第三章       21

 ぼんやりとした視界の向こうに天井が見えた。窓から差し込む光は明るく、すでに日が昇って暫く経っていることを思わせる。寝坊してしまったなとぼんやりした頭で思い、何度か瞬きをした少女の耳に、劈くような声が触れた。
「レイン!」
 トウトの声だった。半分眠っていたかのような意識はとたんにはっきりし、少女はぱっと目を見開いた。今にも泣きだしそうな悲痛な色を秘めた声に眉を潜める。
「……トウト?」
「レイン、大丈夫か、体調は? おかしなところはないか、俺たちが分かるか?」
「どうしたのよ、落ち着いて……平気よ、なにもおかしなところはないわ」
 錯乱した様子のトウトに驚き体を起こそうとして、少女は自分の両手がそれぞれトウトとシュヴァルツに握られていることに気が付いた。俯いたまま口を結ぶシュヴァルツと、珍しく感じるほどに感情を露にするトウトに、レインははっと思い出す。
 自分は単なる寝坊などではない。何かの要因で倒れてしまったのだ。体調不良と呼ぶにはあまりにも不自然だと思うけれど、それ以外に考えられない──心配をかけてしまったのだろう。少女は飲み込めない不可解な事態から解放されて、少しだけ息を吐いた。
「……心配かけてごめんなさい。今はもう平気みたい」
「大丈夫って、いきなり倒れたんだぞ!」
「大丈夫だから。落ち着いて」
「大丈夫なんて言ったって信じられるか、また無理してるだろ」
「無理なんて……今は不調はないの、本当よ」
「赤い目だったんだ」
 明らかに平常からかけ離れてしまったトウトの様子に焦った少女が、ゆっくりと繋がれた手を解いてトウトに触れようとした瞬間だった。今までに聞いたどんな声より低く、どこか怒りさえ滲んで感じるシュヴァルツの声が耳に触れる。ぴたりと動きを止めた少女の視界には、同じように動きを止めて肩を揺らしたトウトの悲痛な顔が広がっている。
 シュヴァルツは痛いほどに少女の手を握りしめながら呟いた。
「あのときのコハクの目と、同じ色だったんだ」

 寝台から降りることは許されなかった。少女に件の水難事故のことについて話すべきだ、と主張したシュヴァルツに、トウトから反対する意見は出てこない。食事を摂りながら落ち着いてちゃんと話をしよう、と即座にことは纏まり、ならば遅くなってしまったけれど朝食を作らねばと起き上がった少女を、ふたりは大事をとってとその場に留めた。
 開け放しにされた少女の部屋の扉の向こう側で、ふたりはてきぱきと食事の用意を進めている。いつもの穏やかな空気はどこかへ攫われ、小屋の中は張り詰めた空気で満たされていた。少女は、この体にどこか不調は感じられないけれど、どうやら事態は一変したらしいということだけを理解した。
 ──あのとき、とはなんだろうか。
 赤い目だったとシュヴァルツは言った。トウトもそれを否定せず、そのまま静かに押し黙ってしまった。病気や怪我などという簡単な話ではない、少女の知らない深刻な事態だけが、静かにその存在を主張している。
 ふたりから何かを聞かれたらしっかりと答えられるようにしておかなければいけない。少女は思慮に耽りながら、窓の外の風景だけをゆっくりと見つめていた。
 やがて、少女は寝台に座ったままでも食べられるようにと、取っ手付きの皿に入れられた簡素なスープを手渡された。本当に体調に何の異常もないのだが、昨晩倒れてふたりに心配をかけてしまったのは事実だ。受け取れば、あたたかなスープの温度だけが手のひらにゆっくりと伝わった。肌寒い季節に沁みる味を少しずつ食べながら、少女は未だ暗い顔をしているふたりにゆっくりと問いかける。
「私が記憶を失うきっかけになったこと、教えてくれるんだったかしら」
「……ああ」
「前もトウトに言ったけれど、無理に話さなくてもいいのよ。私は私としてあなたたちに認めてもらっているのだもの」
「…………いや、話す。トウトが無理なら、俺が話すから。お前がコハクであろうとなかろうと、もう家族を失いたくない」
「まだコハクとかそうじゃないとか言ってるのか」
「良いの、トウト」
 トウトの怒鳴り声を少女がそう遮れば、彼は何か言いたげな顔をしながらも口をゆっくりと閉ざした。少女の真剣な眼は、固く口を結んだシュヴァルツに向けられている。話してくれるというのならば、聞かない道理はない。かつての自分を知る切っ掛けになるかもしれないし、彼らの不安を取り除けるような記憶が戻ってくるかもしれない。
 トウトが目を伏せたまま、食欲がないのか寝台の横の机にスープを置きながら言う。
「……レインが聞いてて辛くなるかもしれないぞ」
「無知では自分の身さえも守れないわ。なにか深刻な事態になったのでしょう? 話してくれるというのなら聞かせて頂戴」
 凛と答えた少女に驚いたのか、トウトの目が一瞬見開かれる。何かを誤魔化すように揺れた彼の瞳が再び伏せられる前に、シュヴァルツがゆっくりと口を開いた。
「どこまで知ってる」
「北の町が水害に遭って、逃げている最中に湖に沈んだというおおまかなことだけ」
「……わかった」
 シュヴァルツは、どこから話すべきか迷っている様子で視線を斜め上に向けた。彼はあまり話すのが得意ではないことは、少女にも分かっていた。トウトは椀の取っ手を握りしめてなにやら俯いていて、いつものような軽快な語り口は期待できない。トウトがいつも笑っているな、と思ったのはいつのことだっただろうか。
「……北の町で洪水があった。それで、お前とか、他の白髪の若い女が疑われた。俺たちは、たまたま運よく外に逃げ出せたから、そのまま──ヴァークまで行こうと思った」
「ええ」
「……その途中で、コハクの様子がおかしくなった」
 苦しげな顔でシュヴァルツが言った。深呼吸を挟んだシュヴァルツが口を開くまで数秒、少女は思い出す。お前が水に、とかつてのトウトは言った。あの時は少女から話を遮ってしまったけれど、その先の言葉が今聞けるのかもしれない。
 シュヴァルツはゆっくりと、幼子に言い聞かせるような速度で話を続ける。
「夜中に勝手に出歩くようになった。夢遊病みたいに」
「……夢遊病のように。不思議ね」
「不思議なんだ。コハクの真っ黒で宝石みたいな目が真っ赤になって、俺たちの声も届かないみたいに、ゆっくり、どこかへ目的地があるみたいに」
「……瞳が充血してるのではないの?」
 少女の問いかけに、シュヴァルツが頷く。宵闇の似合う自分の黒目を指さしながら、淡々と言ってのけた。
「ここが赤く変わる」
「……それは、確かに不思議だわ。人の瞳の色なんて、変えられるものではないもの」
「でも赤かった。あのころ、夜にどこかへ向かうコハクも、昨晩のお前も」
 スープの椀を持つシュヴァルツの手に力が籠る。落ち着かせるようにゆっくりとスープを飲んだシュヴァルツに合わせて、少女も冷め始めたスープを一口飲んだ。じっくり煮込まれた野菜のスープだけが、この張り詰めた空気に存在する唯一の日常だった。
 かつての少女の奇行、それを思わせる昨晩の自分。それを見ればふたりが錯乱するには十分すぎるくらいの理由だ。記憶喪失に上塗りされるような不可思議に、少女は微かに眉を潜める。病気というにはあまりにも説明がつかないような気がした。
「……俺たちが眠っている間にどこかへ行くんだ。今と違って、食料も、宿の当てもない強行軍だったから、交代で見張るにしても寝ないでいるわけにもいかなかった」
「ええ」
「……ここから、丸二日くらい向こうの山間に、大きな湖がある」
 お前はそこで沈んだ、とシュヴァルツが蚊の鳴くような声で言う。
「俺たちが寝てる間に沈んだ。いないことに気が付いて足跡をたどって追いかけて、湖にたどり着いたときには、湖の真ん中に、お前に貸した、俺の上着だけ浮いてた」
 思い出したくない光景に違いないそれを語る唇は震え、いつも笑顔を絶やさないトウトは隣でただ話を聞いている。彼らが語りたがらなかった事実それを、少女はゆっくりと噛み砕く。
「……その頃の私は? それを知っていたの?」
「知ってた」
「見張る意外に何かしたの?」
「お前が自分から、自分の足と木を縛りつけたりしてた。意味は……なかったけど」
「……自死ではないのかしら。ふたりに随分と的外れな気を遣っていたようだし、生き延びてしまった絶望で記憶を失ったのかもしれないわ。もちろん水死を狙ったのなら、長く呼吸が出来なかったせいもあるだろうけれど」
「……自分から、死ぬような奴じゃ、なかった。確かに、後ろ向きなところはあったけど……それは、ノズで迫害を受けたからだ。草花と眠ることが好きで、町の大樹になりそうなくらい慈愛と器の深いやつだった」
 シュヴァルツの声を一日でこんなに聞いたことはなかった気がしてきていた。実際、彼がここまで口を開くことは普段はない。トウトがそこで、ようやく小さく口を開いた。
「イズに行ったら、自分もようやく俺たちと同じように働けるって喜んでたんだ。旅に出る前までは、ああやって夢遊病みたいに赤い目に悩まされる前までは、水が襲ってきたり水に引きずり込まれたりしなかった。全部、あの赤い目の現象のせいなんだ」
 自嘲と憎しみの交じった声色でそう言った後、トウトは一気にスープを飲み干すと、無理やり作ったような笑顔でに笑って見せる。弱弱しい顔をしたまま、トウトは続ける。
「お前がまたあの時みたいになったらって思うといてもたってもいられなかった。……ふたりとも悪かった、怒鳴りつけたりして」
「……俺も強引だったし、気にするな」
「私も気にしてないわ。だからそんなに無理して笑うことないのよ、トウト」
 少女がそう諭しても、トウトは自嘲を含んだ笑みのまま首を振るばかりだった。どこか過剰なほどに、彼の責任感は強い。兄としての振る舞いを常に意識しているらしい彼は、ここまでくれば眺めていて痛々しささえ感じた。
「……でも、そうね。昔の私が赤い瞳をして夢遊病を患っていたというのなら、それが今治っている保証はないわ。瞳の色が変わることの説明はつかないけれど……気を付けるに越したことはないわ」
「……そうだな。見張りを再開するか。今は家に落ち着いてるし完全に見てられるだろ」
 トウトの言葉に、シュヴァルツが強く頷いた。強い意思の籠った瞳に目を細める。大切にされている。暖かな家族がいる。それは記憶喪失の少女にとっては最初から、新鮮で幸せな感覚だった。少し緩和した空気にほっと息を吐く。
「ふたりには迷惑をかけてしまうわね。そもそも私が溺れたのはここから数日かかる湖なのでしょう? どうやってこの辺りまで来たのかもわからないし……早めに医者にかかるほうがいいかもしれないわ」
「……医者はイズのほうで探すか」
 街の外の子供を見てくれるとも思えないが、とため息をつきながらトウトが言う。シュヴァルツがあからさまに顔を顰め、それから自分を律するように目を伏せた。
 とりあえず今日の夜から交代で見張りをするということで話がまとまった。今日は一日休んでいることと厳命され、少女は苦笑いでそれを承諾する。本当にもう平気、と言いたいのだけれど、昨晩の自分の様子とかつての己の話を聞けば、おいそれと大丈夫を口に出すわけにもいかない。ふたりを安心させるためにも、今日はゆっくり休むことを決めた。