした黒髪が首をくすぐるのが気に食わないのか、シュヴァルツは髪の束をするりと後ろへやっていた。道中は念のため、とフードを深く被った少女は、分かりやすく首を傾げてみせた。
「まあ、そんなもん。街を出たときの俺たちの目的地が東の街だったんだよ」
「……迫害があるのは水龍信仰のロアスランだけで、イズより向こうはヴァーク地方……風龍信仰の地域だ。イズに行けば、お前も自由に外に出られるし、もう身の危険はない。だから、そこに行って、住もうって話だった」
「まあ今はあの小屋に落ち着いてるんだけどな」
「ああ、そういうこと」
分かりやすく説明を果たしたシュヴァルツに、トウトが笑いながらそれを補完した。ふたりの説明になるほど、と笑った少女を見て、ふたりは頷きながら肩を竦めた。道が曲がりくねっているからか山の頂上は木々に隠されてまだ見えなかった。
「街に行って何か欲しいものとかあるか、レイン」
「私? いいえ、連れて行ってもらえるだけで充分よ」
少女に負けず劣らずどこか浮かれた様子のトウトが、優し気な声音で問いかける。
「そう言うなって。甘いものでも装飾品でもさ。いや、装飾品はシュヴァルツが作ってくれるだろうけど」
「……武骨なものしか作れないぞ、俺」
「指輪作れりゃ上等だろ。買ったものより大事にしたくなるさ」
「私なんか木の加工だってできやしないわ。誇るべきよ」
「……そう」
少女とトウトの褒め言葉に、シュヴァルツは微かに下を向く。気分を害したか、と一瞬少女が顔色を窺えば、纏め忘れてか顔の横に落ちた黒髪の後ろで、耳が微かに赤い。トウトはシュヴァルツのこの仕草にまつわる感情をよく知っているのか、シュヴァルツのほうをまじまじと見ることもせずに笑っていた。
黙りこくったシュヴァルツに、少女も少し可笑しくなった。もう一押しすれば、不愛想な冷静な彼の新しい表情を引き出せるだろうか。
「──それに、私」
その顔を見れば、少しは、彼との間にあったはずの感情を思い出せるだろうか。
微笑みを含んだ少女の声音に、シュヴァルツがちらりと視線を寄越す。応えるように口角をあげて、少女は胸元にある指輪を太陽光に透かしてみせる。半透明な白をした指輪は光を反射し、折り曲げ、散らしていく。武骨というにはいささか精巧すぎるその指輪を見つめながら、少女は続けた。
「この指輪、好きよ。武骨だなんて思わないわ」
懐かしさはなくとも、美しさは感じ得る。
少女の言葉に、シュヴァルツが目を見開いた。口が微かに開いて、何か言葉を言おうとしたかのように動く。それは音にならないまま、シュヴァルツの足を止めた。
ぴたりと止まってしまったシュヴァルツに合わせ、ふたりも歩みを止める。口元をその細い手で抑えたシュヴァルツは、耳を赤く染めたのはそのまま、どこか泣きそうに目を細めていた。照れているのか、はたまた別の感情か。判断の付かない顔に少女が首を傾げる間に、シュヴァルツは数回の深呼吸の末に歩き始める。
そんな顔知らない、と思った。
「…………ありがとう」
静かにそう言って先を歩き始めたシュヴァルツに、「何だ照れてるのか」と駆け寄ったトウトが肩を組んでいた。仲の良い兄弟の戯れに、少女はいつのまにか入っていた肩の力をゆっくりと抜いてから、ふたりを追いかけた。