26

 少女は悪夢を見る。この家に来た時から今まで、だんだんと頻度をあげながら、悪夢は少女の眠りを妨げた。それは、ぼんやりと要領を得ないものから、だんだんと鮮明なものに変わってきている気がした。
 ただ、水の音だけがずっと響いていた。ひやりとした感覚が指に伝わるほど、生々しく記憶に残る。白い空間ばかりが広く続くその場所で、裸足で歩く感覚を、覚えている。
 これは夢だ、と少女は思った。現実味の薄いこの感覚も、背筋の凍る空気も全て夢だ。意匠の凝った荘厳な柱の立つその場所は、石造りの神殿のように見えた。まるで少女しかその世界に居ないかのように隔離されているような造りのそこから、空は見えない。
 ただ、雨音がしていた。雨が降り、水滴が落ち、どこか広い水面を叩く音だけがしていた。建築物で在ればどこかに必ずあるはずの出入り口は見当たらず、しかし真白な空間は少女をただ静かに閉じ込めもてなしていた。
 少女は、この場所をよく知っている気がした。一本の柱にひとつづつ存在する燭台が灯る順番も、見知った人物がここを訪れるときの足音も、静けさの中で本の頁を捲る音も、幼子のすすり泣くような声も。そうだ、少女の良く知るここは、どこだった?
 空のように明るい青の瞳と、深海を閉じ込めたような深い青の瞳を覚えている。トウトの優しい茶の目でも、シュヴァルツの夜のような瞳でもないそれは、誰のものだっただろうか。
 これ以上、その光景を見て居たくはなかった。触れたくない自分のどこかを無理やり撫でさすられているような嫌悪感と、言いようのない恐怖心が少女を襲う。いやだ、思い出したくない。息が荒れるのを感じて、少女は顔を顰めた。
 思い出したくない。知りたくない。なによりそんな弱い心を持った自分と向き合いたくない。
 風景の輪郭がぼやけていく。所詮夢でしかないそれを、目を覚ましても覚えていられるだろうか。忘れたいけれど、決して捨ててはいけない自分の断片であるような──そんな、気がした。 意識がどこか遠くと混ざるような、自分が自分でなくなるような感覚に一瞬包まれる。
 やがて目を開ければ、少女を覗き込むようにして心配そうな顔をしているトウトと目が合った。一瞬身構えるように表情を硬くしたトウトが、少女の瞳が紅に染まっていないことを確認して力を抜く。まだ外は暗く、部屋には蝋燭の明かりだけが揺らいでいる。
「大丈夫か?」
 寝起きの少女を気遣ってか、はたまた夜だからか、優しげに潜められたトウトの声が鼓膜に触れた。暖かな家族の愛だ、と少女は思う。無条件で、無償の愛だった。
「…………レイン?」
「……平気よ、少し悪い夢を見ただけ」
「……無理しなくていいんだぞ」
 ぽん、と少女の頭に乗った手のひらからは、ゆっくりとぬくもりが伝わってくる。かつての少女の強情を気遣ってか、トウトとシュヴァルツは少女が何かを堪えることをよしとしない。半分枕に沈んだ少女の頭の天辺から額にかけてを、ゆっくりと撫でられる。
 目を軽く伏せて口角をあげたトウトが、幼子をあやすように幾度か少女に声をかけた。
「大丈夫だ」
「ええ」
「俺が居るからな、レイン」
 少女に言い聞かせるような口ぶりだったけれど、それはどこか自分に言い聞かせているもののようにも聞こえた。日頃の焦燥をすべて押し殺したような表情で笑う彼に、胸がずきりと痛んだ。
「無理して笑わなくてもいいのよ」
「……無理なんてしてないさ。お前に気遣わせるまでもないよ、平気だ」
「……私はやっぱり、どこまでも妹扱いなのね、トウト」
 少女なんかより強情なのはトウトのほうじゃないか。悪夢で目が覚めたとて、抜けきっていない眠気が少女の口を滑らせた。トウトは少女を、レインを、確かに己の妹分であるコハクとして見ていた。驚いたように撫でる手を止めたトウトに、少女は続ける。
「お兄さまと呼んだほうが良いかしら」
「……レイン、お前」
「なにかしら?」
 どこかからかうように寝惚けた声で笑った少女に、トウトが一瞬俯いた。一瞬唇を噛み締めて、それから少女に向き直る。いつも通りに無理をした笑顔で笑いかけてから、トウトは手元を照らしていた蝋燭を揺らして消した。
 宵闇と静寂が部屋に訪れる。常は窓から射し込んでいる月の光も、雨模様の今日に限っては存在しない。微かに震えた声が部屋に響く。
「……明るかったら寝れないだろ」
「…………平気よ」
 暗がりのなかで震える声に、少女は何を言っていいかわからなかった。続かない言の葉の合間を縫って、雨音だけが沈黙を取り持った。
 なにかを耐えている。堪えている。きっとそれは少女のためだろう。
「…………ごめんなさいね」
「……何がだ」
「トウトとシュヴァルツは仲がいいんでしょう。私はその喧嘩の原因になっている」
「喧嘩ぐらいするよ、俺たちだって。そもそもお前のせいじゃない、あいつが……いや、俺も……」
「ええ」
「……だってあいつが、お前がお前じゃないなんて言うから」
「…………ええ」
「コハクとお前は違うとか、変なこと言うから。そんなわけないのに、お前は誰より大事な俺の家族のはずなのに」
 涙の気配がしていた。微かに鼻をすすったトウトは、吐き捨てるように言う。
「違うわけない。レインとコハクが別人だなんてありえない。だってお前は指輪も持ってるし、コハクにしか見えないんだ」
「……シュヴァルツは最初から、私とコハクが別人だと言っているけれど、心当たりがあるの?」
「ない、ありえない、そんなわけない」
 少女の言葉にかぶせるような素早い否定が、いっそ逆の意味に聞こえて仕方がない。少女も薄々思っていたのだ、話に聞くコハクと自分はあまりにも違いすぎる。記憶をどこかで失った、それだけでは済まない乖離があるのだ。
 それならば、自分は誰なのだろう。私は誰なのだろうか。どうしてここに居て、家族にさえコハクと見間違えられるような容姿をして、指輪を持っているのだろうか。
「ほんとうに?」
「……本当に」
「私が敬語を外した時に、昔の喋り方と違うって言っていたけれど」
 あくまで静かな少女の問いかけに、トウトはついには黙り込んでしまった。全てを物語る森閑に、少女は目を細めた。
 しばらくの間、透明な沈黙が部屋の中を満たしていた。やがて、何もかもを誤魔化すように、トウトが「おやすみ」と言った。ぽん、ぽんと軽く頭を数回叩かれ、その規則的な律動に、眠気がゆっくりと広がっていく。