その日は朝から曇り空だった。
時ならぬトウトの怒鳴り声に、外に居た少女は驚いて小屋を振り返った。淡々と話すトウトとシュヴァルツの話し声は、普段は家の裏に行ってしまえば聞こえない。それなのに今聞こえてきたのは、壁を間に挟んでも聞こえるような大声だった。
何かあったのだろうか。畑に水をやっていた手を止めて小屋を振り返った少女の耳をつんざくのは、トウトの声だけだ。侵入者だとか、そういったことでもなさそうだ。
なにせ、糾弾されているのはシュヴァルツだった。なにが、だとか、お前は、だとか、感情的に責める声が途切れ途切れに続き、シュヴァルツが何か言葉を返しているのか、時折その怒鳴り声が静まる。──喧嘩だろうか。
事情も分からない自分に仲裁が出来るとも思えないが、止めたほうが良いだろうか。迷いつつも桶を置いた少女に聞こえているとも思っていないのか、トウトの声は続く。出入口へ行こうと窓の外を通った時には、戸惑ったようなシュヴァルツの表情だけが少女の視界を掠めた。
扉の傍まで行けば、ふたりの話声はしっかりと聞こえる。喧嘩というにはどうにも一方的なようで、怒鳴り声が止む気配はしない。いつも優しい兄貴分として振舞っている彼にしては珍しく、感情を露にしている様子だった。
止めたほうが良いだろうか。自分が間に入れば、少しでも落ち着いて話ができるだろうか、と一瞬思案する。
「だから、トウト、違うんだ」
「なにがだよ、お前、いつまでそんな些細なことに拘ってるんだよ」
「拘ってるとかじゃなくて、だから」
「コハクだとかそうじゃないとか言ってる暇あったら守ることに専念しろよ!」
少女はぴくりと肩を揺らした。話題の種は──自分か。
自分が喋り始めるまで待っていてくれる、とシュヴァルツは少女とトウトのことを評したけれど、どうやら今のトウトにはその余裕さえないらしい。シュヴァルツが何かを言おうとするのを遮っては、頭ごなしにそれを否定する。
コハクだとかレインだとか、というのが今のトウトの常套句らしかった。そうだ、シュヴァルツは最初からずっと、少女のことをコハクじゃないと主張していた。そう繰り返してはトウトに咎められていたのだ。今更怒鳴ることなどないじゃないか、と口を挟めるほど、少女は豪胆な性格を持ち合わせてはいないようだった。
「だから、調べにイズに」
「イズに行くなら医者と交渉するほうが優先だろ!」
「分かってる、でも指輪が」
「いい加減にしろよ! またコハクが居なくなってもいいのかよ、お前!」
ふたりの声に混ざった悲痛な色に、少女は顔を顰めた。
ふたりは無暗に喧嘩をするような性質ではない。そんなことは、少女にも簡単にわかることだ。ふたりが喧嘩のようなことになってしまっているのは、全て少女が原因だった。たとえその事実が、少女にどうしようもないことだったとしても、あるべきところにおさまっていないふたりの姿に胸を締め付けられない理由にはならない。
頬にぽたり、と冷たい水が触れた。いつの間にか涙でも流していただろうかと頬を拭えば、その手にもぽたりと水滴が触れた。
空は暗い。見上げれば、流れの早い雲からゆっくりと、雨が降り始めていた。地面を叩きつける水は植物にとって恵みであり、人々から太陽の光を隠す存在でもある。目を細めた少女は、小さく拳を握りしめた。
雨。──レイン。少女の名前。
孤児院で共に育ち、血の繋がりもないのに家族として歩んできた彼らの道筋に雨を降らせるためにここに来たわけじゃないのに。今の少女にとっては自分こそが、家族に雨を降らせる存在に思えて仕方ない。
「……ぴったりな名前ね」
自分自身への皮肉を小さく吐き捨てた少女の目の前の扉が、シュヴァルツの「もういい」という大声と共に大きく開いた。驚いて目を見開いた少女と、荷物を持って飛び出してきたシュヴァルツと目が合った。ぶつかる寸前で何とか足を止めたシュヴァルツが、小さく謝罪の言葉を述べてから山道へと走っていく。
「シュヴァルツ、」
「──濡れると風邪ひくぞ」
「あなたこそ!」
レインの制止も聞かずに走っていったシュヴァルツを追うか迷った少女が家の中をちらりを見れば、俯いて唇を噛んだトウトが小さく床を蹴っていた。彼がこんなに荒れるのも珍しい、と思いながら、少女はゆっくりと問いかけた。
「追わなくていいの?」
「…………あいつはイズに行くだけだ。剣も持っていったし、夜には帰ってくるだろ。レイン、濡れると風邪ひくぞ」
「……桶が畑にあるから、それだけ取ってくるわ」
「俺が行くから、レインは家ん中戻っててくれ」
すれ違ったトウトが、小さく「頭冷やしてくる」とだけ呟いた。
暫くして、ずぶ濡れと言って差し支えないトウトが家に戻ってきた。着替えをそっと差し出せば、軽い笑顔でお礼を言われる。とりあえず冷静にはなったようだけれど、と少女は思った。
「話、聞いてもいいかしら」
「……聞こえてたんじゃないのか?」
「途中から。私のことで揉めているのは分かったけれど、結局何が原因かは分かってないわ。どうしてシュヴァルツはイズに向かったの?」
少女のまっすぐな問いかけに、トウトは困ったように小さく笑った。
「俺もよくわからないんだよ。なんか、指輪がどうとか、夜の間の様子がどうとか──レインとコハクの違いだとか、言われて。こっちも黙ってられなかった。……怒鳴ったりしててごめん、怖がらせたよな」
ごめんな、と頭を撫でられて、少女も目を細める。怒鳴り声を恐ろしいと思ったことはないけれど、ふたりが喧嘩しているのは驚いただけだ。
「怖がってないから、平気よ。でもトウトもあんな風に感情的になるのね、驚いたわ」
「まあ……この緊急時に言われちゃあな。お前も大変なのにさ」
「こんなときに負担を比べても仕方がないわ。シュヴァルツにもあなたにも、何か考えがあるのでしょう?」
仲直りは早めにね、と少女が言えば、トウトは肩を竦めた。ざあざあと屋根を叩きつける雨の音を聞きながら、シュヴァルツが替えの服を持って自分の部屋へと向かう。黒雲に覆われた空のせいで、部屋はずいぶんと薄暗かった。燭台に火を点けようと立ち上がった少女に、トウトが誰かに言い聞かせるかのように言った。
「お前がお前じゃないなんて、あるわけないのにな」
「……そうね」
結局、シュヴァルツの帰りは夜遅くのことになった。トウトはまだ何か怒っているのか、どこか素っ気ない様子でシュヴァルツに着替えを投げて寄越していた。そうして、夜は平等に訪れる。
──今晩の少女の見張りは、トウトだった。