17

 トウトの言う通り、一時間もすれば人混みは収まりを見せた。戻ってきたシュヴァルツと一緒に食事を済ませ、少しお喋りに興じれば、時間などあっという間に経ってしまうものだ。そろそろ行くか、と控えめにトウトに問いかけられ、少女はこくりと頷いた。
「どこから行く?」
「イズのことはよく知らないから……ふたりの好きな場所とか、あるかしら」
 そう問えば、トウトはぽりぽりと頬を掻いて宙を見た。
「俺は割と、向こう側にある高台が好きなんだけどな」
「高台?」
「向こう側に崖があるんだけど、その近くに物見みたいなもんが作られててさ。ロアスランもヴァークもずいぶん遠くまで見渡せて、景色がすごく綺麗なんだ」
 へえ、と少女は目を輝かせた。どうやら自分は木々や花などの自然が好きらしいな、というのは、彼らの家に住み始めてすぐに思ったことだ。景色を見渡せる、ということがどうもうまく想像できないけれど、それだけに好奇心がそそられた。
 そんな少女を見てか、シュヴァルツがそっと付け足す。
「ただ、ちょっと遠い。ここから真反対だし、人も多い」
「そうなんだよな……すっげー綺麗だし、お前気に入りそうだし、好きな場所ではあるんだけどな。そっちはまた今度でもいいか?」
「それなら……ええ、構わないわ」
 少女が頷けば、トウトは申し訳なさそうに笑って見せた。今度は絶対に連れてってやる、と力強く言った彼は、それからまた思慮に耽ってしまった。
 彼らは常に少女を第一に、大切にしてくれているというのが痛いほど理解できる。ふたりの立ち居振る舞いを眺めながら、少女はぼんやりとそんなことを考えていた。
 壁際に立つ少女を守るように、無意識にか道を歩く民衆の視界から少女を隔離して、いつでも少女の様子から目を離さない。自分がどうやら強がりをして、ふたりを困らせていたらしいことは想像に容易かったけれど、それがどうにも自分と重ならなかった。しかしそれ以上に、彼らに守られることに何の違和も躊躇いも持たない自分が、不思議だった。
 生活の端々から窺える自分のこと、ふたりの口から聞く自分のこと──一切合切しっくりこないこともある癖に、ああこれこそが自分だと思うような、どこか安心を醸すこともある。記憶がないのは不便だな、と少女は思った。
「ねえ、私はここに来たことはあるの?」
「イズにか? ないぞ」
「あら、なかったのね。ふたりは街に通じているし、てっきり来たことがあるのだと思っていたわ。さっきのアップルパイもすごく美味しかったもの」
「……別にコハクはあのパイが好きだったんじゃなくて、林檎が好きだっただけ」
「まあ果物や木の実は何でも好きだったしな。そうだな……目的地だったけど、辿り着かなかったんだ。だから来るのは今日が初めてだよ、レイン」
 トウトは、そう言って少女のあたまをぽんとひとつ叩く。さっきのようにぐしゃぐしゃと無遠慮に撫でられるものだと思っていたのに、予想外に手短に済まされた応酬に、少女はぱちくりと瞬きした。
 シュヴァルツの話をした直後なのもあって、気を遣われているのかもしれない。そう思い至ったのは数秒後、シュヴァルツが口を開いた後のことだった。
「花屋とか、どうだ。あとは教会とか。ここはノズの教会と似てる」
「ああ、いいな。レインはそれでいいか?」
「ええ、もちろん」
 少女は、私の好きな花はあるかしら、と笑った。

 街角にある花屋には、木造の家が多く色の乏しい街並みに異質を感じさせるほど色とりどりな景色が広がっていた。儚く見えてしなやかな、肌寒い季節にも負けない生命力を讃えた花が桶に種別ごとに纏められている光景は看板以上に目立っている。花のほかにも、双葉の芽だけ出ている小さな鉢植えや、かわいらしい小袋が並んでいた。
 少女は、人の数が減っていたとはいえ、人混みを少し歩いて感じていた疲れがどこかへ消え去っていくような心地がした。世界にはこんなにたくさんの色があるのか、という思いが脳裏をかすめ、そんな考えが些末に思えるような感動が胸を埋める。トウトと手をつないだままゆっくりとしゃがみ込んで花をまじまじと見つめた少女に、トウトがからからと懐かしむような声音で笑った。
「お前、花好きだもんな」
「ええ、……ええ、好きだと思うわ。だってこんなに綺麗なんだもの」
「昔から森だの花だの果物だの、大好きだったもんな」
「そうね、好きになって当然だわ」
 少女の世界はどうやら、彩りが少なかったらしい。少女の目の前では赤橙の花びらがその身を風に揺らし、またその少し向こうでは、細い花弁が集まって楕円を模ったような花が堂々と佇んでいる。トウトたちの住む家も、服も色が少なかったのもあって、こうも発色の良いものは少女の記憶にはあまりない。
 楽し気にしているのが伝わったのだろうか。手をつないだまま何やら店主と談笑を始めたトウトに対して、シュヴァルツはゆっくりと少女の隣に片膝をついた。同じ目線になって花を眺める彼は、時折ちらりと少女のほうを見ては、少し満足そうに口端をあげる。
 その視線に応えるように綺麗ね、と少女が呟けば、シュヴァルツはこくりと小さく頷いた。
 少女もシュヴァルツも、求められないかぎり積極的に会話をする性質ではない。黙りこくって花を眺める時間も苦痛ではなく、寧ろ心地よさを覚えるばかりだった。トウトと店主の話声を背景に、時間はゆっくりと過ぎていく。店主のもともとの性格か、トウトの会話術なのかは分からないが、それなりの時間少女たちがそこに居ても、店主は特に気を悪くした様子はないようだった。
 ふたりの沈黙を破ったのはトウトだった。
「レイン、なにか欲しい花とかあるか? 花束にしてもらおう」
「花束……素敵ね」
「だろう? 北の町じゃ外に出る機会少なかったし、旅してる間もそんな余裕なかったし」
「お金は大丈夫なの?」
「俺たち、あんまり金使うほうじゃないしな。割と溜まってる。余らせるよりは、お前が喜んでくれるほうがいいさ」
 少し揶揄うように問いかければ、まるで準備していたかのようにはきはきとした返事が返ってくる。こくり、とシュヴァルツも隣で頷いていて、少女はそれならば頼もうか、と思った。店先の花はすでに切り花であるとはいえ、花束になんてしたらすぐに枯れてしまいそうな展だけが惜しい話ではあるけれど。
「お客さん、花束ですか?」
「ああ、ひとつ頼んでもいいか? こいつに似合いそうなやつ」
 トウトが店主にはきはきとそう頼むと、人の好さそうな店主はゆっくりと頷いた。少女と隣のシュヴァルツ、それからトウトを少しの間眺めた店主は、僅かな間を置いてからすぐに手を動かし始めた。ゆっくりと選ばれ、纏められていく花から目を離せずにいる少女を、トウトとシュヴァルツがどこか愛おしそうな目で見つめる。
 暫く待っていれば、手際の良い主人の手によって花束は完成した。釣り鐘型の青い花とそれから豪華で優雅な白の花を中心に作られたそれは、清楚という言葉がよく似合いそうでありながら、高貴さをたたえる雰囲気を持っている仕上がりだった。全体的に落ち着いた色でまとめられ、黒のリボンで茎の部分を結ばれた花束は少女が立って受け取り、持てば、驚くほどにしっくりくる。
「とっても綺麗だわ。ありがとう、店主さん」
「いいや、商売だからね。貴女のような素敵なお嬢さんに花束を作れるなら本望さ」
「ほんとに似合ってるな、レイン」
「そうかしら、ふふ、嬉しいわ」
 店主に軽く腰を落として挨拶すれば、にこやかな笑みで迎えらえた。トウトとシュヴァルツが口々に花束と少女を褒めるのは、どこか照れさえ感じるくらいだった。
「この花は何て名前なの?」
「竜胆、それから薔薇と言います」
「素敵な名前ね」
 照れ隠しも兼ねて店主に話を振れば、店主は満足げに頷いた。少女とは比べ物にならないほど花が好きなのだろうな、というのが伝わってくる雰囲気だった。彼は、腕の中の花束を見つめて嬉しそうにする少女を見ると、にこりと笑ってから言った。
「ときに、青いお花は好きでしょうか」
「青のお花? この、竜胆のような?」
「ええ。知り合いから貰った種があるのですが、現在僕のところで世話をする分を鉢に蒔き終わり、持て余していまして。良ければ、差し上げましょうか」
「いいの?」
「勿論です。少しお待ちください」
 少女の声音に含まれる喜を感じ取ったのか、小さく礼をした店主は店の中へと入っていく。思わず口角をあげた少女の肩を、トウトが楽し気に叩いた。
「良かったな、レイン」
「ええ、嬉しいわ。ねえ、裏の畑で世話をしてもいい?」
「もちろん。いいよな、シュヴァルツ」
 軽快な口調で意思を問われたシュヴァルツも、微かに笑って頷いた。それに満足して花束と、それからトウトと繋いだ手に力を籠めれば、トウトが驚いたように小さく肩を跳ねさせた。喜びに思わず握ってしまったけれど、驚かせてしまっただろうか、と力を緩めると、数秒後に、はっとした様子のトウトによる手を握る力が強くなった。
 少女がその変化になにを言う前に、手際のいい店主は店先に再び姿を現す。三人の視線は自然とそこに注がれて、店主はそれに動じることもなく少女の目の前にそれを差し出した。
「青い花の種です。日当たりの良い場所で育ててくださいね」
「ええ、ありがとう」
 花束とトウトの手で両手が塞がっていた少女の代わりにと、淡い赤色の梳き紙に包まれた種はシュヴァルツが受け取った。店主は花束のぶんの値段だけを請求して、種の分はそもそも商品じゃない廃棄物だからと言って、頑なに受け取ろうとはしなかった。
 この種は、どんな花を咲かせるだろう。どんな風に芽を出して、蕾をつけて、花開くのだろう。どんな花にせよ、絶対にこの手で咲かせてみたい。
 花の名前を聞き忘れてしまったな、と思ったのは、店を後にして暫く経ってからの話だった。