23

 次の日の朝のことだった。
 太陽の光が燦々と降り注いでいる。少女に水を撒かれ冷たく湿った土の下には、あの街の花屋で貰った種が埋まっていた。昼前に家事を終えてのんびりと畑の世話をしていたそんな少女の背後から、まったりと眠たそうな声がした。
「今日は体調平気か、レイン」
「あら、おはよう。平気よ」
「ならよかった」
 大きな欠伸をひとつしたトウトは、きょろきょろと周りを見渡して日の高さなどを確認している様子だった。陽の光は暖かいが、吹き付ける風は肌寒い。髪を降ろして、いつもの上着を着ずに外に出てきた寝起きの彼は、寒そうに鼻を赤くしていた。
「まだお昼ごはんにもなってないわ。もう少し寝ていたら?」
「それ、シュヴァルツにも言われたよ。いいんだ、下手に寝すぎて夜寝れなくなっても困る」
「ならいいのだけれど……とりあえず、上着を着てきたらどうかしら。外は寒いわ」
 少女がそう言えば、自分の腕を軽くさすったトウトがそうする、と言って小屋の中へと帰っていく。少女のところへ戻ってくるつもりなのか開け放しにされたらしい扉から、少女と同じ提言をしたらしいシュヴァルツの声が聞こえてきた。
 一昨日と違い、昨晩は恐ろしい夢を見ることはなかった。宣言通り一晩中少女のことを見張っていたらしいトウトが動くような事態も一日目には起こらず、三人の間には多少柔らかな空気が流れている。トウトが眠たそうなのは、日が昇り、少女が目覚めてから眠りについた彼が今しがた起きてきたからだ。聞けば、旅をしていた間の少女は毎晩のように症状が出ていたらしい。それに比べれば今、少しは快方に向かっているのかもしれないな、と少女はしゃがみ込んだ自分の膝に頬をつきながら考えた。ふわふわと波打つ白髪が風に揺れていた。
 扉が軋みながら閉まる音がした。いつも通りに結わかれた薄茶の髪を靡かせながらひょこりと顔を出したトウトに笑いかければ、トウトはどこか安心したように少女のもとへとやってきた。それから、少女の隣に片膝をつく。
「畑仕事好きか? 俺たちは助かってるけど」
「ええ、楽しいわ。記憶を失う前に草花が好きだった理由も分かる」
「そうか」
 少女の返事に満足げにしたトウトが肩の力を抜いた気配がした。昨日一晩はきっと、ただ眠らずに起きているということよりも彼を緊張させたことだろう。明るい少女の姿を見れば、少しは安心してくれるだろうか。
「……孤児院、こじんまりしたところだったんだけどさ。敷地内に小さな花壇と畑があったんだよ。昔は爺さんとお前で世話してたんだけど、じきにお前が外に出なくなったからさ。……懐かしくて」
「あら、そうなの。じゃあきっと私は今幸せなのね」
 少女の真白い指先が土に触れる。トウトかシュヴァルツか、ふたりのどちらかが耕したであろうこの土の下で、花の種や野菜が息づいているというのは、どうにも不思議なことのような気がした。トウトの言う通り、少女は土に触れてこなかったのだろう。
「新鮮だわ、こうして自然に触れられるのは」
「そうだろ? もう好きなだけ森でゆっくりできるからな」
 誰に縛られる謂れもないさ、とトウトが笑った。
「本当はもっと早くに北の町を出るべきだったんだろうけどな。決断が遅かった」
「……そんなことないわ。生まれ育った場所を離れるなんて──そう軽々と出来ることではないもの」
「……そういうもんなのか」
「ええ、きっと」
 それには、トウトの後悔の念が言葉に詰まっているような気がした。
 返事をした少女がトウトに微笑みかけようと横を向けば、思ったよりも近くにあったトウトの端正な顔に、一瞬で鼓動が早くなった。いつも楽し気に笑っている表情は憂いを帯び、どこか遠くを見つめているようだった。その表情を、少女はどこかで見たことがある気がした。懐かしさを覚え呆然とした少女の視線に気づいたのか、トウトと目が合った。
 五月蠅くなり始めた心臓の音を誤魔化すように、一泊置いてなんとか笑いかければ、少女を撫でようとしたのかそっと伸ばされていた手が途中で止められる。違和感を覚え、謎に湧き上がってきた照れに畑のほうに向きかけていた視線を再びトウトへと向けた。
 木々の合間を縫って差し込んだ太陽が、少女とトウトを照らしていた。常日頃絶えないトウトの笑顔は影を潜めている。少女の瞳の奥を見つめるような視線が少女を刺した。絡んだ視線に熱を覚え、少女は一瞬肩を揺らす。戸惑ったその空気を緩和するように、トウトがわざとらしく笑ってみせる。
「……花、好きなら、近くに花畑あったと思うけど……今度行くか?」
「あら、……ええ、行きたいわ。よければ」
「ああ」
 躊躇いを振り切るようにしてトウトの手が再び伸ばされ、少女の髪を搔き乱す。いつもより雑なその動作に思わず目を瞑って、少女もくすりと笑って見せた。
 ふたりの間に芽生えた熱だけを、ゆっくりと風が攫っていく。