動物の生態系について書かれた本を一通り読み終わった少女は、いったん休憩にしようと本を閉じる。碧眼として少女に仕えながらひとりの研究者として街に貢献するウィリアムに、毎日のように教鞭を振るってもらっていたおかげで、大抵の内容は理解ができる。それにしても少し重たい内容だったなと息を吐いた少女の気分を切り替えるかのように、ずいぶんと髪が伸びたね、とウィリアムが言った。
「そうかしら。幼いころに比べたら伸びたと思うけれど」
「そうだね。僕らは毎日きみと会っているから、あまり変化を感じることはないが」
「髪を切った時は?」
「そのときは流石にいろいろ感じたよ。あれも三年ほど前か」
言いながら、ウィリアムは目の前の机に置いてある本をぺらりと捲った。水龍に愛された色が白であることを所以に、ありとあらゆるものが白色を基調に作られたこの部屋に暮らすのももう長い。少女は目の前のお茶を飲みながら、微かな休憩を取っていた。
鳥の声が響いている。
「わたしが神殿に来てもう十三年。早いものね。赤子のころのことなどほとんど覚えていないけれど」
「そろそろ十四年だろう? アルカディア。赤子のころの記憶だけじゃなくそっちも忘れたのかい?」
「あと半月でしょう。覚えているわよ、流石に」
ならいい、とウィリアムはくすくす笑った。生まれてすぐに、白髪だと発覚し神殿に預けられた少女は、実の両親の顔も知らない。彼らはあくまで神に選ばれ、神の嫁となりし子を授かった名誉ある依り代なのだと──少女は教えられて育ったのだ。
「僕とマーヴィも驚いたよ。きみが生まれたときは」
「その話はなんどか聞いたわ、ウィリアム」
「年寄りは何度も同じ話をするものさ」
「あなたもマーヴィもまだ三十を過ぎたくらいでしょうに。元老院に叱られるわよ」
「それもそうだね。僕らは長の半分くらいしか生きていないからな」
まさか僕たちの時代に白の子が生まれると思ってはいなかったんだよ、とウィリアムはまた本の頁を捲る。喋りながら本を読むウィリアムは器用だなと少女は思った。
三代に一度生まれるとされる白の子は、碧眼に育てられるのが理だった。しかし、三代に一度と言われるだけあって、街に常にひとりかふたりは居るとされる碧眼の側役が実際に白の子を育てる確率はそれなりに低い。だから驚いたのだと、何度か話を聞いたことがあった。耳にたこが出来てしまうわと笑った少女に、ウィリアムはくすくすと笑って見せる。
ウィリアムとふたりの時間は長かった。父代わりというのも大きいけれど、彼といる時間は少女がマーヴィといる時間より随分長い。同じ側役としての役目を負っているはずのマーヴィだが、教育役のウィリアムと違い主に神殿や部屋、そして神殿の最奥から繋がる湖で少女が祈る際の警護を務めることのほうが多い。今日も神殿の警備の長としてどこかにいるらしい。
少女が歳を重ねるごとに、マーヴィはどこかよそよそしくなっていった。少女の母代わりであるはずの彼女だが、その態度は主君に仕える騎士そのものだ。昔から変わらないなと思いながら、少女は悪戯に聞いた。
「世の中では父と母となる人々は婚姻を結んでいるそうね」
「ああ、そうだね。急にどうしたんだい」
「私のことを実際に産んだわけではなくとも、ウィリアムとマーヴィは私の父代わりであり母代わりだわ。だからふたりも婚姻関係にあるのかと思って。どうなのかしら」
分かりやすく悪戯心を籠めた声色だったというのに、ぴしりと椅子に座っていたウィリアムの姿勢は分かりやすく傾いだ。冷静という言葉をその身に表したようなウィリアムがここまで目に見えて動揺するのも珍しい。お茶を片手にぱちくりと瞬きした少女に、ウィリアムは小さく首を振った。
「……僕とマーヴィは別に婚姻関係ではないよ」
「あら、そうなの。残念」
「本当に急にどうしたの。昨日読んでいた物語にでも影響を受けたか」
そうね、と笑った少女に、ウィリアムは頭を軽く掻いた。一拍置いて、諫めるような視線が少女を刺す。
「恋愛の物語もいいけれど。白馬の王子様だとかそう言ったことを真に受けないんだよ」
「分かっているわ。そもそも私が嫁ぐ相手は水龍さまなのでしょう、それこそ耳にたこができてしまうほど聞いたもの」
「本当にね」
珍しく読書の手を止めたウィリアムは、動揺を押し殺すようにお茶を飲んだ。数拍置いて茶を飲み干したウィリアムの肩からゆっくりと力が抜けるのを見届け、少女は軽く目を伏せる。
少女の部屋の西にある本棚には、主に学術書が置かれている。壁一面を埋めるようなそれは少女が未だ読んでいない本がたくさんあり、その中にはほんの少しだけ恋物語と呼べるような代物も混ざっていた。
恋とはどんなものかしら、と少女は思ったのだった。ただ、神に愛された子だと町の人たちに感謝され、生かされてきたこの身だ。神に嫁ぐ身だと言うのにそんなことをひとたび言えば、ウィリアムに静かに嗜められることは間違いないだろう。
それでも知りたかった。胸を焦がすと書かれたときめきはどんなものだろう。恋をしている人たちは、感情に踊らされ苦しみもがきながらも、楽しそうに生きていた。本当にそんな恋は、あるのだろうか。
ウィリアムとマーヴィが恋をしているのかと思ったけれど。少女がそう思いながら別の本に手を伸ばしたとき、ウィリアムがぽつりと零した。
「マーヴィとは長い付き合いではあるけどね」
「……あら、話してくれるの」
「面白い話でもないさ。ただ、ほとんど同時期にティヒエンに生まれた碧眼として、幼いころから一緒に育てられただけだ」
「それは知っているわ。ふたりとも全く違う青色の瞳なのにね」
「きちんと、水龍の瞳の置かれた台座に嵌まっている宝石と同じ色の瞳をもつものだよ。僕もマーヴィもね」
「分かってるわ。不思議な風習ねと言ったまでよ」
「……きみの言葉は皮肉なのかそうでないのか分かりづらいな」
皮肉なんて言ったつもりはないわ、と少女は笑って見せた。目に見えて明らかな白髪を持つ白の子と違い、光の加減や明るさによって見え方が多少変化する瞳を、これが碧眼だと判断することは難しい。
それを判断するために用いられているのが、水龍の瞳と呼ばれる大ぶりな宝石が置いてある台を飾る青い石だった。神聖なものだからと布をかけられ、民はもちろん少女でさえも簡単に触れることは赦されない水龍の瞳は、神殿の最奥である儀式の間置かれている。その台座にいくつも嵌め込まれた装飾である青い石と同じ色の瞳を持つものこそ、碧眼として神に仕えるに相応しいとしているようだった。
ふたりの瞳の色は正反対でも、台座に嵌め込まれた石の色とは一致する。ティヒエンの風習には不思議なものが多い、と少女は思っていた。
「幼いころから一緒だっただけだ。僕は男性でありながら、幼いころから力仕事などに従事せず勉学に明け暮れた。彼女は逆に、剣の道へ行った。懐かしいな」
「ええ」
「逆であって僕らは同じ道を辿ったようなものだ。だから……そうだな、互いの人生に欠けてはならない相手だ」
そう語るウィリアムは、どこか寂しそうであり、愛おしそうな瞳をしていた。恋と呼ぶにはどこか大きすぎる感情の片鱗を感じて、少女は肩を竦める。
「……とても素敵ね」
きっとそんな人は、少女のもとに現れることはないのだろう。自分は十五になれば髪の世界──そこがどこにあるのかはさっぱりわからないけれど、そこに行かなければならないのだ。最も近しい相手であるウィリアムとマーヴィでさえもが、少女を神聖なものとして扱うこのティヒエンでは、ふたりのように対等になれる相手などどこにもいないのだろう。居るとするならば、自分を待っているらしい水龍くらいのものだ。
「本当に思ってるかい?」
「ええ、勿論」
苦笑したウィリアムに、少女はそう笑って見せた。ウィリアムは一瞬眉を潜めたのちに、とても静かな口調で言う。
「きみも──そんな人と出会えることを、僕は祈っているよ。ずっとだ」
あなたこそ本当に思っているの。口から出かかった言葉をなんとか押しとどめた少女は、小さく頷いた。それを見て、ウィリアムは本の頁をゆっくりと捲って再び読み始めた。