16

「よ、戻ったぞ」
 そんなトウトの声に、壁に凭れていた少女は顔をあげた。十数分前に両手に抱えきれないような荷物を持って懇意らしい小物商店へと入っていったトウトの手には、皮袋だけが握られている。シュヴァルツの作品は無事に売ることができたらしかった。
 本当は少女も一緒に店へ行って、店主に挨拶のひとつでもしたかったのだけれど。少女は小さくため息を吐いた。初めて訪れる街、人混み、それらに酔ってしまって青褪めた少女のことを、彼らが見逃すはずもなかった。店には俺が行くからお前はシュヴァルツと休んでいろ、とやけに凄まれたのは記憶に新しい。
「レイン、体調は?」
「随分よくなったわ。心配かけてごめんなさい」
 トウトは、街の喧騒が少女の体調に障らないか気にしている様子だった。少女が微笑んで答えれば、一瞬疑わし気な顔をしてシュヴァルツに視線を送る。小さく頷いてみせたシュヴァルツに、ようやくほっとした様子だった。
 昼時の街にごった返した人々が途絶える様子はない。少女はトウトの背後のそんな景色をちらりと見た後、肩を竦めて苦笑いする。
「そんなに疑わなくても、体調を偽ったりしないわよ」
「いや、悪い。つい癖で……どうする? もう帰るか?」
 と言ってもこの人混みじゃあな、とトウトが頭を掻く。
 癖で、というのはどういうことだろうか。昔の自分は、不調を隠して無理をする手合いだったのだろうか、と思った。記憶がないと、家族の間の「あたりまえ」が分からない。
 少女は小さく深呼吸したあと、控えめにトウトに声をかける。
「折角来たんだから、もう少し街を見て回りたいわ。次、いつ来られるか分からないし……いえ、体調を崩しておいて、とんだ我儘なのだけど」
「まあ、今は昼時だしな。あと一時間もすれば人も減るだろ。案内するって言ったし……もう少し休んだら街を一回りするか」
「いいの?」
「当然。他でもないレインの頼みだぞ」
「…………俺も、異論はないよ。でも、無理はするなよ、レイン。イズにはひと月に一度は来てる。あと何回でも来れる」
「ええ、分かってるわ。ありがとう、ふたりとも」
 そう言って少女が笑えば、ふたりとも表情を少し緩めた。
 昼時というだけあって、街には手にサンドイッチやら串焼き肉やらを持って歩いている人が見受けられた。どこからか楽団の音楽が流れ、何を言っているのかも聞き取れないような人々の声が混ざり合う。静かな森や湖とは似ても似つかないような騒がしさに、ようやく慣れてきた頃合いだった。
 トウトが、シュヴァルツに預けていた貴重品入れらしき鞄に皮袋を入れながら呟く。
「それにしても腹減ったな」
「……俺、何か買ってこようか」
「じゃあ頼む。俺ボレーさんとこの串肉がいい」
「……レインは?」
「ふたりが食べたいもので構わないわ」
「屋台で買ってくるから……適当なもの、選べるけど。串肉でも、パイでも」
「ええと……昔の私が好きだったものとか、あるかしら」
 鞄を背負いなおしたシュヴァルツが、少女のぼやきに少し目を細めた。何かを思い出すような僅かな間の跡に、微かに口元を綻ばせて、呟く。よく見ていなければ見逃してしまいそうなその変化から、少女は目が離せなかった。
「アップルパイとか、好きだったよ。探してくる」
 それだけ言い置いて、シュヴァルツがするりと少女の隣から去っていく。黒と灰色ばかりを身にまとっている彼はあっという間に雑踏に消え、見えなくなってしまった。
 その様子から目が離せなかった少女の隣で、鞄の整理を終えたらしいトウトがそれを足元に置いて壁に寄りかかった。ついでと言わんばかりに少女の抱きかかえていた鞄を取り上げ肩にかけると、気遣わし気に笑ってみせる。
「シュヴァルツも俺も、ひとりで動くの慣れてるから。心配すんなよ」
「ええ、ありがとう。荷物もありがとう、助かるわ。私ばかり何もしていなくて申し訳ないけれど」
「女性に荷物持たせっぱなしって言うのも男が廃るしな。いつも家事してくれてるぶんもあるし、気にしないで気楽にしてくれ」
 ちょっとでも楽しんでほしいしな、とフード越しに頭を撫でられて、思わず笑いが零れる。ふわふわとした白髪がフードの中でどんな惨状になっているやら、と思いながら、少女はありがとうと頷いた。
 シュヴァルツが戻ってくるまでどれほどかかるだろうか。こんなに直ぐ戻ってくることもあるまいが、少女はぼんやりと人の波を眺めていた。ここでは白髪が迫害されることはない、といえど、白髪はやはり珍しいようでぱっと見当たりはしない。反比例するように黒髪は多く見受けられるため、髪色はシュヴァルツを探す目印にはならなそうだ。
 会話が途切れ、手持ち無沙汰になれば、脳裏に浮かんだのはシュヴァルツの微笑みだった。少女と出逢った当初の対応、レインへの冷静な態度、コハクを語るときの声、それらがぐるぐるとスープのように混ざり合って、輪郭がぼやけて分からなくなる。彼に送られた指輪と、話に聞くコハクのことだけが真実のような気がした。目に見えるものが真実ばかりじゃないことを、少女はなぜだか知っていた。
 そんな考えに耽っていた少女に、トウトが訝し気に声をかける。
「……レイン?」
「……ああ、ごめんなさい。なにかしら」
「体調悪いか?」
「いいえ、考え事してただけよ」
 小さく首を振った少女の言葉では、トウトの疑うような表情は晴れなかった。本当かと言いたげな視線に刺され、少女は苦笑する。記憶を失う前の自分はどれだけ強情だったのだろう。それとも、少女が湖に落ちたことで、過保護になっているだけなのだろうか。
 少し考えてから、少女は口を開いた。
「シュヴァルツのこと」
「……シュヴァルツ? が、どうかしたか?」
「考えてたの。シュヴァルツのこと」
 そう言えば、トウトはああと言って軽く肩を竦めて見せた。まだシュヴァルツは帰ってこない。中に入る前に前に見たラ・イズはそれなりの規模のある街だったから、昔の少女が好きだったというアップルパイを探してくれているのかもしれない。
「不愛想だけど悪い奴じゃないんだ、本当」
「分かってるわ、家族思いで、優しい人だと思ってる」
「……なら良かったけど。なにか今のお前に嫌なことでもしたか?」
「どうしてそうも後ろ向きなのかしら、トウト」
 少女を心配しているのか、シュヴァルツの過失を心配しているのか、トウトは気まずそに瞬きをしながら少女に続きを求めた。弟の失礼の責任は負うとでも言いたげな雰囲気が少しおかしくてくすくすと笑った少女は、微かに目を伏せる。
 これを問いかけていいものか、と思った。──シュヴァルツとコハクは恋仲だったのか、なんて無粋な質問であることには違いない。見当はずれだったとしたら、自分が恥をかくだけで済むからまだ構わない。しかしそれが真実だったとしたら? 今の少女にはどうしようもない癖に、過去の自分だけが知るシュヴァルツの繊細な部分を覗き見するのは忍びないような気がしてしまうのだ。
 数拍置かれたその間に、トウトが首を傾げる。少女はその様子を見て肩を竦めると、口をゆっくりと開いた。
 気付いていて、見て見ぬふりをするなど、少女の性に合わないのだ。
「シュヴァルツと私は、恋をしていたのかしら」
「……レイン?」
「なんて、思ったの。シュヴァルツは私を──私じゃない私を好いていたような気がしてならなくて。ただの思い過ごしかもしれないけれど」
 少女の視線はゆっくりとトウトを刺した。少女の問いに肩を揺らしたトウトの表情から、一瞬笑みが消える。
 困らせてしまった、と少女は思った。平穏を望むなら、聞かないほうが良かったのかもしれない。わざわざ掘り返すべきことがらでは、なかったのかもしれない。それでも何も知らないまま、見て見ぬふりをして共にいることは、できなかった。
 トウトはしばらくの沈黙ののち、申し訳なさそうに笑ってみせた。
「……さあな」
「…………何があっても笑うのね、トウトは。教えてくれないの?」
「俺は知らない。でも、ふたりは恋仲では──なかったよ」
 妙な間を置いてそう言われ、少女はトウトから視線を逸らす。
「恋はしていたの?」
「…………そんな敏さどこで拾ってきたんだ」
「……さあ。記憶と引き換えにもらってきたんじゃないかしら。でも、──そうね、なんでもないわ。ありがとう」
 トウトは、少女の皮肉な冗談に怒ることもせずにただ「そうか」と笑って見せた。何もかもを抱え込むその微笑みがどこか痛々しく感じるのは、少女だけなのだろうか。