24

 目を覚ました時、日は既に高く登っていた。寝坊をあまりしない少女がそうして遅く起きるときは大抵、悪い夢を見たか──症状が出たときのことだった。なんどか瞬きをした少女の、まだ眠気の残る挨拶に、トウトは曖昧に微笑む。
「おはよう、トウト」
「……おはよう」
 少女が倒れたあの日から、幾度目かの朝が来た。トウトは読んでいたらしい本を勢いよく閉じた。声色に灯された憂鬱と、寝台の側面に寄りかかるようにして眠るシュヴァルツを見て、少女は眉尻を下げる。
「今日は駄目な日だったかしら」
「少しだけだよ、気にすんな」
「シュヴァルツにも後でお礼を言わなくちゃ。ふたりがかりになってしまったようだし」
 音をたてぬように寝台から降りて、少女はトウトに笑いかけた。
「もう平気よ、目はしっかり覚めたわ。トウトもゆっくり眠って頂戴」
「……シュヴァルツが起きるまでは起きてるよ」
「……無理はしないのよ」
 朝ご飯を作るわね、と靴をはいてから出入口へ向かう少女に、小さく返事をしたトウトが後を追って来ていた。眠そうに伏せられた瞼に心配そうな視線を投げても、決して彼がその意思を汲み取ることはない。
 少女の夢遊病と思しき症状は、数日に一度発露した。トウトかシュヴァルツ、ひとりで抑え込める日もあれば、ふらふらとどこかへ出歩こうとして止まらないときもある。症状が酷ければふたりがかりで少女を抑え込む、というのがいつの間にか出来上がったトウトたちふたりの暗黙の了解──あるいは、口に出さないだけでかつてからの習慣のようだった。
 そうはいっても男と女、シュヴァルツもトウトもぱっと見れば同い年程度に見える少年だ。実際少女とトウトたちに力の差はあるのだし、少女ひとり程度簡単に抑え込めるのだろう。しかし、彼らが少女に対して手荒すぎる真似ができないのもまた簡単に予想がついた。
 少女が記憶を失う原因となった時期よりかは頻度が低いけれど、ずっとこのままというわけにもいかないだろう。少女は手伝うと言ってきかないトウトに甘えて水を一緒に汲みながら、そんなことを考えていた。
 なにが記憶を失うきっかけになったかは分からないけれど、今の少女が目を覚ましふたりに拾われて暫くは、夢遊病は発現していなかった。この現象が記憶を取り戻さんとしている良い兆候なのか、はたまたただ少女とふたりを苦しませるだけのものなのか。分からないけれど、出来ることなら少女はこの症状を早く治してしまいたかった。自分の意思でどうにか出来るものでもないのだけれど。
 イズのほうの医者は気難しいと評判で、街の外の子供を診てくれるような人柄ではないらしい、というのはトウトたちから聞いていた。それでもいつか交渉に行くべきではあるだろう。次に街に行くときにでも交渉を始めようか、と少女は考えていた。
 桶を運べば、中にたっぷりと入った水がいくつもの波紋を広げていた。
 ──そもそも、この症状が出るきっかけとなったのはなぜだったのだろうか。なんの兆候もなく突然、あるいは疲労やなにかの蓄積。それから、と少女は思う。
 まるでシュヴァルツの言葉に呼応するかのように、胸元の指輪が光ったのを覚えている。

 窓から差し込む月明かりが、壁を照らし模様を作り出している。手元で揺れる蝋燭の光は暖かく、シュヴァルツの心を穏やかに保っていた。
 穏やかな寝息と、シュヴァルツがほんの頁をめくる音だけが部屋を支配していた。寝台に横たわるレインはゆっくりと眠っている。いつも穏やかに細められている水底を携えたような漆黒の瞳は瞼の裏に隠れ、夢の世界に居るようだった。
 今晩、少女の傍に待機する役はシュヴァルツだった。幾度となく読み返した、この家に一冊だけある本の水龍の部分を読みながら、シュヴァルツはレインの様子を伺っていた。掛け布団を抑えるように胸元で組まれたレインの指が呼吸に合わせて上下するのを見つめながら、たまに文章をなぞる。幾度目かになるそんな夜が穏やかに過ぎるよう、シュヴァルツはゆっくりと祈っていた。
 隙間風が吹き付ける。靡く髪が鬱陶しく、するりと耳にかけた。いつかのコハクが綺麗だと褒めてくれたのを切っ掛けに長く伸ばしてはいるけれど、そろそろ切ってもいいかもしれないなと思う。だってもう、コハクは居ないのだから。
 目の前に居る彼女のことを、シュヴァルツはどうしても愛しい相手だと思うことは出来なかった。記憶がないからではない、そんな些細な問題ではない。どこかなにかが、決定的にコハクと違う──それを上手く言語化できるほど、シュヴァルツは口達者ではないのだけれど。
 この複雑な状況を、感情を、どうトウトやレインに伝えればいいだろうか。シュヴァルツが小さく息をついたとき、小さく寝台が軋んだ。
 胸元で組まれていたレインの指が、ゆっくりと解かれる。白い睫毛の下から姿を現した瞳が赤いのを見て、シュヴァルツは小さく息を呑んだ。なんど立ち会っても、このレインを相手にするのは慣れない。言葉を発することもなく、ただ、ただどこかへ──きっとあの湖へ向かおうとする彼女と対峙するのは。嫌な音を立てて早まった鼓動を押さえつけながら、シュヴァルツは即座に本を燭台の隣に置くと立ち上がった。
「レイン」
 何度となく名前を呼んでも、彼女の瞳がシュヴァルツをとらえることはない。暗闇の中でもわかるほど、シュヴァルツの作った指輪にいつの間にか嵌め込まれていた石が光っていた。どうして、そこに石があるのか。これが原因ではないのか。いっそ壊してしまえば──そう思っても、指輪を贈った時のコハクの嬉しそうな顔が脳裏にちらついて実行できない。そんなことを考えている間にも、レインはゆっくりと体を起こしていた。
 どこか眠たそうにも見える瞳でなんどか瞬きを繰り返している少女の腕をゆっくりと掴む。体を起こした彼女の手を寝台に押さえつけるようにして、留めた。
 彼女を行かせてはならない。もう二度と、後悔してはいけない。それはレインが何者であれ変わらない事実だとシュヴァルツは思っていた。男に手首を押さえつけられているということを全く意識していないらしい少女が重心を前に掛けて寝台から降りようとするのを、必死に抑え込む。
「レイン、起きろ、目を覚ませ」
 頼むから、と呟いたシュヴァルツの声は彼女に届いていないようだった。このままシュヴァルツを押し切って外に出てしまうようなら、トウトを起こしてふたりがかりで抑え込んでしまわなければならない。少女の体のどこにそんな力があるのか、と言いたくなるほどの力で、少女はシュヴァルツを押しのけようとしていた。
 息が荒れた。彼女の顔を見ることが出来ず、立ち上がってしまったレインを抑えるために俯いて歯を食いしばる。シュヴァルツがレインを見張っている夜半にこうして症状が発露するのは数度目だけれど、思考と心が一斉に搔き乱されるこの感覚はいつまでも消えることはなかった。レインを行かせてはならない、名前をどれだけ叫んでもきっと届かない彼女を行かせてはいけない。
「っ、頼むから、コハク!」
 ──彼女は、コハクじゃない。
 幾度となく口にしてきた言葉足らずな訴えに反して、喉から滑り出たのは彼女の名だった。白い髪が月光に照らされて銀に光り、その名を聞いた少女の体から、ゆっくりと力が抜ける。
 少女の体はシュヴァルツに押され、ゆっくりと寝台に倒れ込んだ。押し倒すような形になった体制に驚いて顔をあげれば、赤い目をした少女と目が合った。
 シュヴァルツに手首を押さえつけられたまま、か細い声で少女が呟く。
「──……シヴァ?」
 目を見開いたシュヴァルツに相反するように、少女の瞳はゆっくりと閉じられた。聞こえ始めた寝息に、今晩の症状はおさまったらしいということだけが分かった。くったりと力を失った少女の上からのろのろと退いて、それからシュヴァルツは寝台の横に座り込む。本当は足先が寝台から出てしまっている少女を寝台の上のほうまで引き上げて、掛け布団をかけてやるべきなのだけれど──それどころじゃ、なかった。
 もしあの言葉が聞き間違いでないのなら。コハクを恋しく思いすぎたシュヴァルツの幻聴でないのならば。
 あの呼び方は。あの、愛称は。