20

「……お前、表情豊かになったよな」
「あら、そうかしら。表情がないとは言わないけれど、トウトやイズの人たちに比べれば乏しいほうだと思っていたわ」
 帰り道の山の中で、シュヴァルツがぽつりとそう零した。傾き始めた太陽の光を背に浴びながら、少女が片手で自分の頬を軽く摘まみながらそう答えると、シュヴァルツは考えるようにわずかに首を傾げて見せる。夜へ向かう森の空気はしんと冷たくなり始めている。
 少女は大口を開けて笑わない。顔をくしゃりと歪めることもそうそうにない。情動と表情が噛み合っている、とも言うのだろうが、表情豊かとはまさか言えないほどの変化しかないはずだ。
 シュヴァルツは行きより軽くなった鞄を背負いなおしながら、ゆっくりと続けた。
「……いや、なんというか……ちゃんと、生身の人間って感じがする」
「いや、今までのコハクだって生身の人間だったろ」
「分かってる。そういう意味じゃない」
「あら、昔の私は違ったの?」
 トウトの鋭い切り返しにも慣れた様子で対応したシュヴァルツは、上手く伝えられないとでも言いたげに目を細めた。生身の人間でないのなら、表情の乏しさにおいては人間の何倍にもなる人形のようだったとでも言いだすのだろうか。
 かつてのコハクのことを、ふたりはあまり語らない。生活に馴染む言動や行動の端々から分かることはあれど、かつての少女がどのような生活をして、どのように喋って、どのように笑ったのか、それを彼らは語らない。無口なシュヴァルツが口を開かないこと、トウトがそれに合わせるかのようにただ笑うこと、少女はそれしか知らないのだ。
 揶揄うようにくすくすと笑えば、シュヴァルツは少し困ったように眉を潜めてから、小さく呟く。
「花みたいな……違う、花じゃなくて……」
「ああ、それなら俺にも分かる。樹みたいな奴だろ」
「……ああ。森の大樹みたいなやつだったから」
 迷走する話にトウトからの助け舟を貰い、シュヴァルツは納得したかのように頷いた。相変わらず少女を挟むようにして歩くふたりの声が頭上で交わされるのを聞きながら、少女は聞き返す。
「ああ、それどういう意味なのかしら。ふたりとも同じことを言うけれど……教えてくれない?」
「意味も何も……そのまんまだぜ。大木みたいなやつだったんだよ」
「人と人との感覚って違うものよ、トウト」
「まあそうだろうけど……なんていうんだ、とにかく何でも受け入れて、他人の幸せが自分の幸せとでも言いたげな感じというか。静かにそこに佇んで、自然のまま何もかもを受け入れる感じと言うか、それがなんとなく植物を思わせるんだ」
 森に放っておいたら何時間でもそこにただ立っていそうだった、とトウトは懐かしげに笑った。シュヴァルツは慈しむような視線を宙に向けながら、優しい声音で語り継いだ。
「……それから、よく眠る。俺たちが心配になるくらい眠るんだ」
「そんなに?」
「ああ。……ずっと、俺たちに気を遣ってたから。寝てるときが一番幸せそうだった」
「そうだったな、凄いときは丸一日寝てて、医者に見せようか迷ったくらいだったんだよ。お前は気にしいだから、その時も外で働けないのに家事まで出来なかったって落ち込んでたけどな……最近あんまり寝てないみたいに見えるけど、気を遣う必要なんてないからな、レイン」
 少女はそう言われて瞬きを繰り返した。そう言われても、陽が沈みしばらくすれば少女は床についているし、日が昇れば目を覚ます。いっそ、これ以上眠るほうが難しいとさえ感じるような生活を送っているのだ。もう十分眠っているわ、と返せば、冗談をとでもいいたげな声でふたりは微かに笑った。
「でも、そうね……まだ眠りたい、と思う日があればお言葉に甘えようかしら」
「ああ、そうしてくれ」
 家は、もうすぐそこだ。帰ったら花屋で貰った花の種を畑の一角に植えようと考えながら、少女は少しだけ歩調を速めるのだった。

 眠るのが好き、だなんて。
 夜中にはっと飛び起きて、少女はいちばんにそう思った。頬を冷や汗が伝い、激しい動悸が胸を刺す。思わず自分の心臓のあたりの服を掴んで握りしめた少女は、なんどか深呼吸を繰り返しても治ることのないその感覚に、結局浅い呼吸を繰り返す。己の目が見開かれているのが分かった。
 恐ろしい夢を見たのだ。夢の輪郭は朧げになり、よく覚えてはいないけれど、とにかく恐ろしい夢を見たのだ。何者かに憎まれ、羨望と嫉妬の眼差しで体中を刺される感覚がまだしていた。水の落ちる音が耳から離れない。冷え切った指先は、少女の意思に関係なくかたかたと震えていた。
 目が慣れてくれば、月明かりの照らす自分の部屋が見えてくる。記憶を失ってからずっと寝泊まりしている部屋で、かつての自分のもちもの──といえども多少しかないけれど、それが置いてあるこの部屋。馴染み深い場所を視界に入れてようやく、少女はあれがただの夢であることを理解した。
 ──白の子についての話を聞いたせいだろうか。ここ数日、悪夢ばかり見るなとはぼんやり思っていたけれど、ここまで背筋を凍らされる感覚は初めてだ。遠出をして、疲れてしまったのだろうか。
 隣の部屋からは、微かに話声が聞こえてくる。トウトとシュヴァルツはまだ起きているのだろうか。そのことが僅かに安心を醸し、少女は一度深く息を吐いたのだった。ふたりが起きているのなら話は早い。挨拶ついでに少し話せば、この気も紛れることだろう。水を飲んで顔を洗って、それからもう一度眠りにつけば良いだけだ。
 少女が眠りについてから、まだ然程時間は経っていないようだった。行儀は良くないが裸足のまま床に降りた少女は、ゆっくりと扉に近づく。やはり二人は起きているようで、なにやら真剣な声音で話しているのが聞こえてきた。
 ごく普通に扉を開いて出て行こうとした少女の耳に、微かにコハク、という言葉が触れる。思わずぴたりと動きを止めた少女は、小さく眉を潜めた。
 なにか私の話をしているのだろうか。寝静まった後にわざわざ話すような話題、そう思うと、今出ていくのは良策だとは思えない。ふたりにはふたりしか分からないことがあり、記憶喪失の家族を抱える彼らが心身に負担を感じないとも思わない。それを話しているのであれば、少女は、関わらないほうが良いのではないだろうか。
 扉の取っ手を握りしめた少女が逡巡している間にも、淡々とふたりの話は進んでいるようだった。声を潜めているのか、会話のほとんどは少女には聞き取ることはできないけれど、たまに耳を掠める自分の名前──自分のふたつの名前に、納まりかけていたはずの心臓の音がまた大きくなる。
 コハクとレインという言葉を使い分け、どうやら過去の少女と現在の少女について話をしているようだ。やはり、扉は開けないほうがいいのかもしれない。盗み聞きなど恥にしかならない上、聞いたところで有益でないことのほうが多いのだから。少女はこのまま寝台に戻り、もう一度眠りにつけば良い。
 ゆっくりとそう思考して、少女が扉から手を放そうとしたときのことだった。
 やけに明瞭な、シュヴァルツの声が響く。

「──……俺は、コハクが好きだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、少女の胸元に煌めく宝石が淡く光った。驚きに目を見開いたその瞬間、少女の体からは力が抜けていく。ガタン、と大きな音をたてて扉に持たれた少女の体は、取っ手に手をかけていたせいか大きく開いた扉と共にふたりのいる部屋へと倒れ込んだ。何を思う暇もなく、その音に反応して振り返ったふたりの顔が、一瞬でひどく焦った表情になるのがぼんやりと見えた。椅子を蹴倒したような音が聞こえる。
 視界は渦を巻くように、霧の向こうへ去っていくようにぼんやりと霞んでいった。コハク、と焦ったシュヴァルツの声がして、力の入らない体が抱き起されたような気がした。
 静かな森に佇むこの家には、こだまのようになんども少女の名前ばかりが繰り返し響いていた。
 なぜ、と考える間もなかった。ただ訳も分からないまま、脳がかきまぜられていくような感覚に襲われて、ただゆっくりとすべての輪郭が曖昧になっていく。
 目を伏せ、意識を手放した少女が最後に聞いたのは、微かな水の音だった。