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「何を読んでいるの? シュヴァルツ」
「…………待ってろ」
 少女の声に、開け放しの扉の向こうからゆっくりとシュヴァルツが歩いてくる。少女はどんな本を読んでいたのか問いかけたかっただけなのだけれど、丁寧なことに少女にも見せてくれるようだった。トウトもいつか読んでいた、表紙に龍の紋章の描かれた分厚い本は少女の腕には重そうだった。
 トウトが畑の面倒を見に行ってしまい、手持ち無沙汰になっていたところだった。窓の外を見つめ思慮に耽るのもいいものだけれど、ささやかな退屈を満たすためには、許されるならば誰かと話をしたほうが楽しいものだ。
 寝台の横にある椅子に腰を下ろしたシュヴァルツが、膝の上にゆっくりと本を置く。少しかすれた表紙には、なにやら文字らしきものが彫られていた。この本、とでも言いたげに表紙を見やすく持ち上げてくれるシュヴァルツに、少女は苦笑いした。
「……読めないわ。よければ教えてくれないかしら」
「…………読めないのか?」
「ええ。昔のわたしは文字は達者でなかったみたい」
 シュヴァルツは怪訝そうな顔をしたあとに、黒に近い深緑色の表紙をゆっくりと指でなぞった。白い指先は、道具や装飾具の加工のせいか、ところどころに傷跡が残っている。
「…………『龍神と人々の歴史』」
「歴史……水龍の話が記してあるの?」
「いや……遥か北の国の、龍神と、龍神に仕える五匹の龍のことが書いてある──らしい」
「あら、全部読んでいるわけではないのね」
「……俺たちは、水龍のところだけ教えてもらった。でも、コハクは結構読んでたはずだけど」
 その言葉に、少女はぱちくりと瞬きをした。シュヴァルツたちも別段読み書きに通じているわけでないのは分かっていたけれど、自分はその中でもとくにできないのだと思っていた。町に行ったときも、掲げてある看板の言葉のほとんどを読むことが出来なかったのだ。たまに読めたときも、店先に並ぶ商品と明らかに異なる意味をもつ言葉を読み取ってしまうことのほうが多い。
 かつての自分が勉強不足だったのか、ろくに教えてはもらえなかったのか──どちらかだと思っていた。
「昔の私には読めていたの? 今の私にはさっぱりなのだけれど……そうね、読める頁もあるのかしら」
「…………まあ、仕方ないだろ。記憶がないんだ」
 多少優しくなった声音は、きっと慰めの気持ちが籠っているのだろう。本を開いてぱらぱらとめくるシュヴァルツは、図版の多い頁を見つけては少女に差し出した。龍らしきものの姿絵やどこかの神殿などの描かれたそれは、各地の伝統や伝承、信仰についてまとめられたものなのだろうな、というのは少女にもなんとなく理解できた。
「他に本はあるの? トウトもこの本を読んでいたけれど」
「ない。爺さんが、一冊だけ持ってたやつで、俺たちはこれで読み書きを習った」
 それでそのまま、とシュヴァルツが黄ばんだ頁を撫でる。少女にはほんの一部しか読めないけれど、それでも興味深いものが多い。
「……読めるところもあるにはあるわ。面白いわね」
「そうか。……すぐ読めるようになるだろ。お前、俺たちの中で一番読み書きが得意だったから」
「そうね、少し勉強してみようかしら。きっと、本を読むのは嫌いじゃないわ。トウトも本は好きなの?」
 ぺらり、ぺらりと図版を眺め頁を拾い読みしながら、少女はシュヴァルツに問う。少し悩まし気に首を傾げたシュヴァルツにあわせ、さらさらとした黒髪が靡く。線の細い顔立ちと良く指の通りそうな真っすぐな髪を眺めていれば、どこか懐かしさを感じた。
「……俺は、それなりに。数頁だけど、全部読めるところもあるけど……トウトはもともと、そこまででも、ないかな」
「そうなのね」
「…………元々、最低限は出来たけど。本を読むようになったのは最近だ」
 最近、とシュヴァルツが繰り返す。時期を言い淀んだのはきっと、少女の件になにかかかわりがあるのだろうな、と思った。かつての少女が彼らに気を遣った分、彼らも少女に気を遣っているのだ。
 いくつかの図版の末に、少女はふと自分がすらすらと読める文字を見つけた。
「……祝言の儀」
「…………祝言?」
 水龍との祝言の祭典があったらしい、と書かれた頁だった。三代に一度生まれると言われる白の巫女と神の祝言の儀があったらしいと。花の酒が振舞われるその祭りは、水龍をティエデールと呼ぶ民にとってとても大切な行事だったらしい。
 どうやらどこかの石版の写しか何かなのか、そこだけ文字がほかのところと違って見える。それは、他の文字がなにかの記号のようなものにしか見えないのに、ここはすらすらと読めるからだろうか。
「ええ。すらすら読める箇所があったものだから。水龍ティエデールに関する頁だけれど……読んでいないかしら?」
 ティエデール、と拙く繰り返したシュヴァルツは、どうやらその単語を知らないようだった。
「読んでない。……そもそも、そこは古い言葉で書かれてる。俺もトウトもコハクも、爺さんも読めない」
「あら、そうなの? 不思議なこともあるのね」
 眉を潜めたシュヴァルツが、じっと目を見るようにして少女を見つめた。その視線に気付いて顔をあげれば、シュヴァルツの肩が微かに揺れる。何か言いたげに口が形作られ、そのたび静かに崩された。なにか、言いたいことがあるのだろうか。
 少女が本を捲る手を止めて言葉を待っていると、やがて、ため息とともにシュヴァルツの強張った肩の力が抜けた。
「……俺が喋り始めるまで、待ってくれるよな。お前も、トウトも」
「当たり前だわ。……本題はいいの?」
「……いい」
 そう言って視線を斜めにやったシュヴァルツは、しばらくそのままそうしていた。