33

「お早う、アルカディア」
 それは、次の日の朝の食事時のころだった。朝の祈りを済ませ、マーヴィとふたりでゆっくりと食事をしていた少女は、扉の開く重い音と同時に耳に入ってきたその言葉に眉を潜めた。
「おそかったのね、ウィリアム。お早う」
「元老院の議会に少しだけ参加していてね。冷めてしまったかな」
「あら……そうだったの。まだスープはあたたかいわ」
 そう言えば、ウィリアムは少し安心したように笑った。平民の出であることを気にしているのか、生まれつきなのか、彼は食事を大切にする性質だ。壁が白い石でできているこの部屋では多少分かりにくいけれど、まだ湯気が立っている。彼は表情を崩さずに粛々と食事を進めるマーヴィにも軽く挨拶をして、席についた。
 手を合わせて食前の祈りをこなしたウィリアムは、匙を持ってからくすくすと少女に笑いかける。少しからかうような意を籠めたその笑いに、少女はよく茹だった野菜を咀嚼しながら軽くウィリアムのほうを向く。
 彼はそんな少女の視線に気が付いているようだった。
「今日の朝の祈りにはマーヴィが居ただろう。そんなに寂しかったかい?」
「いつもそこに居る人がいなかったものだから。気になるでしょう」
「マーヴィには説明しておいたけれど。言わなかったのか」
 視線を向けられて、マーヴィの眉間に微かに皴が寄せられる。
「……聞かれなかったものですから。本日は私が朝の面倒を見ますとはお伝えいたしましたが」
「マーヴィの話はわかりづらいわ」
「巫女様と余計な会話をするのは憚られます」
「私がわからなかったら意味がないと思うけれど」
「きみたちは言葉を交わすとそうやって火花を散らすね、もう少し落ち着いたらどうかな。特にマーヴィ」
 その言葉にぴくりと肩を揺らしたマーヴィの横で、少女はほくほくと蒸された芋を口に入れた。父代わりであるウィリアムは、その役割とは裏腹に、物語で言う教師を思わせる雰囲気を背負っていることがある。物心ついたときから叩き込まれた学術のおかげで、部屋にある一生かかっても読み切れないほどある本はどれも難なく読むことができた。昨晩寝る前に少しだけ目を通した物語の内容を思いながら、少女はふたりの会話を眺めていた。
「何故私に言うのかしら、ウィリアム」
「齢九つの娘に簡潔な言語を理解しろなんて言わないで、もう少し交流してあげたらどうかな。憚られるなどと言ったって、僕らは選ばれた碧眼の側役なのだからね」
「ウィルが言うと突然胡散臭く……いいえ、そうね。分かってはいるわ」
「アルカディアも。マーヴィは言葉が足りないところがあるけれど、きみのことを思っているんだよ」
 食べているものを飲み込まずに声を出すのは行儀が悪い。返事を少し迷った少女は、芋を食べながら小さく何度か頷いた。何か言いたげな視線が少女を刺したけれど、そのまま沈黙が部屋に満たされた。
 しばらく食事を進めた後にふと、まるで今思い出したかのようにウィリアムが顔をあげた。少女と、既に食事を終えたマーヴィの視線を受けて、ウィリアムは残念そうに軽く目を伏せる。それからふたりに小さな声で言った。
「そういえば、収穫祭の日に外を見に行きたいと言っていた件だけど。残念ながら許可は下りなかったよ」
 その言葉に、何よりも先に反応したのはマーヴィだった。一拍置いて吐き出された長いため息のあとで、少女は軽く瞬きをした。
 ティヒエンには、年に一度決められた日に収穫祭が行われた。その一年の収穫の言祝ぎ、そして越冬前の祭事として、町をあげてのお祭りがあるのだ。昨日にお祈りに来ていた老婆の旦那が好きだという祭りである。
 その日ばかりは無礼講、普段なら寝静まっている時間帯にまで響く楽し気な喧騒に、幼い少女の心が惹かれない道理などなかった。その祭りの音を神殿の中で聞くことはあれど、少女はまず表に出たことはない。生まれてすぐに神殿に、碧眼のふたりに預けられ、神に愛された子として育てられた少女は、まず街に出たことすら一度たりとてなかった。街の最奥であり、少し高台にある神殿の入り口から、こそりと町並みの一部を眺めること程度が精々だ。
 幼いころはいつだって街に出たいとねだった時期もあったけれど、それがかなわないことは、たった九年しか生きていない少女にもよくわかった。そして六歳のころから始めたのは、収穫祭にかこつけて一日だけ外を見たいという願い事だった。
 元老院で毎年のように考えられている議題ではあるらしいが、今年も駄目だったらしい。少女は片手に持っていた匙を椀の中にするりと戻すと、不機嫌を隠さずに声を張った。
「……今年もなの? ウィリアム!」
「そう大声を出すものではないよ、アルカディア」
「あなたたちしかいないじゃない、ここには」
「ティエデールさまは見ていらっしゃる。それに、悪い知らせばかりではないよ」
 そう言うと、ウィリアムは悪戯に瞳を細めた。空の色をそのまま映したような瞳が美しく光り、少女はわざとらしく口を噤む。
「何かいい知らせがあるの?」
「ああ。今年は駄目だったけれど、十四になる年の収穫祭ならばいいと許可が出た」
 いい知らせだろう、と言いたげなウィリアムに、少女は軽く眉を潜めた。それを代弁するかのように、マーヴィの静かな声が石造りの部屋に響く。
「なぜ十四なの。あと五年もあるじゃない」
「心身ともに成熟し、現世と神の世を理解した後ならば良いと言っていたね、老院は。そもそも収穫祭は大人の無礼講が目立つものだし……年齢と立場を考えても、今のアルカディアを世俗に晒すわけにはいかないと」
 つらつらと述べられた理由に納得するところがあったのか、マーヴィは眉を潜めながらも静かに黙ってしまった。白の子は町の人に神に愛された子だと歓ばれ、髪に嫁ぐまで上質な暮らしを頂くけれど、その分町の子よりは自由がない。そんなことは、分かっている。
 それでも、日々民の祈りを聞き留める少女には、民の悲痛な声も、水龍への感謝を籠めた暖かな声も、様々なことが毎日入ってくる。柔らかい感謝や、平和な願い事を聞けば安心し、悲痛な声を聴くたびに、気配さえ感じないティエデールにただ言伝て祈ることしかできない自分を悔やんでいた少女にとって、民は近しい存在だった。彼らの祭りを世俗と呼ぶのなら、少女の預かる祈りは果たして世俗ではないのか。
「……街の人たちの祈りを聞くのは世俗、に触れることにはならないの?」
 声を荒げるなと嗜められたことも相まって、少女の疑問はごく素朴なものに収まった。ウィリアムはぱちくりと瞬きすると、どこか寂し気に笑ってみせる。
「きみは賢いね、アルカディア」
「ありがとう。それで、答えは?」
「そうだね…………まず、神への祈りと世俗は異なる。祈りは、己のもっとも真に近い部分──欲や思考の核たる部分を神にさらけ出して、赦しや願いの成就を乞うものだ。こう平たく言うと世俗的なことに思えてしまうかもしれないが、洗練された欲は美しき願い、はたまた信仰心になり得る。それを聞き留め、ティエデールさまに言伝するきみの役割は世俗と隣り合っていながら遠く離れた場所にあるんだ」
 その言葉に、マーヴィが額を二本の指で支えながら俯いた。今日いちばんに深いため息を吐いた後に、無遠慮にじとりとした視線をウィリアムに寄越す。まるで支度してあったかのようにすらすらと並べたてられたウィリアムの言葉を噛み砕いて理解を急ぐ少女を横目に、鋭い言葉をウィリアムに向けた。
「私でも理解できないような難しい言葉をつらつらと吐くのはやめなさい。私に簡潔な言葉で話すのをやめろというなら、あなたはその小難しい喋り方をやめるところからね」
「そうか……分からなかったかい? アルカディア」
「……あまり、わからなかったわ」
「そうか」
 その声に少し安堵が乗っていたのは錯覚だろうか。尚も理解を急ぐ少女を諫めるかのように、ウィリアムは再び話し始めた。
「……まあ、そうだなあ。つまり、きみは普段から町の人と関わっているのにもかかわらず、収穫祭や町に降りることそのものは世俗的なものだからと町と自分を隔てられるのに納得がいっていないのだろう?」
「ええ」
「きみが日々聞き留めている願いや祈りと、民のすべてを物語る収穫祭では、いうなれば刺激の量が違うんだ。まだ神に愛された子として授かった、人の身としてはまだ幼いきみに、その刺激は毒になる。だからもう少し待とう、それだけの話さ」
 まだ朝だと言うのに、その声音はどこか赤子を寝かしつけるような優しい声色を思わせた。まだよくわからないわ、と反駁した少女の頭を優しくなでながら、ウィリアムはいずれ分かると繰り返した。