04

 コハクという人物は肝が据わっていたのだろうか、と少女はぼんやり思った。太陽の光に目を刺され起床した少女は、自分でも驚くほどに深い眠りについていたようで、夢の一つも見た記憶はなかった。記憶喪失ともなれば不安感から眠れない──なんてことはありがちなのだろうが、そういえばそんなことはなかったなと思い返す。
 彼らについていくときも、彼らの話を聞いている時も、不思議と恐怖や不安はわいてこなかったし、思い返せば自分でも驚くほどに冷静だった。精神的にこんがらがった状態すぎてむしろ冷静なのかとも思ったものの、ひと眠りした後でもその冷静さが欠かれることはない。むしろ頭がすっきりとして考え事が捗りそうである。そういえばあの二人も、出会い頭以外は割と冷静だった。自分も彼らの家族なのだから、その特性を受け継いでいるのかもしれない……いや、彼らこそ驚きからくる一時的な冷静さなのかもしれないが。
 コハクという人物は肝が据わっていて、決断力のある人だった──それは、少女がその朝の下した、記憶を失う前の自分に対する印象である。記憶を失ったくらいで人格が早々変わるとは思えない、人とはそう簡単には変われないものだ。湖で目覚めたときと同じように両手を開いたり閉じたりしてみたのちに、少女はゆっくりと立ち上がって居間へと向かった。
 居間にはすでに目を覚ましていたらしいトウトとシュヴァルツの二人がいた。快活な笑顔でおはようと声をかけてくるトウトに対し、シュヴァルツは少女を一瞥したのちに小さな声でおはようというばかりだ。ふたりにぺこりと頭を下げたのち、トウトに手で指されるままに椅子に座る。
「気分は? ちゃんと寝れたか?」
「おかげさまでぐっすりでした」
「そうか、ならよかった」
 なにやら作業をしているらしいトウトは立ち上がってから自分の手をはたくと、すっと手を伸ばして少女の頭を掻き撫でた。ぐしゃぐしゃと髪が乱れる感覚がしてトウトのことを見上げるも何でもない顔で首を傾げるばかり。これが恒例だったのだろうか。人に頭を撫でられる経験など──記憶がないのだから当たり前なのだが──なかったから、少し照れてしまう。
 柔く微笑み返せば、トウトのほうも歯を見せて笑ってみせる。
「今はちょっと手が離せねえけど、あとでちゃんと話そうな。多分聞きたいこともあるだろうしさ」
「お気遣いありがとうございます、お願いします」
「そんな畏まんなって。話すのはシュヴァルツ、お前もだぞ。いいな?」
「……別に」
「折角コハクが帰ってきたんだからしっかりしろよ」
 シュヴァルツはトウトにそう言われて、ふうとひとつため息をついた。手元に持っているのはどうやらちいさな刀のようで、もう片手に持っている皿らしきものを彫っている様子だった。お仕事中なのだろうか。
 トウトもトウトで、何かを削っている様子だった。シュヴァルツが皿という調度品を飾り付けているのに相対して、トウトはなにやら弓矢らしきものを作っている様子だ。昨日周りを見た限り、家の裏の畑以外に近くに街がある様子はない。自給自足の生活なのだろう。
「コハクはなんかしたいこととかあるか? 記憶の手がかりになりそうなこととか」
「したいこと、ですか」
「したいこと。なんでもいいぜ」
 木が削り落とされていく音が響いている。少女は机に頬杖をついて、顎を手に預けた。したいこと、と問われても特にはないような気がした。現状把握のために過去の自分の話は聞いておきたいけれど、それはすでに叶うと約束されている。それ以外になにかしたいことと言えば。
「貴方たち以外に私のことを知っている人からもぜひ、お話を聞きたいです」
「あー……悪いな、それは無理だ。今んとこコハクのことを知ってるのはこの辺りでは俺たちだけなんだ」
「そうでしたか。私たちの親類は遠方に?」
「……ええっとな、待ってろ、そこらへんは後で詳しく話すけど……とりあえず俺たちの親はもういないんだ。お前のことを知ってるのは俺たちと、昔住んでた町の住人の数人だけだ」
 わかりましたと頷きつつ、少女は呆れて目を瞬いた。自分はどんな生活を送っていたというのか。町が近くにないのだから仕方ない話ではあるのだろうけれど、あまりにも人に記憶されていない生活を送っている様子だ。家から出なかったのか、はたまた何か悪行でも犯したのか──コハクの家族である二人は悪人にはまるで見えないし、あの二人が悪行をした家族を庇い囲い込むような真似をする性格とも思えないので、前者のほうが可能性が高いだろうか。ふわふわと靡いて落ちてくる髪を耳にかけながら、少女はゆっくりと息をつく。
 この人たちと出会えて、相当運が良かった。あのまま夜が明けて、情報収集に近場の町に行ったとしても、あのまま誰かが通りすがるのを待っていたとしても、だれも自分のことは知らないわけだ。あの深そうな森の中で彼らに出会うのは相当な運が必要だっただろう、本当に命拾いした。
 そこまで考えて、少女はふと思い立った。
 ……したいこと。私の記憶を取り戻すきっかけになりそうなこと。後者に関しては保証できないけれど、したいことならばあるかもしれない。
「行きたいところならあります」
「お、どこだ。近場なら散歩ついでに行って話すのもいいな」
「湖に」
 少女がそう言うと同時、トウトの手から工具が滑り落ちる。ごとりと威勢のいい音を立てて床にぶつかったそれに、少女は驚いて肩を跳ねさせた。それに前後するように、出会ってからほとんどの時間を無表情で(たいして長い時間を共にしたわけでもないが)貫いてきたシュヴァルツが顔を顰め、椅子を蹴倒して叫んだ。
「駄目だ!」