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 結局、西のほうで起こったのは大規模な土砂崩れだったらしい。結構な数の家が巻き込まれ、被害は甚大らしい。マーヴィは少女の警護として日がな一日共にすることになったが、その分その膨大な知識を求められたウィリアムは珍しく神殿を空けることになった。
「そんなに大きな規模だったのね」
 ウィリアムが神殿を空けるのは珍しい。警護とはいえ、街の警備隊の副隊長も兼任しているマーヴィは主に神殿の外側で働いており、ウィリアムが少女に付き従っているからだ。マーヴィは、なにかの催し物事や日々の食事どき、朝晩の祈りには顔を出すことが多かったけれど、ウィリアムに比べれば神殿を空けがちだ。
「はい。南地区の畑がほとんど使い物にならなくなっています。まだ報告は聞いておりませんが、死者も相応に出たかと」
「マーヴィの実家は南地区ではなかったかしら」
「私の実の両親の家は無事だったようです」
 苦々しい表情でそう続けたマーヴィに、少女は軽く肩を竦めた。小窓から見える景色と、石造りの頑丈な神殿の中で聞くことのできる音など微量すぎて、実感が湧かない。耳に触れた轟音が消えることはないけれど、それ以上にはならなかった。
 収穫祭は粛々と続いたようだった。ただそれ自体は中止にならずとも、お祭りごとの雰囲気は損なわれ、ただの安息日のようなものになっていたらしい。土砂崩れ自体は珍しくなくとも、家が巻き込まれるような土砂崩れはやはり一大事なのだ。
「……おそらく、明日からこの件に関して祈りに来るものが増えるでしょう」
「ええ、分かっているわ。私もきちんとティエデールさまに報告しなければね」
 少女の言葉にこくりと頷いたマーヴィが、そっと窓の外を覗いた。土砂崩れが起こったのは昼下がりのことだったけれど、窓の外では既に陽が落ちている。そろそろ夜の祈りの時間だった。
 少女が無言で立ち上がれば、マーヴィがちらりと少女に視線を寄越す。朝の食事と夕の食事の前に、少女は神殿の奥の湖で祈るのだ。それは水龍に、今日の感謝と明日の安寧を願い、民の声を届ける大切なひとときだった。
 神殿は広い。少女の自室は直接神殿の本殿につながっており、部屋を出て左に進めば少女がいつも民の声を聞いている空間がある。布で区切られたそのさらに向こう側が、民が祈るための場所だった。少女が向かうのは右奥に或る宝珠の台のその真裏、これまた大ぶりな扉だ。
 その先は神聖な場所だった。少女と碧眼の者らしか入ることを許されない奥まった場所、小ぶりな湖。石造りの道を歩けば、すぐに湖にたどり着いた。
 湖の傍の定位置に控えたマーヴィを横目に、少女はゆっくりと靴を脱いだ。晒された足に寒風が吹きつけ、少女は軽く身震いをする。それも、慣れた寒さだった。
 奥に広がる湖は、水龍が棲むと言われている神聖な場所だった。巫女とはいえ、少女が足を踏み入れることを許されるのも浅瀬ばかりだ。ちゃぷ、と音を立てて湖に歩を進めれば、凍り付くような夜の冷たさが少女を刺した。白い息を吐きながら、少女は胸の前で指を組む。
 祈りの時間だった。どこにもいない、気配のひとつもない神に向かって、民の声を届ける瞬間。──同時に、自分と向き合う時間でもあると、少女は思っていた。
 冬の始まりの風にさらされながら、少女は目を伏せる。
 この町のために、私は何ができるだろうか。水に愛された街、山々に囲まれた平和な町。三代に一度生まれる白の巫女のおかげで、民の安寧の約束されたこのティヒエン。
 今発生している土砂崩れだけでなく、地盤が崩落し、土砂に埋まり、終わってしまうこのティヒエンに、何ができるだろうか。
 少女は、町一番の知識者であるウィリアムに習い、数多の知識を修めていた。読み書きに計算、植物や星、地面の何たるかにいたるまで。その途中、気が付いたのは、このティヒエンの危うさだった。
 山間部に位置するこの地の回りの山の下には、大きな地下水が流れていた。ティヒエンというこの町の真下にも大きな空洞があり、その下には湖やほかの川とつながるような澄んだ水が流れている。町の西の洞窟から行くこともできるその場所は、民の水を潤沢に保ちながらその傍ら、ティヒエンの危機を招いていた。
 崩壊が、現在間近に迫っている。この地の地盤は、地下の空洞があることにより、決して頑丈なつくりではない。勿論すぐに崩落するようなほどやわなものでもなかったけれど、数えきれないほど昔からこの地に居を構えていれば、時間と共にゆるやかに土地は死んでいく。ティヒエンの人々が住んできたこの地面が落ちるのも既に時間の問題──少女は、ウィリアムに地学を習っている途中、それに気が付いていたのだった。
 ウィリアムは、幼いころから地学を修めていたようだった。他の学問にも知見が広く、少女にあらゆる勉学を教えた彼が片手に持っている本は、いつだって地学のものだった。彼ならば、少女が彼から聞きかじった情報だけで気が付くようなティヒエンの終わりなど、とっくの昔に分かっていたのだろう。
 しかし、少女やウィリアムが考えうる残された時間より、ずっと早くに兆候が現れたことだけが──少女の気がかりだった。
 もっと遠いはずだった。ゆっくりと民を説き伏せ、どうにか救えたかもしれなかった。何十年単位の見識のずれが、この事態を招いた。崩落は始まってしまったのだ。
 どれだけ祈っても願っても、龍は答えない。おそらくは、そこに、居ない。少女の祈るこの湖はもはや空で、民の希う神など既に居ないのだ。少女が足を浸すその湖には、冷たく美しい気配が残されているだけ。ただ、それを伝えることに意味などなかった。この町に育ててもらった少女の役割は、ただ、この町を平和に保つことだけなのだ。それが、たとえば命を終えることであろうとも。この身を捧ぐことになろうとも。
「……ねえ、マーヴィ」
 ティヒエンに残された時間よりも、少女に残された時間のほうがよほど少なかった。けれど、少女が去ったあと、ウィリアムが民を説き伏せこの危険な地から退かせるほどの時間は、ティヒエンに残されてはいない。
 月夜のもとで微かに吐いたため息に載せて、少女は自嘲気味に呟いた。
「私が今、ティエデールさまに嫁げば──」
 少しでも時間稼ぎになるかしら、と思わず言いかけて、少女ははっと口を噤んだ。間違っても、そんなことを口走ってはいけない。民に混乱を招くのは、少女の真意ではなかった。
「……巫女様?」
「いいえ、何でもないわ。祝言を早めればこの騒ぎは落ち着くかと思ったけれど──そうでもないのよね」
 軽口を叩くように続ければ、マーヴィは分かりやすく眉を潜めたようだった。不機嫌そうになった声色が、咎めるように続く。
「祝言の儀が果たされるのは、心身ともに成熟してからになります」
「分かっているわ。そんなに怒らないで頂戴」
「きちんと成熟してからでなければ命の危険が伴いますから──早まらないように」
「ええ、勿論よ。変なことを言ってごめんなさいね」
 そう言って再び黙りこくった少女に、マーヴィは尖った気配をゆっくりと沈めていった。瞼を降ろしているせいで、感覚だけが研ぎ澄まされている。足元の砂利が、冷えた少女の足に鈍く痛い。それも、もう慣れてしまった。
 湖の回りに生い茂る茂みが風に揺れてざわざわと鳴いている。少女は、微かに目を開いて、月光に照る水面をゆっくりと見つめた。美しく静かな、波紋ひとつない湖。ティヒエンがティヒエンであるために必要な場所。
 少女は、収穫祭の気分にあてられたのか、はたまた魔がさしたというのが一番に正しい言葉なのか、ふとマーヴィに問いかけた。
「ねえ、儀式はどう行うのかしら」
「儀式? 祝言の儀のことですか」
「ええ。なんだかんだと、聞いたことはなかったと思って」
 現世の不浄を注ぐ、ということしか、少女には知らされていない。ウィリアムによる巧みな情報制御によるものなのだろう、少女のもとへ届く本の中にさえ、ティヒエンの歴史などは記されていなかった。ただ、少女には、それこそが答えになりうるものだった。
 己の死にざま、あるいはこの町からの追放について、少女はそろそろ知りたかった。一年もあれば、覚悟の時間はしっかりとれるだろう。
 それは、白の子の祝言などという綺麗な幕に包まれた街の平穏のための贄の儀。人々は神の世界を信じ、かつての白の子たちの死を知らない。まさに、少女の命を代償に、人々は永久の安寧と平和を手にしているのだ。それは、きっとマーヴィも。
 少女は、マーヴィなら話してくれると信じていた。少女の同性であるはずのマーヴィを少女の教育役に置かなかった彼の真意は、きっとそこにあっただろうから。
「……ウィリアムの口からきいたことはないのですか?」
「ええ、ないわね。彼から学ぶのは知識ばかりだもの。意外かしら」
「ええ、まあ……」
 斜め後ろに待機する彼女の声が、微かに遠く聞こえている。少し迷っているような沈黙があり、それからマーヴィはゆっくりと口を開いた。
「……簡単なものですよ。花の酒を飲み、それから私たち側役と共に湖の真中へ小舟で向かいます。それから、宝玉である水龍の瞳に見立てた石と共に、湖の真中で現世の不浄を流すのです。そのときだけ、私たちはこの湖に触れることが許され──それからは、水龍からの迎えを待つだけです」
「……その、花の酒というのは何の花からできているのかしら」
「確か……あそこに咲いているものだったと思います」
 そう言ってマーヴィが指さした方を振り向けば、その先にあるのは赤い花だった。少女の身じろぎで大きく湖に波紋が立つ。花を見て目を見開いた少女に気が付かなかったのか、マーヴィは少しだけ口角を上げた。
「私はウィリアムと違い細かな花の名前などは答えられませんが、美しいと思います」
「…………ええ、そうね。綺麗だわ」
「──巫女様?」
 少女の震えた声に、マーヴィはようやく少女のほうを振り向いた。夜の闇をいいことに青ざめた表情を隠すように俯いた少女は、確かめるように湖の中で一歩踏み出した。
 マーヴィが指し示した花は、眠りを誘う効果を持つ花だった。とても強い効能を持ち、薬にも使われるようなもの。花の酒になどすれば、ひとくちでたちまち立っていられないほどの眠気を誘うものとなるだろう。それを飲んでから、湖の真中で不浄を注ぐなど、それがどのような出来事でさえ自分の意識の儘にはできないことだ。
 長く続く祈りの日々の中、側役と会話を交わすことは珍しいことではない。ずっと言葉を交わしていれば諫められるものの、多少の気晴らしは見逃されている。けれど、祈りの最中の少女が歩くなど──本当に幼く、集中力など微塵もなかったころ以来ではなかろうか。
 巫女様、と焦ったようなマーヴィの声がした。それにも関せずもう一歩と進めば、足首まで浸っていた水がすこし水位を上げてみせる。このまま進めば、少女の身は湖の奥深くに沈んでしまうだろう。
 確かめるまでもなく知っていた。陽が出たばかりの明るい朝の祈りの刻、少女はずっと見ていたのだ。この湖は、少女の立っている場所から少し進めば真っ暗な深い湖であることを。ある一瞬から水面から水底が見えなくなっており、そここそが水龍の住む場所と言われていることを。
 一瞬で吐き気と寒気が込み上げる。少女の足に一瞬で力が抜けて、湖に膝をついてしまう。声を荒げたマーヴィが、湖の外周を回り、迷ったように周りを見渡す。神聖な湖に足を踏み入れてはならない、という訓戒は彼女の中に強く根付いていた。
 少女が、白の子の慣習について確信を持っていなければ、それほど気にも止めなかったであろう手順だった。だが、少女は知っている。この町に白の子の墓はなく、十五で神に嫁ぐという名目のもと、なんらかの手段でこの町から消えていることを。かつての白の子、そしてティヒエンの歴史について、どこまでもウィリアムが隠し通していることを。そこに秘密があるということこそが証に成り得るように、少女はこの町で生きていくうちに気がついていたのだ。
 ただ、少女は早くに情報を得たかっただけだった。自分を育ててくれた町に、民のために命を捧ぐことに抵抗などなく、苦しみは厭わしく命は惜しくとも覚悟は決めていたい。それだけだったというのに。
 これほどまでに美しい布に覆い隠された真実は、少女が思っているよりも残酷だった。
 この湖の底に眠っているのは水龍ティエデールなどではない。神話になるほど昔、水龍ティエデールがティヒエンを創ったとされる時から続く「白の子」の慣習の末に生まれた──数多の白の巫女であろう。
 これほど大きく澄んだ湖なのだから、山の下に広がっていく地下水につながっていることは明白だったけれど、少女は一瞬それも忘れて眩暈を覚えた。どれだけ知識として、循環する湖と知っていたとしても、頭に浮かんでしまった恐ろしい想像を掻き消すことは難しい。
 込み上げる吐き気の儘咳き込んだ少女に、マーヴィの声が触れる。ああ、やってしまった。ただ無反応でさえいれば良かったというのに。思ったよりも動揺を露にしてしまったと後悔する少女の瞳に、生理的な涙が浮かんでいた。
「……平気、よ」
「そう言われても信じられません、動けますか、巫女様」
「本当に、平気だから……なんともないわ。すぐ落ち着くから」
 片手でマーヴィを制した少女に、マーヴィはどうしていいやらわからない様子だった。荒げた息を必死に整え、少女は目を伏せる。はらりと風に舞った髪の先が湖に触れて、じとりと濡れていた。
 落ち着かなくては。彼女に悟られてはいけない。湖には、少女が必死に息を吐き、吸う音だけが響いていた。やがてしばらくの時を置いて、少女はゆらりと立ち上がる。
「……今日の祈りは切上げましょうか。このような醜態をティエデールさまに晒してはいけないわ」
 その言葉に、マーヴィは頷くしかできないようだった。